表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『パートさんには任せられないから』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

56/76

第56話「パートの時給で」

 十一月の雨。

 朝六時。裏口の鍵を開けて、バックヤードの蛍光灯をつける。栗田が最初に来る日が増えた。山岸さんより早く来て、冷蔵庫の中を確認して、フライヤーの電源を入れる。二ヶ月前には知らなかった手順が、身体に入り始めている。


 着任から二ヶ月。数字は少しずつ戻り始めていた。

 廃棄率、十パーセント。先月の十二パーセントから改善したが、関口さん時代の五パーセントにはまだ遠い。売上は前年比九十パーセント。底は打った。だが戻りきっていない。



 栗田はこの二ヶ月で、やり方を変えた。

 恥を捨てた。正社員のプライドを下ろした。メモ帳を一ページずつ読みながら、山岸さんに聞いた。


「関口さんは雨の日、煮物をどのくらい増やしてましたか」


「二割くらいかしら。揚げ物は逆に減らしてたわ。雨の日は揚げ物を買って帰る人が少ないの」


 小林さんにも聞いた。


「パック詰めの量、関口さんはどうしてました?」


「五百八十円の幕の内は、ちょっと多めに盛ってたんです。あのお弁当は常連さんが多いから、量が少ないと気づかれるって」


 野口さんには聞けなかった。野口さんは聞かれる前に教えてくれた。閉店後のモップがけの途中で、ぽつりと。


「ミヨちゃんはね、揚げ油を三日で替えてたよ。マニュアルは五日だけど」


 三日。マニュアルは五日。油を早く替えれば味は良くなるが、コストは上がる。そのぶんを、どこで吸収していたのか。たぶん、肉の仕入れや野菜の選び方で帳尻を合わせていたのだろう。

 一つ一つは小さなことだった。だが、その小さなことが何十個も重なって、惣菜部門の味と利益と客足を支えていた。


 先週の金曜日。唐揚げを三倍仕込んだ。十三時半まで棚に唐揚げパックが並んでいた。売り切れなかった。九月の金曜日、棚が空になった屈辱を栗田は忘れていない。

 佐藤さんの携帯番号も登録した。先週「ムネ肉安いけどどうする?」と電話が来たとき、即答した。「十五キロお願いします」。メモ帳に書いてあった数字だ。佐藤さんは「おっ、関口さんと同じだね」と笑った。同じ数字でも、関口さんは即答だった。栗田はメモ帳を見て答えた。メモがなければ「確認して折り返します」と言うしかなかった。

 少しずつ、追いついている。だが「少しずつ」では足りない仕事の量がある。



 一人では回らなかった。

 発注、原価管理、シフト作成、業者対応、売場管理、月次報告。関口さんがやっていた仕事に加えて、正社員チーフとしての業務がある。本社への報告書、店長会議への出席、棚卸し。

 調理の現場にも入る。山岸さんが休みの日はフライヤーの前に立つ。小林さんが休めば盛り付けもやる。十月の最終週は四日連続で朝五時半に来た。田代店長には言っていない。関口さんも同じことをしていたと山岸さんに聞いた。六時のパート開始前に来て、仕込みを始めていた。三十分のサービス残業。時給は出ない。

