第49話「棚が痩せる」
六月の最初の月曜日。
萩原は朝の開店前に、返品用の段ボールを組み立てていた。テープガンの音がガリガリと商店街に響く。まだどの店も開いていない。
先月の返品。ビジネス書が十四冊、自己啓発本が六冊、タレント本が四冊。合計二十四冊。段ボール一箱では足りず、二箱にした。
三十年間、返品は月に十冊前後だった。多い月でも十五冊。それが四月は十九冊、五月は二十四冊。倍に近い。
返品伝票を書く。ISBN、冊数、返品理由。理由の欄に「配本不適合」と書いた。前は「販売不振」と書いていた。売れなかったのは自分の棚のせいだと思っていたから。今は違う。頼んでいない本が届いて、頼んだ本が届かない。不適合だ。
返品の送料。一箱六百円。二箱で千二百円。月に千二百円は小さく見えるが、年間で一万四千四百円。それに加えて、売れない本が棚を占めている時間——その時間は、売れる本が並んでいるはずだった時間だ。機会損失。帳簿には載らない損害。
*
火曜日の電話は続けている。
六月の第一火曜。今回のオペレーターは田中という女性だった。先月は山下、佐々木、田中、前回も田中。五回で三人。誰も萩原のことを知らない。毎回、店名と取引番号を伝えるところから始まる。
「なずな書房、取引番号はTK‐〇三七五です」
「確認いたしますので少々お待ちください」
保留音。四十秒。
「お待たせいたしました。ご用件をどうぞ」
「先月出した配本変更のフォーム、確認してもらえましたか」
「えっと……申し訳ございません。フォームの処理状況は担当部署に確認しないと分かりかねまして」
「先月も同じことを言われました」
「……重ねてお詫び申し上げます。改めて確認のうえ折り返し——」
「いいです。客注だけ伝えます」
ISBNを三つ読み上げて、電話を切った。三分。用件は三分で済むようになった。五分から三分に減ったのは、会話がなくなったからだ。提案がない。「来週は○○ありますよ」がない。注文を受けるだけ。レジの機械と同じだ。
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水曜の午後。雨が降り始めた。
梅雨入りのニュースを今朝のラジオで聞いた。商店街のアーケードの継ぎ目から雨粒が落ちて、入口のマットを濡らしている。客足が止まる。午後一時から四時までの三時間で、来店は二人だけ。一人は立ち読み。もう一人は道を聞きに来ただけだった。
こういう日に限って、やることがない。以前なら新刊のPOPを書いていた。新刊が入れば書くことがある。入らなければ書くこともない。レジ脇の椅子に座って、アーケードを叩く雨音を聞いている。
四時過ぎ。隣町の書店主・吉田保から電話がかかってきた。吉田は萩原と同じ取次を使っている。歩いて二十分の距離にある「吉田書店」の店主。六十三歳。父親同士が商工会で知り合いだった。
「道子さん、最近うちも配本がおかしくてさ」
「吉田さんのところも?」
「ああ。ミステリーばっかり来る。うちはミステリー売れないんだよ。スポーツ雑誌と実用書の店なのに」
「こっちもビジネス書ばっかり。児童書が来ない」
「あの担当の人、辞めたんだろうなあ」
萩原は受話器を握り直した。
「辞めた?」
「知らないの? 取次の配本部、人が入れ替わったって。いつもの人がいなくなった。俺も聞いただけだけど」
「いつも電話に出てくれてた——女の人?」
「俺んとこも女の人だったよ。同じ人かどうか分かんないけど。もう去年の秋くらいから制度が変わって、担当がなくなったんだと」
「去年の秋……」
「配本が変わったの、四月からだろ? たぶんシステムの切り替えが四月だったんだよ。それまでは、辞める前の人が手で調整してたんじゃないか」
そういうことか、と萩原は思った。三月の最終火曜——あの電話が最後だった。あの声はもう取次にいない。制度が変わる前に辞めたのか、変わったから辞めたのか。どちらにしても、もういない。
