第54話「正社員チーフ着任」
駅から十五分。住宅街の道を歩く。
九月一日。月曜日。まだ暑い。ワイシャツの背中が汗で貼りつく。前の中央店は駅から三分だった。
マルミツストア高台店。住宅街の角にある中規模の店舗。駐車場が十台分。中央店の三分の一くらいの規模だ。周囲は住宅ばかりで、チェーンの飲食店も見当たらない。
朝八時に裏口に着いた。ドアは開いていた。惣菜部門は六時から動くと聞いていたが、初日は八時でいいと田代店長に言われた。二時間遅い。その二時間で、パートの三人は仕込みを始めている。
「おはようございます。今日から惣菜チーフの栗田です」
バックヤードに三人の女性がいた。エプロン姿。全員、栗田より年上だ。一番年上らしい人が振り向いた。
「ああ、新しいチーフさんね。山岸です。調理やってます」
「よろしくお願いします」
「小林です。盛り付け担当です。よろしくお願いしまーす」
もう一人、洗い場で黙々と手を動かしている人がいた。振り向いて、一度だけ頷いた。
「野口です」
栗田は三人の顔を見た。中央店の青果部門では同世代のアルバイトと組んでいた。四十代、五十代、六十代のパートを束ねるのは初めてだ。
それに、この三人は朝六時から働いている。栗田が着いたときには、もう唐揚げの仕込みが始まっていた。
*
惣菜部門のバックヤードは広くなかった。業務用の冷蔵庫が二台。フライヤーが一台。ステンレスの調理台と盛り付け台。壁にホワイトボード。シフト表が貼ってある。
栗田はまず発注端末を開いた。明日の仕込み量を入力しなければならない。青果の発注は四年やったが、惣菜は初めてだ。
マニュアルのファイルを開く。「惣菜部門 標準発注量一覧」。鶏モモ肉十キロ、ムネ肉八キロ、コロッケ用じゃがいも三キロ、パック容器八十個。
数字は載っている。だが、それだけだ。天気や曜日による変動は書いていない。
「山岸さん、ちょっと聞いていいですか。発注って、前の方はどうやって決めてたんですか」
山岸はフライヤーの前から振り向いた。
「関口さんがいつもやってたからねえ。私は調理しかやってないの」
「関口さんっていうのは」
「パートのリーダー。先月辞めたの。九年いた人」
正社員チーフの前任は松島さんだと聞いていた。松島さんが三月に辞めて、半年空いていた。その間、パートのリーダーが発注をやっていた。
小林さんにも聞いた。
「シフトの作り方って、何かルールありますか」
小林が盛り付けの手を止めた。
「関口さんが全部やってくれてたんで……。私の子供の行事とか、野口さんの通院日とか、月の初めに伝えておくと、関口さんがシフト表に全部入れてくれてたんです」
「引き継ぎ資料みたいなのは」
「パートさんだから引き継ぎはないって、店長が。正社員のチーフさんが来るから大丈夫だって言ってたんですけど……」
栗田は端末の画面を見つめた。標準発注量。この数字だけが手がかりだ。
そのまま入力した。
*
九時。開店。
売場に出た。惣菜コーナーのガラスケースに、サラダとコロッケが並んでいる。盛り付けは小林さんが済ませていた。値札シールも貼ってある。栗田が何も指示しないうちに、売場は出来上がっていた。
十一時。ピーク。客が惣菜コーナーの前に集まる。唐揚げパックを手に取る人、弁当を見比べる人。山岸さんがフライヤーで揚げて、小林さんが詰めて、野口さんが棚に並べる。流れ作業。栗田が指示を出す隙がなかった。三人はそれぞれの持ち場を、関口さんがいた頃と同じように動いている。
だが、小さなズレが出た。
コロッケが切れたとき、小林さんが栗田を見た。
「追加、揚げますか」
「あ——はい。お願いします」
「何個ですか」
栗田は棚を見た。何個出したらいいのか分からない。
「……十個くらいで」
小林さんは頷いて、バックヤードに消えた。十個が正しいのかどうか、栗田には判断がつかなかった。
水曜日。浜田商店から電話があった。
