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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『引き継ぎは済んでます』

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第57話「内田靖の月次決算」

 午前九時。会計ソフトのログイン画面が開く。

 内田靖はパスワードを打ち込んで、九月の月次決算画面に入った。瑞和精工株式会社の経理課。このログイン画面を月末に開くのは、もう百二十回目になる。


 まず売上伝票を入力する。

 売上、仕入、経費、振替。この順番。前任者に「この順で入れろ」と言われて、十年間変えていない。一度だけ仕入から入れたことがある。消費税の自動計算の数字がおかしくなった。以来、言われた順番を守っている。理由は知らない。たぶんソフトの仕様だろう。この順番でやれば問題は起きない。だからこの順番でやる。


 キーボードを叩く音だけが、朝の経理課に響いている。隣の製造部からプレス機の低い振動が床を伝ってくる。

 経理課のデスクは三つ。窓際が村瀬課長、真ん中が内田、入口側が吉田。課長は九時十五分に来る。吉田は九時半。内田が先に入って、ログインして、入力を始める。十年間このリズムで回してきた。


 九月分の売上仕訳を三十二件入力した。次に仕入。四十八件。金額の大きい案件から入れていく。瑞和精工は精密ボルトと締結部品のメーカーで、仕入先は十二社ある。それぞれ支払条件が違う。月末締め翌月末払いが基本だが、例外がある。

 丸川化学への振込は、五日前に済ませてある。毎月二十五日までに前払いすると、二パーセントの値引きが適用される。月の仕入額が平均七百五十万円だから、差額は約十五万円。年間で百八十万円。内田は入社二年目にこの条件を見つけて、以来毎月二十五日に処理している。経理課の誰に言われたわけでもない。契約書の備考欄に一行書いてあるのを読んで、自分で気づいた。


 九時四十分。吉田が出社した。


「おはようございます」


「おはよう。コーヒー、入れたばっかりだよ」


 吉田麻衣、二十五歳。入社三年目。経理課のもう一人のメンバー。日常の伝票処理と給与計算は吉田が担当している。月次決算と税務申告は内田。経理課長の村瀬は管理職で、実務にはほとんど入らない。三人の課だが、実質は二人で回している。

 吉田がマグカップを持ってデスクに座った。コーヒーの匂いが漂う。しばらくして声をかけてくる。


「内田さん、この仕訳の税区分なんですけど。丸城建材、十パーセントでいいですか」


「ああ、そこは免税だから。税区分を経過八割に変えて」


「免税の取引先って、ほかにもあります?」


「うん。鷹匠商事と、小田原プレスと、北藤サービスと、ハセダ工業。この五社。それ以外は十パーセントのままでいい」


 吉田がメモを取った。内田は画面に戻った。免税事業者のリスト。どこかにまとめておいたほうがいいかもしれない。去年のインボイス制度開始のとき、自分で確認して頭に入れた。ファイルには残していない。五社くらいなら頭に入っている。書くほどのことでもない。吉田が担当することはないし、四半期の申告時期になれば自分が処理する。ずっとそうしてきた。



 十時半。電話が鳴った。


「瑞和精工、経理課です」


「あ、内田さん? 央都銀行の早川です。お疲れさまです」


 メインバンクの法人担当。月に一度は電話か訪問がある。内田が入社三年目のとき、早川が異動してきた。以来七年の付き合いだ。


「来月の短期借入の件なんですけど、金利、もう少し下げられそうなんですよ。一・一五でどうですか」


「ありがたいです。今が一・二ですよね」


「ええ。御社の直近の決算を見ると、もう少し余裕がありそうなので。来月の訪問のときに正式な書面持っていきますね」


「分かりました。村瀬にも伝えておきます」


 電話を切った。金利が〇・〇五下がると、年間で約十五万円の利息削減になる。大きな額ではない。だがこういう調整は、電話一本の関係から生まれる。早川とは月に一度、決算の概要を持って面談している。売上の推移、借入の返済状況、来期の設備投資計画。早川がそれを本店に上げる。情報の出し方にもコツがある。利益が出た月は数字を素直に見せる。赤字の月は理由を添える。七年かけて作った関係だ。

