第55話「誰が値段を決めてたの」
廃棄率、十二パーセント。
十月。着任から一ヶ月。田代店長に送る月次報告の数字を、栗田はパソコンの画面で見つめていた。
関口さんの頃は五パーセント以下だったと、山岸さんが何度も言う。倍以上だ。売上は前年比八十五パーセント。原価率は三ポイント悪化。惣菜部門の数字だけが、店全体の足を引っ張っている。
九月の棚卸しで、廃棄になった惣菜の段ボールが積み上がった。売れ残りの弁当、乾いたサラダ、色の変わったコロッケ。一ヶ月で、関口さん時代の半年分の廃棄が出ていた。
*
朝の仕込み。山岸さんの声が飛んでくる。
「栗田さん、今日の肉じゃが、じゃがいもの量これでいいの」
「マニュアル通りですけど」
「マニュアル通りにすると原価が合わないのよ。じゃがいもが先月より二割上がってるの」
「じゃあ、量を減らしますか」
「量を減らしたら見た目がスカスカになるでしょ。関口さんは、じゃがいもが高い月はこんにゃくを増やしてたわ。見た目の量は変えずに原価を下げるの」
栗田は冷蔵庫を見た。こんにゃくは確かにある。だが、マニュアルのどこにも「じゃがいもが高い月はこんにゃくで調整する」とは書いていない。
「それ、マニュアルには」
「載ってないわよ。関口さんが自分で考えてたことだもの」
山岸がフライヤーの温度計を見ながら、栗田に背を向けたまま言った。
「誰が値段を決めてたの、この店の惣菜。関口さんでしょう。マニュアルの値段で出すだけなら、原価がどうなったって知らないわよ」
栗田は何も返せなかった。マニュアルの値段。三百九十八円の日替わり弁当。四百九十八円の唐揚げ弁当。五百八十円の幕の内。値段は決まっている。だが、その値段で利益が出るように材料の中身を調整していたのが関口さんだった。
値段と原価の間にある隙間を、九年間埋め続けていた人がいた。
唐揚げ弁当、四百九十八円。鶏肉の仕入れ値が上がった月はどうしていたのか。山岸さんに聞いた。
「ムネ肉の比率を増やすのよ。モモだけだと原価がきついときは、ムネを混ぜて揚げるの。ムネだけ少し下味を濃くして、食感が変わらないようにする。お客さんは気づかない。関口さん、ずっとそうしてたわ」
マニュアルには「鶏モモ肉使用」と書いてある。関口さんは、マニュアルと違うことをやって原価を守っていた。その匙加減がどこにも記録されていない。
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十月最初の水曜日。朝七時。小林さんから電話が来た。
「栗田さん、すみません。息子が熱出しちゃって、今日休ませてもらえますか」
「分かりました」
電話を切ってから気づいた。盛り付けとパック詰めは小林さんの担当だ。代わりは誰がやるのか。
山岸さんは調理で手がいっぱいだ。野口さんは洗い場と容器の補充を兼ねている。栗田自身がやるしかない。だが、パック詰めの手順を、栗田はまだ完全に覚えていない。
関口さんなら、どうしていたのだろう。小林さんは言っていた。「月の初めに行事の予定を伝えておくと、関口さんがシフトに入れてくれた」。つまり、突発の欠勤が出たときのカバーも、関口さんが段取りしていた。子供が熱を出しそうな季節、行事が重なる月——そういうことを先回りして、予備のシフトを頭の中に持っていたのだろう。
「山岸さん、今日小林さん休みなんで、盛り付け手伝ってもらえませんか」
「調理があるから無理よ。揚げ物もあるし」
栗田は黙って盛り付け台に立った。弁当を一個詰めるのに三分かかった。小林さんなら一分だ。十一時のピークまでに三十個。計算すると九十分。ぎりぎりだった。
結局、間に合わなかった。十一時半のピークに棚が埋まりきらず、日替わり弁当を三十分遅れで並べた。昼休みの客の波を逃した。
閉店後、山岸さんがぽつりと言った。
「関口さんはね、こういう日は朝五時半に来てたわ。シフトに穴が出そうなときは自分が早く来て、盛り付けを先に済ませちゃうの」
朝五時半。パートの勤務開始は六時だ。三十分前に来ていた。時給は出ない。