「すみません、関口さんいらっしゃいますか」
「関口は先月で退職しました。新しくチーフになった栗田です」
「ああ、そうなんですか。来週の野菜の発注を確認したいんですけど。いつも関口さんがLINEでくれてたんですが」
「すみません。内容が引き継がれてなくて、前回と同じでお願いできますか」
「前回と同じ……。分かりました」
電話を切った。前回と同じ。前回がいくらなのかも知らない。関口さんは個人のLINEで業者と直接やり取りしていた。その履歴は関口さんのスマホの中にある。
*
木曜日の午後。バックヤードの棚を整理していたとき、段ボール箱の脇にメモ帳が三冊並んでいるのに気づいた。B6サイズ。表紙に名前はない。角がすり減っている。
一冊を手に取って開いた。ボールペンの走り書き。字が小さい。
「金唐3倍」
「雨→煮」
「浜田 木休」
「小林 水PM×」
「佐藤 携帯」
電話番号と略語の羅列。ページをめくる。「月末398弁当↑」「運動会翌→唐×2」。
文脈が分からない。「金唐3倍」は何のことだ。金額のことか。金曜日の何かか。
メモ帳を棚に戻した。三冊。誰の字だろう。関口さんという人の、なのだろうか。
*
九月最初の金曜日。
栗田は標準発注量で仕込んだ。鶏ムネ肉八キロ、モモ肉十キロ。マニュアル通り。
十一時半。唐揚げパックが売り切れた。
棚が空になった。十一時半はピークの入り口だ。ここから十三時までが一番売れる。その入り口で在庫が切れた。
「栗田さん、唐揚げの追加は?」
山岸が聞いた。
「鶏肉がもう残ってないんです。今日の仕込み分は全部揚げました」
「金曜は唐揚げが出るのよ。関口さんは三倍にしてたわ」
三倍。
栗田はバックヤードに戻って、棚からメモ帳を取った。ページをめくる。
「金唐3倍」。
金曜日。唐揚げ。三倍仕込み。そういう意味か。
棚に空白ができたまま、金曜の午後が過ぎた。十三時に来た客が「唐揚げ弁当ないの」と聞いて、何も買わずに帰っていった。その後も二人。
十二時過ぎ、杖をついた七十代のおじいさんが来た。ガラスケースの前で立ち止まって、棚を見回した。
「幕の内弁当は」
「すみません、売り切れてしまって」
おじいさんは少しだけ首を傾げて、「そうかい」と言って帰っていった。幕の内弁当はまだ三個残っていた。ただ、棚の二段目の隅に置いてあって、おじいさんの目線からは見えなかった。栗田がそれに気づいたのは、おじいさんが出ていったあとだった。
三段目の中央に置いておけば、目についたはずだ。なぜ三段目なのかは分からない。
*
閉店後。バックヤードで一人、メモ帳をめくっている。
「雨→煮」。雨の日は煮物が出る、という意味か。
「月末398弁当↑」。月末は三百九十八円の弁当の出が増える。
「浜田 木休」。浜田は業者の名前だろう。木曜定休。木曜に注文しても届かない。
一つずつ、意味が見えてくる。ただ、ページが進むほど分からなくなる。「夏にんにく+」「梅雨 揚げ控え」「棚3段目 幕内5残」。幕の内弁当を五個残す。なぜ三段目に。なぜ五個なのか。
関口さんという人は、九年間ずっとこういうことをメモ帳に書いていた。これはあくまで個人のメモだ。マニュアルには載っていない。端末にも入っていない。この走り書きだけが手がかりで、書いた本人はもう大阪にいる。
明日は土曜日。土曜の発注量はどうすればいい。メモ帳に「土」の字を探した。
「土 弁当↑ サラダ↑ コロッケ↓」
弁当とサラダを増やして、コロッケを減らす。どのくらい。一割か、二割か。書いていない。その匙加減は、関口さんの頭の中にあったのだろう。
栗田は端末に向かって、標準量を一割だけ増やした。正しいかどうか分からない。来週も間違えるかもしれない。
時計を見た。二十時半。中央店では、閉店後にこんなに残ったことはなかった。
メモ帳を閉じた。走り書きの向こう側に、九年分の判断がある。栗田にはまだ、文字しか見えていない。




