第48話「システムによる最適配本」
四月の第一火曜日。十時十五分。
萩原は受話器を取った。いつもの番号を押す。呼び出し音が鳴る。二回、三回、四回。五回目で切り替わった。
いつもなら三回で出る。四回目の途中で、あの声が「はい、配本営業部です」と言う。今日は違った。
「お電話ありがとうございます。さくら書籍販売、配本受付センターです。ご用件をお選びください。新規のご注文は1を、配本内容のお問い合わせは2を——」
自動音声だった。
萩原は受話器を耳から少し離して、画面を見た。番号は合っている。もう一度聞く。抑揚のない女性の合成音。1を押した。
「おつなぎいたします。少々お待ちください」
保留音が流れた。ピアノの旋律。聞いたことのない曲。三十秒経った。一分経った。
「お待たせいたしました。配本受付センター、山下が承ります」
知らない声だった。若い男性。
「なずな書房の萩原です。客注が二件あるんですが」
「はい、ISBN をお願いいたします」
二件を読み上げた。打鍵音が聞こえる。遅い。一桁ずつ確認される。
「復唱いたします。九七八四——」
「合ってます。それと、来週の配本なんですけど——いつもの方はいらっしゃいますか」
「いつもの方、と申しますと?」
「以前、こちらの担当をしてくださっていた方です。女性の方で」
「申し訳ございません。現在、個別担当者制は廃止しております。ご用件は当センターで一括して承ります」
萩原は受話器を握ったまま、二秒ほど黙った。
「……そうですか。じゃあ、来週の配本の件ですけど、児童書を少し増やしてほしいんです。四月は小学校の新学期で——」
「配本内容の変更は、オンラインの専用フォームからお願いしておりまして。URLをFAXでお送りしましょうか」
「電話では駄目なんですか」
「お電話でのご要望も承りますが、反映までに二週間ほどお時間をいただきます。フォームからでしたら翌週の配本に間に合います」
萩原は受話器を握り直した。レジカウンターの上に、先週届いた通知文が置いてある。「属人化の解消」「システムによる最適配本」。あの文章はこういう意味だったのか。
「……分かりました」
電話を切った。受話器を戻す。静かだった。火曜の十時十五分に、五分で用件が済む日は、もう来ないらしい。
*
翌日の水曜日。配送トラックが段ボールを二箱置いていった。
カッターで開ける。ビニールの結束帯を切る。
一冊目。ビジネス書。今年のベストセラー候補と帯に書いてある。五冊。
二冊目も三冊目もビジネス書。合計で八冊。
なずな書房でビジネス書が月に三冊以上売れたことは、この三十年で一度もない。駅前のチェーン書店に行く客層だ。住宅街の個人書店では動かない。
四冊目。自己啓発本。三冊。表紙が全部似たような青と白。
五冊目。タレント本。二冊。
児童書はゼロだった。
青葉新書もゼロ。
文庫の配本は六冊あったが、全部ミステリーのシリーズもの。うちの常連が読むタイプではない。
配本リストを見る。リストの末尾に小さく「※本配本は売上予測モデルに基づき最適化されております」と印字されていた。
最適化。ビジネス書八冊と自己啓発本三冊。合わせて十一冊。仕入れ値で約一万五千円。売れなければ返品する。返品の送料が千二百円。梱包に三十分。それが毎週続くのか。
萩原は段ボールの中身を見つめた。
この本たちは、なずな書房の棚に並ばない。並べても売れない。返品になる。送料はこちら持ち。
隣の棚、児童書の三段目が空いている。先週から何も入っていない。
(最適化って、誰にとっての最適なんだろう)
電話の向こうにいたあの声なら、ここまで外した配本はしなかった。少なくとも、ビジネス書を八冊まとめて送ってくるようなことは。
*
四月最終週。
棚の隙間が目立ち始めた。
普段なら配本で埋まるはずの児童書コーナーが、三段目の半分が空いている。紙の札を差す。「ご注文承ります」。オンラインフォームで要望を出したが、反映されたのかされていないのか、返事がない。
