第58話「一ヶ月あれば十分」
「課長、少しお時間いいですか」
翌朝、始業前。村瀬が出社してコーヒーを入れたのを見計らって、声をかけた。
「転職することにしました。来月末で退職したいのですが」
村瀬はカップを置いた。しばらく黙って、それから口を開いた。
「そうか。暁光さんか?」
「はい」
「……まあ、うちじゃ連結もないしな。内田くんの実力なら、上場企業のほうが力を発揮できるだろう」
引き止めはなかった。村瀬は管理職の表情に戻って、スケジュールの話を始めた。十月の一ヶ月で引き継ぎ。十一月は有給消化。退職日は十一月三十日。
「引き継ぎの相手は吉田だな。大丈夫か、一ヶ月で」
「十分です。引継書を作りますし、月次決算も一緒にやれますから」
村瀬はうなずいた。内田も立ち上がった。これで決まった。
九時半に吉田が出社して、内田は簡潔に伝えた。
「俺、来月末で辞めるから。引き継ぎ、一ヶ月やるんでよろしく」
吉田は目を見開いた。
「え……内田さんが辞めるんですか」
「転職。もう少し大きいところで経理やってみたくて」
吉田はしばらく固まっていたが、すぐに「分かりました」とうなずいた。不安は顔に出ていた。当然だろう。経理の実務を内田が抜けて回せるのか。だが、一ヶ月あれば大丈夫だ。
*
十月第一週。引き継ぎが始まった。
まず引継書を作る。パソコンに向かって、自分の業務を書き出した。
一、月次決算。
二、四半期消費税申告。
三、振込処理。
四、予算実績管理。
五、銀行対応。
六、年末調整。
七、法人税申告。
七項目。多くない。それぞれの手順を書いていく。「会計ソフトにログイン」「仕訳を入力」「試算表を出力して確認」。消費税申告は「会計ソフトから自動集計してeLTAXで提出」。振込処理は「ネットバンキングにログインして取引先リストの順に処理」。書いてみると、どれも単純な操作の連続だった。手順を並べるだけだから、一つの項目に三十分もかからない。
A4で十五枚。書類のフォルダ構成、使用するシステムのマニュアル、取引先の連絡先リスト、年間の締め日カレンダー。必要な情報は全部入れた。
(こうやって整理してみると、そんなに多くないな)
吉田にファイルを渡した。吉田は丁寧にページをめくって、付箋を貼っていった。
「内田さん、分かりやすいです。これなら大丈夫そうです」
「まだ書類だけだから。来週から実際にやってみよう」
*
第二週。十月の月次決算を一緒にやった。
内田が隣に座って、吉田がキーボードを叩く。売上伝票の入力。仕入伝票。経費。振替。
「この順番で入力していって。売上、仕入、経費、振替の順」
「はい」
吉田がメモ帳に順番を書いた。しばらく入力を続けてから、聞いてきた。
「この入力、順番って関係ありますか? 効率だけの話ですか」
「まあ、この順番でやっておけば間違いないよ。消費税の計算がきれいに回るから」
間違いない。十年間そうしてきた。理由を聞かれると、うまく説明できない。五年前に順番を変えたら数字がおかしくなった。それ以来、この順番を守っている。だが「数字がおかしくなった」の詳細は、もう覚えていない。確か消費税の端数処理が狂ったはずだ。再現手順も分からない。この順番でやれば問題は起きない。それだけ知っていれば十分だ。
振込処理も見せた。月末にまとめて処理する手順。取引先ごとの振込先口座を確認して、金額を入力して、承認ボタンを押す。
「月末になったらこの画面を開いて、リストの順に処理していけばいい」
吉田が手順をメモに取っている間、内田はふと丸川化学のことを思い出した。二十五日前払い。今月も二十五日に自分で済ませた。吉田に見せようかとも思ったが、振込処理のレクチャーは月末分だ。丸川化学の件は来月、吉田が一人でやるときに気づくだろう。引継書の「振込処理」の項目には月末の手順しか書いていない。二十五日の処理は書かなかった。別に隠したわけではない。振込処理といえば月末のことだ。当たり前すぎて、引き継ぐ項目だと思わなかった。