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木曜の昼。バックヤードの裏口に、トラックが横づけされた。見知らぬ男が降りてきた。
「すみません、鶏肉の佐藤です。新しいチーフさんですか」
「栗田です。よろしくお願いします」
「あのね、今週モモ肉いいのが入ったんですよ。キロ単価二十円安い。関口さんならすぐ『じゃあ十五キロ』って言ってくれたんだけど、店の電話が昼はずっと繋がらなくて」
「すみません、ピーク時は出られなくて」
「結局、先に別の店に回すことになっちゃったんだよね。関口さんの携帯なら昼でも出てくれたんだけどなあ。しっかり電話出てくれよ」
佐藤は頭をかきながら帰っていった。
関口さんは個人の携帯で佐藤さんと連絡を取っていた。パートの時給で、自分のスマホで、勤務時間中に。業者が安い肉を見つけたとき、即断即決で仕入れ量を変える。その判断が唐揚げの味と利益率を両方支えていた。
栗田の携帯には、業者の番号が一件も入っていない。これから登録していくつもりだが、安い肉が入ったとき即座に仕入れ量を判断できるかどうかは別の話だ。仕入れ量を変えれば仕込みが変わる。仕込みが変わればシフトも動く。一つの判断が連鎖する。関口さんはそれを一人の頭の中でやっていた。
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十七時。夕方の売場。
惣菜コーナーの前に人が来る。唐揚げパック、コロッケ、弁当。先月よりは在庫管理がましになった。金曜の唐揚げ三倍、雨の日の煮物増量。メモ帳のおかげだ。
ただ、味が違う、と言う客が出始めた。直接言わない。黙ってパックを棚に戻す人が増えた。
唐揚げパックの前で、女性が一人立ち止まった。パックを手に取って、数秒見つめてから、カゴに入れた。それから売場を離れて、山岸さんのほうに歩いた。
「山岸さん、関口さん辞めたんですってね」
「あら、律子さん。ええ、旦那さんの転勤で。八月末に」
「引き継ぎは」
「パートさんだからって、店長が……。引き継ぎはしなくていいって」
「九年分の引き継ぎ、なしですか」
「正社員のチーフが来たから大丈夫だって言ってたけど」
律子さんという人は、唐揚げパックの入ったカゴを見下ろした。少し間を置いた。
「大丈夫じゃなさそうですけどね」
それだけ言って、レジのほうに歩いていった。
栗田は陳列棚の向こう側で聞いていた。唐揚げのパックを棚に並べる手が止まっていた。大丈夫じゃなさそう。そうだ。大丈夫じゃない。
九年分の引き継ぎを、パートだからという理由で断ったのは田代店長だ。関口さん本人は申し出ていた。引き継ぎの資料を作ろうかと。それを「気にしなくていいよ」と言ったのは——誰だ。
*
閉店後。バックヤードに一人。
メモ帳を一冊目の最初から読み直している。九年前の字。今の三冊目より少し丁寧だ。
「月 唐揚げ×1.2」
「火 煮物+」
「金唐3倍」
曜日ごとの仕込み量。最初の月のメモだろう。まだ単純だ。ページをめくると、三ヶ月目あたりから天気と気温が加わっている。「雨→煮+2割 揚げ-1割」「猛暑日→さっぱりサラダ」「涼→肉じゃが↑」。
半年後のページには、客の傾向が書かれていた。「杖のおじいさん 幕内 12:30」「制服の男の子 唐揚げ弁当」「ポテサラ 火曜固定」。
杖のおじいさん。この人は今も来ている。十二時半に。先月、栗田は幕の内弁当を二段目に置いてしまい、おじいさんが見つけられずに帰った。三段目の中央に置いておけば、かがまなくても手が届く。メモ帳にはそう書いてあった。今は栗田もそうしている。
関口さんは九年間、毎日こういうことをメモに書いていた。天気と曜日と客の顔を見て、仕込み量を微調整し続けていた。特別な才能ではなかった。同じ場所に九年間立ち続けた人が、自然に積み上げたものだった。
だが、その蓄積を引き継ぐ仕組みがなかった。関口さんは引き継ぎを申し出た。断ったのは店だ。パートだから。
栗田はメモ帳を閉じて、デスクの脇に置いた。明日もまた読む。一ページずつ、意味を拾っていく。




