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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『属人化の解消』

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第50話「あの人の名前」

 河村拓也が「なずな書房」のガラス戸を押したのは、六月最終週の木曜日だった。

 午後二時。商店街のアーケードが日差しを遮っていて、通りは薄暗い。隣の金物屋にはシャッターが下りたままで、「閉店のお知らせ」の紙が貼ってある。

 河村は文芸書を中心に出す中堅出版社の営業だ。担当エリアは東京の西部から埼玉南部。月に一度、取次経由の書店を回って新刊の案内と棚の確認をする。三十八歳。この仕事を十二年やっている。なずな書房は三年前から回っている店のひとつだ。


「こんにちは。萩原さんいらっしゃいますか」


 レジカウンターの奥から、白髪交じりの女性が出てきた。五十代後半。エプロンの胸ポケットにボールペンが刺さっている。


「あ、河村さん。先週電話くれた」


「はい。今日は新刊のご案内と、少しお話が」


 萩原が椅子を出してくれた。レジカウンターの横に丸椅子がひとつ。河村はそこに座って、鞄から新刊の見本を三冊出した。


「七月の新刊です。文芸文庫から二冊と、児童向けの読み物が一冊」


 萩原が手に取る。児童向けの一冊、『ふたりの夏休み』の表紙を見つめた。


「これ、いいですね。夏休み前に棚に置きたい」


「五冊入れられますけど、いかがですか。うちから直接お送りします」


「直接? 取次を通さずに?」


「はい。小ロットでも対応できます。送料はうちが持ちますので」


 萩原は少し間を置いてから、頷いた。


「お願いします。五冊」



 新刊の案内を終えて、河村は鞄を閉じた。だが帰る素振りは見せなかった。

 店内を見回す。文庫の棚は充実しているが、児童書の棚に隙間が目立つ。三段目の半分が空いている。新書の棚も、三ヶ月前に来たときより明らかに薄い。


「萩原さん、ちょっと聞いてもいいですか。最近、配本の調子はどうですか」


 萩原の表情が少し変わった。困っている顔ではない。もう慣れた、という顔だ。


「正直、全然合わなくなりました。四月からずっと」


「ですよね。このエリア、同じことをおっしゃる書店さんが多くて」


「河村さんも分かるんですか」


「分かります。うちの本が以前は入ってた棚に、入ってないのが見えますから。あと、返品が増えてるのも」


 萩原はレジカウンターに肘を置いて、少し前のめりになった。


「河村さん、取次のこと、何か知ってますか。何があったのか」


 河村は少し迷った。取引先の内部事情を外に話すのは、営業としてどうなのか。だが、この人は困っている。原因を知らずに困っている。このエリアの十二軒の書店を回って、全員が同じ顔をしていた。棚が痩せて、客が減って、なぜなのか分からない、と。


「……さくらさん、去年の秋に配本部を再編したんです。地区担当制を廃止して、AIシステムに切り替えた。ベテランの担当者が——かなりの人数、辞めました」


「辞めた」


「ええ。地区担当を十二人置いてたのが、一元管理の五人チームになって。個別の書店さんとのやり取りが全部なくなった」


 萩原は黙って聞いていた。河村は続けた。


「萩原さんのところの担当、覚えてます? 電話でやり取りしてた方」


「声は覚えてます。十八年聞いてたから。でも——名前は知らないんです」


「須藤さんです。須藤節子さん」


 萩原が少し目を見開いた。


「……名前、初めて聞きました」


「須藤さんっていう方です。このエリアの担当で、十八年くらいやってたはずです。僕は展示会で何度か話したことがあって——萩原さんの店のことも、聞いたことがあります」


「うちのことを?」


「ええ。展示会のあとの立ち話で、僕が『なずな書房さん、文芸文庫の動きどうですか』って聞いたことがあって。そしたら須藤さん、手帳をめくりながら——『あそこはミステリーより文芸寄り。隣が小学校だから児童文学が動くし、新書もわりと出る店ですよ』って」


