第53話「パートさんだから」
大阪。新幹線で二時間半。
翌朝、ロッカーの前でエプロンを結ぶ手が一瞬止まった。昨夜の帰りの電車で、スマホに「大阪 惣菜パート 求人」と打ち込んだ。画面にいくつか出てきた。時給千百八十円から。東京より安いが、ある。探せばある。
(パートだから。どこでも見つかる)
ポケットにメモ帳とボールペンを入れる。今日は金曜日。唐揚げは三倍仕込む。佐藤さんのムネ肉十五キロが朝七時に届いているはずだ。
冷蔵庫を開けた。段ボール箱が入っている。十五キロ。予定通り。
*
午前中はいつもより忙しかった。金曜のピークは木曜より三十分早く来る。十一時には唐揚げパックの補充が始まった。山岸さんがフライヤーの前に立ち、関口は盛り付けと補充を回した。
十三時半。ピークが引いた。
関口はバックヤードの奥にある事務スペースに向かった。田代店長がパソコンの前に座って、本社からのメールを読んでいる。
「店長、少しお時間いいですか」
「うん。どうした」
「八月いっぱいで辞めさせていただきたいんですが」
田代は画面から目を離した。
「辞める? 急だな」
「主人が大阪に転勤になりまして。十月からなんですけど、引越しの準備もあるので」
「ああ——転勤か」
田代は椅子の背にもたれて、腕を組んだ。
「そうか。残念だな。関口さんには本当に助けてもらったよ。松島さんが辞めてからずっと、チーフの分まで」
「いえ。普通のことしかしてませんから」
「九年か。長かったね」
「はい。お世話になりました」
関口は一呼吸置いてから、切り出した。
「あの、引き継ぎのことなんですけど。発注の組み方とか、業者さんの連絡先とか、まとめておきましょうか」
田代は軽く手を振った。
「ああ、それは気にしなくていいよ。本社から正社員のチーフを入れるから。パートさんに引き継ぎまでお願いするのは申し訳ない」
「……そうですか」
「うん。松島さんの後任もずっと空けたままだったし、ちょうどいい機会だ。今度はちゃんと正社員を配置してもらう。関口さんには悪かったよ、パートなのにチーフみたいな仕事までさせて」
関口は首を振った。
(パートだから。引き継ぎは要らない。そりゃそうだ)
正社員が来れば、発注も原価管理も、その人がやる。マニュアルもある。関口がメモ帳に走り書きしていたことなんて、ちゃんとした正社員なら端末のデータを見ればすぐ分かるだろう。
「分かりました。八月末まで、いつも通りやりますね」
「ありがとう。送別会、やろうか」
「いえ、そういうのは。パートですし」
「そうか。じゃあ、最終日にケーキでも買ってくるよ」
*
山岸さんには翌日伝えた。
「えっ、関口さん辞めるの。困るわよ」
「ごめんね。でも正社員のチーフが来るから」
「チーフって、惣菜の経験ある人なの」
「さあ……。でもプロが来るわけだし、大丈夫だよ」
山岸さんは不満そうだったが、転勤という事情に文句は言えなかった。
小林さんは目を丸くして、すぐ目が赤くなった。
「関口さんがいなくなったら、シフトの相談とか……」
「新しいチーフさんに言えばいいよ。正社員さんだから、ちゃんとやってくれる」
野口さんには、言わなくてもいつの間にか知っていた。何も聞かない。ただ、それからの二週間、閉店後のモップがけが少し丁寧になった。
*
最後の二週間も、関口はいつも通り働いた。
発注端末で九月第一週の仕込み量を入力した。自分がいない最初の週。標準発注量をそのまま入れた。マニュアルに載っている数字。金曜の唐揚げ三倍も、雨の日の煮物増量も入っていない。でも、標準量で回るはずだ。マニュアル通りにやれば、大きな失敗はしない。
業者の佐藤さんに電話した。
「佐藤さん、私、八月で辞めるんです」
「えっ、関口さん辞めちゃうの?」
「新しいチーフが来ますから、九月からはその人に連絡してください。店の番号は——」
「そうかあ。五年やったのにねえ。店の電話って、いつも出ないんだよな」
「ピーク時は出られないですからね。でも、折り返してくれると思います」
浜田商店にもLINEで伝えた。返信は「了解です。関口さんにはお世話になりました」。業者との連絡先を、メモ帳の最後のページにまとめて書いた。佐藤さんの携帯番号、浜田商店の直通番号、容器業者の発注先。念のため。
*
八月最後の金曜日。関口の最終出勤日。