 内田は受話器を置いて、月次決算の画面に戻った。経費の入力に入る。交通費、消耗品費、外注費。二十三件。一つずつ確認しながら入力する。


 十一時半。売上・仕入・経費の入力が終わった。最後に振替仕訳を六件入れて、試算表を出力する。借方と貸方が一致。消費税の自動計算も問題ない。

 毎月同じ手順。同じ順番。同じ確認。


(この仕事、やり方さえ覚えれば誰でもできるんだよな)


 内田は試算表を印刷して、村瀬の机に置いた。



 昼休み。

 自分のデスクでコンビニのおにぎりを食べながら、スマホを開いた。梅の酸味が口に広がる。メールが一件。


 暁光産業株式会社 人事部。

 件名:選考結果のご連絡。


 先日の最終面接の結果、内定とさせていただきます。想定年収は六百二十万円。


 現在の年収は五百二十万円。百万円のアップ。

 暁光産業は東証スタンダード上場の産業機械メーカー。社員八百名。経理部は十二名体制。瑞和精工とは規模が違う。連結決算がある。開示資料の作成がある。今の仕事にはない経験が積める。


 内田はメールを閉じた。おにぎりの最後のひと口を飲み込んで、お茶で流し込む。窓の外では工場の敷地にトラックが入ってくるのが見えた。午後の仕事に戻った。

 予算実績管理のExcelファイルを開いて、マクロのボタンを押す。部門別の原価が自動で集計される。このマクロは三年前に内田が自分で組んだ。VBAで二百行ほど。部門コードと勘定科目のマスタテーブルを参照して、仕訳データからピボットを作る仕組みだ。


 吉田はこのファイルの使い方を知っている。ボタンを押せば数字が出ることは知っている。だがマクロの中身は見たことがない。内田も見せたことがない。ボタンを押せば動く。それ以上、何を知る必要がある。


 一つだけ、年度替わりに手動で直す箇所がある。部門コードのマスタテーブルだ。去年、製造二課が技術課に統合されたとき、マスタの参照先を書き換えた。これをやらないと集計が狂う。毎年四月の第一週にやっている。その手順は、どこにも書いていない。書く必要を感じたことがない。四月になれば自分がやるから。



 十七時半。定時。

 内田はパソコンの電源を落として、鞄を持った。


「お先に」


「お疲れさまです」


 吉田が顔を上げた。村瀬は会議中でまだ戻っていない。

 正面玄関から出ると、九月末の空はもう暗くなりかけていた。工業団地の道を駅まで十五分歩く。空気が変わっている。朝は汗ばんだシャツが、今はひんやりと肌に触れる。夏が終わる。


 電車に乗って、スマホを開いた。暁光産業のメールをもう一度読む。返信期限は十月三日。窓の外が暗い。九月末の日没は早くなった。この路線を十年、毎日乗っている。車内の匂いも、揺れの癖も、身体が覚えている。

 瑞和精工に十年いた。経理の仕事は全部覚えた。月次決算も、四半期申告も、予算管理も、一人で回せる。やり方は分かっている。分かっているから、もう新しいことがない。

 暁光産業なら、連結決算がある。開示書類がある。ステップアップしたい。百万円の年収アップ。瑞和精工に不満があるわけではない。ただ、十年いて、学ぶことが残っていない。


 内定承諾のメールを打った。件名に「内定承諾のご連絡」と入れて、文面を二度読み返してから送信を押した。画面が切り替わって「送信しました」の表示が出た。

 明日、村瀬課長に退職を伝えなければならない。引き継ぎは一ヶ月あれば十分だろう。引継書を作って、月次決算を一緒にやって、システムの操作を見せれば済む。吉田は三年目だ。基礎はできている。真面目だし、分からないことは聞いてくる。あとは経験を積むだけだ。


 電車の窓に、自分の顔がぼんやり映っている。三十三歳。十年間、同じ会社で、同じデスクで、同じ会計ソフトを開いてきた。明日からそれが変わる。


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