 十月の栗田の労働時間は二百三十二時間だった。月の所定労働時間は百七十六時間。残業が五十六時間。このまま続けるのは無理だった。

 月曜日の夜、翌月のシフトを組みながら考えた。正社員の増員は現実的ではない。だが、短時間のバイトを一人入れてもらうだけでも、現場は楽になる。


 十一月第二週の金曜日。閉店後、田代店長の事務室に行った。


「店長、お時間いいですか。惣菜のことで相談が」


「うん。座って」


 栗田はパイプ椅子に座った。田代は手元のスポーツ紙を脇に寄せた。


「短時間でいいので、バイトを一人入れてもらえないでしょうか。洗い場と盛り付けだけでも手が足りなくて」


「バイトか。まあ、それくらいなら何とかなるだろう。前は関口さんが一人で回してたけどな」


「関口さんは、正社員チーフの仕事をパートの時給でやっていたんです」


 栗田は言った。二ヶ月間、ずっと考えていたことだった。


「発注も、原価管理も、シフトも、業者対応も。全部です。松島さんが辞めてからはチーフの仕事まで。パートの時給で」


 田代は腕を組んだ。


「……まあ、関口さんは長かったからな」


「はい。だから引き継ぎもなかったし、マニュアルにも載ってない。九年分が全部、関口さんの頭の中にあったんです」


「バイトは手配する。ただ、発注とか業者対応とか、責任ある仕事はパートさんには任せられないからな。そこは栗田くんがしっかりやってくれ」


 栗田は「はい」とだけ答えた。

 パートさんには任せられない。関口さんの正社員登用の話が、過去に二度出ていたと山岸さんに聞いた。二度とも見送られた理由も同じだった。パートさんには責任ある仕事は正式には任せられないから。任せられないと言いながら、九年間任せていた。そしていなくなったあと、二ヶ月経っても、その穴は埋まらない。

 バイトが一人来ても、洗い場と盛り付けが楽になるだけだ。発注も原価管理もシフトも、全部栗田がやる。関口さんが一人でやっていたことを、栗田も一人でやっている。ただし関口さんはパートの時給で、栗田は正社員の月給で。それでも廃棄率は関口さんの倍だ。

 田代が事務室を出ていった。栗田はパイプ椅子に座ったまま、蛍光灯を見上げた。

 足りないのは人手ではない。九年分の蓄積だ。それは人を雇っても手に入らない。

 関口さんはそれを知らない。「パートだから、次の人がすぐ覚える」と思って去った人だ。次の人は、二ヶ月かけてもまだ覚えられていない。

 栗田は立ち上がって、バックヤードに戻った。



 バックヤードに一人。

 デスクの脇のメモ帳を開いた。三冊目の最後のページ。関口さんの字。八月の走り書き。


 「9月第1週 標準発注量入力済み」

 「佐藤 携帯→店番号伝達済」

 「浜田 LINE→店番号伝達済」


 最後のページだけ、字が少し丁寧だった。引き継ぎはいらないと言われた人が、それでもメモ帳の最後に、次の人への手がかりを残していた。

 栗田はメモ帳を引き出しにしまった。引き継ぎ書の代わりにはならない。でも、これが関口さんが九年間で残した唯一のものだ。引き継ぎはいらないと言われて、それでも最後のページに、できることだけは書いていた。


 天気予報を見た。明日も雨。

 発注端末に向かう。煮物の仕込みを二割増やし、揚げ物を一割減らした。「雨→煮」。もう意味は分かる。

 メモ帳の横に、栗田のノートがある。百円ショップで買った大学ノート。表紙に「惣菜メモ」と書いた。今日も一行書き足した。


 「雨の日——煮物+二割、揚げ物-一割。弁当は減らさない。サラダ△」


 関口さんの走り書きと並べると、丁寧すぎて恥ずかしい。関口さんは「雨→煮」の三文字で済んでいたことを、栗田は二十文字かけて書いている。身体で覚えた人と、文字で追いかけている人の差だ。それでも書く。書かなければ、来月の自分も同じ間違いをする。


 関口さんは今頃、大阪で新しいスーパーのパートを探しているかもしれない。面接を受けて、エプロンを結んで、また一から覚え直す。九年分の蓄積はここに置いていった。メモ帳三冊と、山岸さんたちの記憶の中に。持っていけなかった。パートだから。向こうで見つけたスーパーでは、また最低時給に近い金額から始めるのだろう。九年分の経験は、履歴書の一行にしかならない。


 エプロンのポケットに手を入れた。関口さんはいつもここにメモ帳を入れていたと、小林さんが教えてくれた。栗田もそうしている。ポケットの中でボールペンに触れた。

 明日の朝は五時半に来よう。雨の日は煮物の仕込みが多い。六時からでは間に合わない。

 蛍光灯を消した。裏口の鍵を閉める。十一月の雨がまだ降っている。傘を開いて、駅までの道を歩く。

 関口さんも、こうして一人でバックヤードの鍵を閉めていたのだろう。九年間。フライヤーの油を濾して、調理台を拭いて、メモ帳をポケットに入れて、鍵を閉めて。その手順を、栗田はゆっくりと引き継いでいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