 萩原は口を開きかけて、閉じた。視線が下がった。


「……あの人、そんなふうに把握してたんですか」


「十八年も毎週電話してたら、自然にそうなりますよ。手帳にメモして、それを見ながら配本を組んでたんだと思います。特別なことじゃなくて、ベテランの地区担当はだいたいそうやってました。ただ——その蓄積を引き継ぐ仕組みがなかった」


 萩原は棚のほうに顔を向けた。児童書の空いた三段目。


「……あの人は、うちの棚を向こう側から作ってたんですね」


「そうです。僕はそう理解してます」



 河村は須藤のことを思い出しながら話した。

 展示会のブースで、他の取次の担当者が新刊リストを配っている横で、須藤は手帳にメモを取っていた。版元の営業と立ち話をして、「これ、どういう読者に向いてます?」と聞いていた。河村もその質問を受けたことがある。


『河村さん、この七月の新刊——小学校高学年が読める内容ですか? 読み聞かせ向きじゃなくて、自分で読む子向け』


『そうですね、四年生くらいから読めると思います』


『じゃあ、なずな書房さんに入れてみます。あそこは高学年が一人で買いに来るんです』


 河村が須藤と最後に話したのは、去年十月の展示会だった。須藤はいつもの手帳を持っていたが、どこか元気がなかった。


『須藤さん、お変わりないですか』


『ええ。まあ——来月から体制が変わるんですけどね。私の仕事がなくなるかもしれない』


 須藤はそう言って笑った。笑顔だったが、冗談ではなかった。



「須藤さんの担当エリアの返品率、二十二パーセントだったそうです」


 河村は萩原に数字を伝えた。


「業界平均が三十八パーセントだから、低いほうです。ベテランの地区担当はだいたいそのくらいの数字になる。担当エリアの店をよく知ってるから、合わない本を送らない。当たり前のことなんですけど、システムにはそれが難しいみたいで」


「今は?」


「今の数字は公式には出てないですけど——うちの本の返品を見てる限り、四十パーセントは超えてると思います。須藤さんがいた頃の倍です」


 萩原は棚を見た。児童書の空いた三段目。あそこに並ぶべき本を選んでいたのが、須藤という人だった。名前も知らなかった人。声だけを十八年聞いていた人。


「須藤さんは、今、どうしてるんですか」


「分かりません。退職したとは聞きましたが、その後は。取次を辞めた人の行き先って、なかなか……」


 河村は立ち上がって、名刺を一枚出した。


「萩原さん、もしよかったら、うちと直接取引しませんか。須藤さんが選んでたような本——僕が提案しますよ。全部は無理でも、児童書と文芸文庫は任せてください」


 萩原は名刺を受け取った。「河村拓也」。出版社名。電話番号。

 名刺。名前。


「……ありがとうございます。お願いします」


「来月から、月に一度お伺いします。棚を見て、合いそうな新刊を提案します。須藤さんみたいにはいかないですけど」


「いいえ。十分です」


 河村は鞄を持って立ち上がった。ガラス戸に手をかけて、振り返った。


「須藤さん——僕も、もっと早く動けばよかったと思ってます。取次が変わったって聞いたとき、すぐに書店さんに声かけるべきだった。三ヶ月遅れました。すみません」


「いいえ」


 萩原は首を振った。三ヶ月。四月から六月。棚が痩せた三ヶ月。でも、知れてよかった。名前が分かってよかった。


 河村が帰ったあと、萩原はレジカウンターに座ったまま、しばらく動かなかった。

 ガラス戸の向こう、商店街を歩く人の影が通り過ぎる。アーケードの蛍光灯がぼんやりと点いた。もう夕方になっていた。


 須藤節子。

 毎週火曜に電話に出て、「萩原さん、来週は○○ありますよ」と言ってくれていた人。特別なことをしていたのではないのかもしれない。ただ、十八年間同じ仕事を続けて、電話のたびにメモを取って、うちの店の棚に合う本を選んでいた。その積み重ねが、通知一枚で消えた。


 名前を聞いておけばよかった。十八年間のどこかで、一度でも。

 「お名前、何とおっしゃるんですか」。たったそれだけのことが、なぜ十八年間できなかったのだろう。

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