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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第11章『属人化の解消』

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第47話「火曜日の電話」

 三月の最終火曜日。午前九時半。

 なずな書房のシャッターを持ち上げる。金属の軋みが商店街に響いた。両隣はまだ閉まっている。左のクリーニング店は十時から、右の金物屋は十時半から。この並びで一番早いのは、うちだ。

 シャッターを全開にして、ガラスの引き戸を開ける。店内の空気が動く。一晩閉め切った紙とインクの匂い。三十年嗅ぎ続けた匂いだ。

 レジの電源を入れて、エアコンのリモコンを押す。まだ三月、暖房が要る。棚の間を歩いて、昨日の閉店後に入荷分を所定の場所に並べ直す。


 十時十五分。

 萩原道子は受話器を取って、いつもの番号を押した。外線のプッ、プッ、という音が三回鳴って、四回目の途中で繋がる。


「はい、さくら書籍販売、配本営業部です」


 この声だ。十八年、毎週火曜に聞いている声。柔らかくて、少しだけ鼻にかかる。名前は知らない。一度も名乗られたことがないし、こちらから聞いたこともない。


「お世話になっております。なずな書房です」


「あ、萩原さん。お電話ありがとうございます。今週のご注文ですね」


 萩原さん、と呼ばれる。こちらの名前は向こうが知っている。それが当たり前だった。


「来週の火曜着で、客注が三件あります。ISBN読み上げますね」


「はい、どうぞ」


 手元のメモ帳を見ながら、十三桁の番号を三つ読み上げる。相手の打鍵音が受話器越しに微かに聞こえる。タン、タタタン。素早い。


「はい、三点。それと萩原さん、来週の新刊で一つ——灯台文庫の『夜更けの散歩者』重版分、入りますけど、入れておきますか? 前に二冊売れてたので」


「あ、ほんと? じゃあ三冊お願いします」


「三冊ですね。あと、児童文学で——朝日書房の新刊、四月の読み聞かせ向きかなと思って。一冊いかがですか」


「うん、入れてください」


 こういうやり取りが、十八年続いている。

 向こうが提案してくる本は、だいたい合っている。十八年も毎週電話していれば、うちの店の特徴くらいは分かるだろう。住宅街の小さな書店で、隣に小学校があること。文庫と新書が動いて、ビジネス書は動かないこと。

「ありがとうございます。来週届きます。あ、それと——東部地区の合同棚展、六月に予定してるんですけど、萩原さんのところも案内送りましょうか」


「お願いします」


「はい。じゃあまた来週」


「ありがとうございました」


 電話は五分で終わった。受話器を戻す。壁掛け時計が十時二十分を指している。

 この声とのやり取りが、毎週火曜の十時十五分に始まる。祝日と年末年始以外、十八年。体調が悪いときも、台風の日も、この声は電話口に出た。一度だけ別の人が出たことがあって——たぶん七、八年前——そのときは注文した本が一冊違う店に届いた。翌週には戻っていた。



 なずな書房は、駅の東口から徒歩十分の商店街にある。

 間口四メートル、奥行き十二メートル。入口にガラスの引き戸。右壁に文庫と新書、左壁に児童書、奥に一般書と地域関連の棚。レジカウンターは入口の左手。

 父が六十年前に開いた店を、二十六歳で引き継いだ。三十年。壁のクロスは三回張り替えたが、木の棚板は父の代から変わっていない。背板の合板が、本のインクと湿気を三十年分吸って、独特の匂いを放っている。


 十時半。段ボール箱が二つ、取次の配送トラックから届いた。

 カッターで封を切る。開ける。ビニールの結束帯を外して、一冊ずつスリップを確認しながら棚に並べていく。


 文庫が十二冊。新書が五冊。児童書が三冊。一般書が八冊。

 配本リストと突き合わせる。……合っている。いつも通り。ランキング上位のビジネス書が一冊も入っていないのは、うちの店では動かないと向こうが分かっているからだ。

 代わりに、青葉の新書が二冊入っている。うちの常連、退職した元図書館司書の長谷川さんが、月に一度、青葉新書を三冊まとめ買いする。そのぶんの補充。


 棚に本を差していく。背表紙が綺麗に並ぶ。少しだけ色褪せた既刊の隣に、新刊の白い背表紙が立つ。文庫棚の下段がきつくなってきた。来月あたり、一段分の入れ替えが要る。

 一冊、リストにない本が紛れていた。児童文学の文庫——『見えない扉の向こうに』の新装版。先月、隣の保育園「けやき保育園」が「読書月間」のチラシを配っていた。それを見越して入れてくれたのか、ただの偶然か。分からない。