火曜の朝。フォームに入力した要望が、どう処理されているのか分からない。以前なら電話一本で翌週には届いた。
「萩原さん、ラビット先生の続き、入った?」
橋本先生が来た。四月の読み聞かせが好評で、シリーズの続きを買いたいという。
「ごめんなさい、まだ入ってないの。取り寄せで頼んでるんだけど……」
「じゃあいいです。急がないから。あ、でもネット通販で買ったほうが早いかな」
「……いや、来週には入ると思う。確認するね」
橋本先生は「お願いします」と言って帰った。
来週には入ると言ったが、根拠はない。以前なら火曜に電話して「ラビット先生の続き、客注入りました」と言えば、木曜には届いていた。あの声が「手配しますね」と言えば、それは手配されたという意味だった。
今は、フォームに入力して、待つ。二週間。
*
五月の連休明け。
四月の売上を帳簿で確認した。前年同月比九十一パーセント。九パーセントの減。金額にして十万円。粗利で考えれば二万五千円。大きくはないが、下がった月はこの十年で三回しかない。
配本は四月中に三回届いた。中身は三回とも、ランキング上位の本が中心だった。児童書は二冊だけ入っていた。どちらもアニメのノベライズ。橋本先生が使うタイプではない。
長谷川さんが青葉新書の棚の前に立って、首を傾げた。眼鏡を持ち上げて、背表紙を一冊ずつ確認している。
「萩原さん、新しいのが入ってないわね。先月出たはずの——歴史の、あの」
「ごめんなさい。配本に入ってこなくて。取り寄せますね」
「いいのよ、急がないから。駅前の書店で見てくるわ」
長谷川さんの背中を見送った。ガラス戸が閉まる。
駅前の書店。五分歩けば着く。品揃えはうちの三倍。……いや、そういう問題じゃない。長谷川さんは「この棚は信頼してる」と言ってくれていた。信頼は、棚に本があることで保たれる。棚に本がなければ、信頼は消える。
萩原は空いた棚の段を見つめた。
棚板の合板が見えている。本がなくなると、板の木目が見える。父の代からの棚板。三十年間、本で埋まっていた。
*
五月第二週の火曜。十時十五分。
受話器を取る。番号を押す。自動音声。1を押す。保留音。今回は二分待たされた。
「お待たせいたしました。配本受付センター、佐々木が承ります」
先週と違う名前。先々週はまた別の人だった。毎回違う。
「なずな書房です。配本の件で相談なんですが。うちの店、ビジネス書は売れないんです。代わりに児童書と文庫、あと青葉新書を入れてほしい。前はそうなっていたんですけど」
「少々お待ちください。お客様の配本履歴を確認いたします」
キーボードの音。三十秒。
「えっと……お客様のお店ですと、売上予測モデル上はビジネス書の配本比率が高い設定になっておりまして」
「売れないんです、実際に。先月の返品、見てもらえますか」
「返品データは別部署の管理でして、こちらでは……ジャンル変更のご希望でしたら、フォームから——」
「フォームは出しました。三週間前に。反映されてません」
「申し訳ございません。確認いたしますので、少々——」
保留音。一分。二分。
「お待たせいたしました。フォームのご要望は確認できました。ただ、配本モデルの変更には上長承認が必要でして、もう少しお時間を——」
萩原は「分かりました」と言って、受話器を置いた。静かに。乱暴にではなく。
あの声なら、五分で終わっていた。
「児童書増やしてほしい」「分かりました、来週入れますね」。それだけで翌週には届いた。フォームも上長承認も要らなかった。五分の電話の中に、判断と実行が全部入っていた。
十八年。毎週火曜。あの五分が、この店の棚を作っていた。
それがなくなった。
あの人が消えたのか、あの仕組みが消えたのか、萩原には分からない。分かるのは、火曜の電話が、もう以前とは別のものになったということだけだ。