十八年間、あの声は辞めなかった。毎週火曜、休まず電話に出ていた。それが去年の秋に何かが変わって——半年後に消えた。
「道子さん、うちの近くの本屋——白石書店と町田書房——二軒とも閉めたよ」
「え。いつ?」
「白石さんは先月。町田さんは今月末で。二軒とも同じこと言ってた。配本が合わない、返品ばっかりで利益出ない」
萩原は黙った。白石書店は知っている。三年前の書店組合の新年会で会った。五十代の夫婦が切り盛りしていた店。地域の学習参考書に強かった。町田書房は一度しか行ったことがないが、鉄道と乗り物の本が充実していた。どちらも「その店らしい棚」があった。
「俺も考えてるよ」
「何を?」
「閉めること。来年の家賃更新で」
吉田の声は、いつもの乾いた口調のままだった。怒りも悲しみもない。ただ事実を述べている。四十年やってきた人の声だ。
「吉田さん——」
「いいんだよ。跡継ぎもいないし。ただ、こういう終わり方は考えてなかったなあ。本が売れなくなったんじゃなくて、本が来なくなった」
*
六月中旬。
売上帳を見返す。四月:前年比九十一パーセント。五月:八十七パーセント。六月は上旬の時点で八十四パーセント。
月商百二十万円が、百万円を切ろうとしている。粗利率二十五パーセントとして、月の粗利が三十万から二十五万に落ちた。家賃が十二万円、光熱費が二万円。正志の給料があるから生活は困らないが、このままでは店の維持費を自分で賄えなくなる。
夜。正志が帰宅して、台所で味噌汁を温めている匂いがする。豆腐となめこ。この匂いを嗅ぐと、一日が終わったと感じる。
「道子、店のほう、どう?」
「……ちょっと、売上が落ちてる」
「いくらくらい?」
「月に十五万から二十万」
正志は味噌汁の椀をテーブルに置いて、椅子に座った。眼鏡を外して目頭を押さえる。仕事の疲れ。五十九歳。設備会社のデスクワークで、目が辛いらしい。
「原因は分かってるの?」
「配本が合わなくなった。取次のシステムが変わって、うちに合う本が来ない」
「取次を変えるか?」
「三十年の付き合いだし……でも、もう付き合いっていう感じじゃないんだよね。知ってる人がいなくなって、電話しても毎回違う人が出て」
正志は黙って味噌汁を飲んだ。萩原も黙った。食卓の上の蛍光灯がかすかに唸っている。
出版社から直接仕入れる方法がある。取次を通さない直取引。手続きが面倒だし、最低ロットの縛りもある。だが、棚を自分で作れる。あの声がやっていたことを、自分でやる。
「来週、出版社の営業さんが来るんだ。ちょっと相談してみる」
「うん」
正志はそれ以上聞かなかった。三十年、店のことは萩原に任せている。口を出さない。それが正志のやり方だ。
*
六月の最終週。
返品がまた二箱。今度はビジネス書に加えて、料理本が六冊入っていた。なずな書房に料理本の棚はない。三十年間、一度もない。アルゴリズムが何を根拠に料理本を送ってきたのか、まったく分からない。
橋本先生は、先月から来ていない。確かめる気にはなれなかった。
長谷川さんは今月も来た。ただし青葉新書は駅前で買ってきたらしく、うちでは文庫を一冊だけ買っていった。
棚を見る。
児童書の三段目は、半分が空いたままだ。手持ちの在庫で埋めているが、新刊が入らないから二年前の本ばかり並んでいる。背表紙が日に焼けて、色が薄くなっている。新しい本の隣に置くと、古さが際立つ。
ガラス戸の外。六月末の夕方。日が長い。十八時半でもまだ明るい。
右隣の金物屋のシャッターが、今日は完全に下りたままだ。「閉店のお知らせ」の紙が貼ってある。七月末で。
(うちは大丈夫だろうか)
三十年続いた店が、三ヶ月で傾き始めている。
自分の目利きが衰えたわけではない。商店街が急に寂れたわけでもない。ただ、棚に正しい本が並ばなくなった。それだけで、客は離れる。本屋は棚だ。棚に何が並んでいるかが、全てだ。
あの声の人は、正しい本を選んでいたのだ。
十八年間、毎週。黙って。名前も名乗らず。
この店を、向こう側から支えていた。