 こういうことがたまにある。頼んでいない本が一冊紛れていて、結果的に売れる。十八年も同じ店を担当していれば、勘が働くのだろう。



 午後一時。昼食のあと、店番をしながらレジ脇の椅子に座る。

 商店街のアーケードの隙間から、三月の日差しが斜めに射し込んでいる。桜はまだ蕾。花屋の前だけ、ピンクの鉢植えが並んでいるから、遠目には咲いたように見える。


 来客は午前中に七人。うち三人が買い物をして、四人は立ち読みだけで帰った。一日の売上は、良い日で三万円。悪い日で一万二千円。今日はまだ八千円。


「萩原さん、こんにちは」


 ガラス戸が開いて、橋本先生が入ってきた。隣の小学校の三年生の担任。月に二回、読み聞かせ用の本を探しに来る。


「こんにちは。今日は何をお探し?」


「四月の授業参観で読み聞かせをしたくて。低学年にも分かるやつ」


「絵本? 児童文学?」


「十分くらいで読み終わるやつがいいんですけど」


 萩原は棚の前に立って、三冊抜いた。『丘の上のラビット先生』の一章分。『ちいさな虫のたび』。新しく入った朝日書房の四月新刊。

 三冊をカウンターに並べる。橋本先生が手に取って、ぱらぱらとめくる。


「あ、これいいですね。朝日書房の。絵がきれい」


「今朝入ったばかり。まだ出たてですよ」


 火曜の電話で勧められた本が、その日のうちに買い手を見つけた。こういうことが年に何度かある。偶然ではない。向こうが「読み聞かせ向き」と言って勧めた本を、読み聞かせをする先生が買っていく。繋がっている。

 橋本先生が帰ったあと、レジの横にメモを貼った。「朝日書房四月新刊——POP書く」。



 十五時過ぎ。長谷川さんが来た。七十二歳。元図書館司書。青葉新書の棚の前に立って、十五分かけて二冊を選ぶ。


「萩原さん、この棚は信頼してるのよ。大型書店だと青葉新書が奥に追いやられてるでしょ。ここは正面にある」


「長谷川さんが買ってくれるから」


「それだけじゃないわよ。並べ方がいいの。テーマ順に並んでる」


 青葉新書をテーマ順に並べているのは萩原だ。だが、青葉新書を毎月二冊ずつ入れてくれるのは、電話の向こうの声だ。こちらの注文の傾向を、長年のやり取りの中で覚えてくれているのだろう。



 十七時。閉店の準備を始める。

 レジを締めて、売上帳に数字を書き込む。今日は一万九千八百円。悪くはない。月曜が一万二千円だったから、持ち直した。

 棚を見回す。欠本の場所に紙を差し込む。「ご注文承ります」の札。来週の火曜に電話でまとめて伝える。あの声が出る。ISBN を読み上げる。打鍵音が返ってくる。三十年のうち十八年間、この繰り返しで棚を作ってきた。


 シャッターを半分下ろして、裏口から出る。自転車を停めてある路地は、夕方でもう薄暗い。三月の日暮れは早い。商店街のアーケードの蛍光灯が、一本だけ切れかけて明滅している。

 自転車のハンドルを握る。手袋越しに、金属の冷たさが指先に伝わる。


 帰宅。夕食の支度。正志はまだ帰らない。水曜が早出だから、火曜の夜は遅い。冷蔵庫から鶏肉を出して、フライパンに油を引く。照り焼きの甘辛い匂いが台所に広がった。

 一人で食べて、片付けて、風呂に入る。二十一時。居間のソファに座って、今日届いた朝日書房の新刊を開いた。橋本先生が買った一冊とは別の、高学年向けの読み物。

 読みながら、来週のPOP文を考える。手書きのPOPを棚に貼るのが、三十年の習慣だった。



 木曜日。

 郵便受けに、さくら書籍販売からの封書が入っていた。

 薄い茶封筒。裏に「営業企画部」の角印。表書きは「なずな書房 萩原道子様」。


 レジカウンターで封を開けた。A4一枚。文面はこうだった。


「お取引先各位 配本サービスに関するお知らせ」


 ご愛顧いただきありがとうございます。このたび、弊社では配本業務の品質向上を目的として、四月よりサービス体制を刷新いたします。これまで個別担当者が行っておりました配本調整は、新たに導入する最適化システムにより一括管理に移行いたします——


 文章が続いている。「属人化の解消」「安定した品質」「システムによる最適配本」。


 萩原は文面を最後まで読んで、折り畳み、カウンターの引き出しに入れた。


(よく分からないけど、何かが変わるらしい)


 配本の仕組みが変わる。それが自分の店にどう影響するのか、この時点では分からなかった。

 火曜の電話の声が、来週も同じように出てくれるなら、それでいい。

 そう思った。

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