朝六時。裏口の鍵を回した。蛍光灯をつけた。エプロンを結んだ。ポケットにメモ帳を入れた。最後の日も、最初にやることは同じだった。
フライヤーの温度が百八十度に上がるのを待つ間に、鶏肉の下味を確認した。醤油、酒、生姜。それに夏場のにんにく。マニュアルには載っていない配合。前に自分で試して、売れ行きが良かったから続けている。次の人は、マニュアル通りに作るだろう。それでいい。
唐揚げを三倍仕込んだ。コロッケを揚げた。弁当を詰めた。値引きシールを貼った。いつもの金曜日と同じ手順を、同じ順番でやった。
十二時。制服の男の子が来た。
「唐揚げ弁当ください」
「はい。いつものね」
男の子は五百円玉を出した。お釣りは二円。関口は弁当を渡した。
「いってらっしゃい」
男の子は会釈して出ていった。来週も来るだろう。唐揚げ弁当を買いに。関口はいないけれど、唐揚げ弁当は棚に並んでいるはずだ。
十二時半。杖のおじいさんが来た。
「幕の内ください」
「はい。今日はさばの味噌煮が入ってますよ」
「ああ、いいねえ」
おじいさんはゆっくり歩いて出ていった。この人は九年間、ほぼ毎日来た。名前は知らない。「幕の内のおじいさん」。来週からは、十二時半に幕の内弁当を残しておく人がいなくなる。
*
十八時。閉店。
フライヤーの油を濾して、調理台を拭いて、床をモップがけした。九年間と同じ手順。最後の日だからといって省略する理由はない。
田代店長がバックヤードに顔を出した。手にケーキの箱を持っている。
「関口さん、お疲れさん。ショートケーキ買ってきたから、みんなで食べて」
休憩室のテーブルに箱を開けた。四つ。田代は「九年間、本当にありがとう」と言って頭を下げた。関口は「いえ、パートですから」と答えた。ケーキのいちごが甘かった。
ロッカーの前に、三人が立っていた。
「関口さん、ありがとう。体に気をつけてね」
山岸さんが言った。関口は頭を下げた。
「山岸さんこそ。煮物の味、もう私が直さなくても大丈夫ですよ」
「何言ってんの。あんたが直してくれなきゃ駄目なのよ」
小林さんが泣いていた。関口は小林さんの肩を叩いた。
「大丈夫。新しいチーフさんが来たら、ちゃんとシフトの相談しなね」
野口さんは何も言わなかった。関口の前に来て、両手で関口の右手を握った。節くれだった手。五秒ほどそうしてから、小さな声で言った。
「元気でね、ミヨちゃん」
三人が帰ったあと、関口はバックヤードに戻った。
エプロンのポケットからメモ帳を取り出した。三冊目。角がすり減って、表紙の色がくすんでいる。中を開くと、自分にしか読めない走り書きが並んでいた。
「金唐3倍」「雨→煮」「月末398弁当↑」「浜田 木休」「佐藤 携帯」「小林 水PM×」。
渡す相手がいない。引き継ぎはいらないと言われた。新しいチーフはまだ着任していない。
棚の隅に、古い二冊がある。一冊目と二冊目。三冊目を横に並べた。メモ帳が三つ。九年分。
誰かが見つけるかもしれない。見つけなくてもいい。マニュアルがあるのだから、これがなくても困らないだろう。
(たぶん)
エプロンをたたんでロッカーに入れた。鍵を閉めた。裏口から出ると、まだ空が赤かった。八月の日暮れは遅い。
*
帰りの電車で、彩花から電話が来た。
「お母さん、今日最終日だったんでしょ。お疲れさま」
「うん。普通に終わったよ」
「九年って長くない? お母さんすごいよ」
「すごくないよ。パートだもん」
「パートだってすごいよ」
「向こうに行ったらまた探すわ。惣菜のパートならどこにでもあるから」
「でも九年分の経験があるわけでしょ。それって——」
「経験って言っても、唐揚げ揚げて弁当詰めてただけだよ。向こうでもやること一緒」
「……うん」
電話を切った。窓の外が暗くなり始めている。九年前もこの路線の電車に乗って、面接に行った。あの頃、彩花はまだ中学生で、夕飯の支度に間に合うシフトの仕事を探していた。マルミツストアの求人票に「惣菜調理パート・九時〜十五時」と書いてあった。時給千百八十円。九年で百九十円上がった。
*
翌週の月曜日。
バックヤードのホワイトボードに、田代の字で書いてあった。
「九月一日(月)〜 新チーフ 栗田拓海」
棚の隅に、メモ帳が三冊並んでいる。まだ誰も手に取っていない。