第三週。銀行訪問。
央都銀行の支店に吉田を連れていった。駅前のビルの三階。カウンターで法人担当を呼んでもらうと、早川が奥から出てきた。応接室に通されて名刺交換。
「今後はこちらの吉田が担当しますので、よろしくお願いします」
「承知しました。内田さんにはお世話になりました」
早川は吉田に丁寧に挨拶した。だが帰り際、内田にだけ小声で言った。
「内田さんがいなくなるのは痛いですね。後任の方、数字の読み方とか大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。ちゃんと引き継ぎましたから」
早川は笑ってうなずいた。七年の付き合いだ。月次の数字を持って面談して、融資の相談をして、金利の交渉をしてきた。その関係は名刺交換では引き継げない。だが、そのことに内田は気づいていなかった。
Excelファイルの使い方も教えた。予算実績管理。
「このボタンを押せば部門別の原価が出るから。月末にこれを印刷して、村瀬さんに出してくれれば大丈夫」
「マクロの中って、いじることありますか?」
「ないよ。ボタン押すだけだから」
四月のマスタ更新のことは一瞬頭をよぎった。部門コードが変わったときに参照先を書き換える作業。だが半年先の話だ。行う必要があるかはその時にならないとわからない。指示は上から来るはずである。
*
第四週。吉田が一人で回す番だった。
内田は隣のデスクに座って、自分の私物を段ボールに詰めながら、横目で見ていた。吉田は引継書を開きながら、一つずつ手順を確認している。質問は的確だった。「この消費税区分、軽減税率のやつですか」「銀行の届出印、どの引き出しですか」。内田はすぐに答えた。
十月分の月次決算。吉田が主担当で、内田が横で見守る。売上、仕入、経費、振替。順番通りに入力して、試算表を出した。借方と貸方が一致。問題ない。
「大丈夫じゃん。ちゃんとできてるよ」
「内田さんがいるから安心なんですけど……」
「引継書もあるし、困ったら税理士の先生に聞けばいいから。俺もそうやって覚えたし、やってるうちに分かるよ」
本気でそう思っていた。経理の仕事は手順の集合だ。手順を覚えれば、誰でもできる。内田はそうやって十年やってきた。
十月三十一日。最終出勤日。
午前中に私物の最終整理をした。デスクの引き出しから出てきたのは、古い電卓と、取引先のカレンダーと、十年分の名刺の束。名刺は捨てた。電卓は入社一年目に買ったもので、ボタンの印字がかすれている。持って帰ることにした。
夕方、近くの居酒屋で送別会があった。村瀬と吉田と、総務の何人かが来てくれた。ビールで乾杯して、村瀬が「十年間ありがとう」と言った。吉田が花束を渡してくれた。
「内田さん、本当にお世話になりました」
「こちらこそ。何かあったら連絡してね。LINEでも電話でも」
二次会には行かなかった。翌日から有給消化だ。酔いの残る頭で仕事をする必要はもうない。村瀬が「本当に助かったよ」ともう一度言って、握手した。吉田は小さく手を振った。
店を出て、夜の道を歩いた。十月の空気が冷たい。居酒屋の油の匂いがコートについている。十年間通った道。工場の外灯がオレンジ色に道を照らしている。駅まで十五分。この距離も今日が最後だ。
電車に乗った。吊り革につかまって、目を閉じた。
引き継ぎは終わった。引継書A4十五枚。一ヶ月のレクチャー。吉田は十月の月次決算を一人でこなした。質問にも答えた。銀行にも紹介した。やるべきことはやった。
今朝、村瀬に最後の報告をした。
「課長、引き継ぎは済んでます」
自信があった。一ヶ月かけた。手は抜いていない。ちゃんとやった。
明日からは有給消化だ。一ヶ月の休み。それが終われば、暁光産業の社員になる。
電車の窓に映る自分の顔が、一ヶ月前より少し軽く見えた。肩の力が抜けている。




