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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『受付は一人で十分でしょ』

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第46話「二人がかり」

 小野彩花が出勤したのは、七月の第一月曜日だった。


 朝八時二十分。高瀬は受付の椅子に座って、今日の予約表を確認していた。エアコンが低く唸っている。外は三十一度の予報だが、クリニックの中は消毒液の冷たい匂いがする。

 壁のカレンダーは七月。高瀬が赤ペンで書き込んだ「新人初日」の文字が見える。その隣に、中村さんの丸い字で「特定健診結果返却」と書いてある。二つの筆跡が、同じカレンダーの上に並んでいた。


 自動ドアが開いた。

 二十八歳。前髪を留めたヘアピンが銀色で、白いブラウスの襟がきちんと折ってある。別のクリニックで二年間、医療事務をやっていたという。

 高瀬は立ち上がって、自分の椅子の隣にもう一脚、椅子を並べた。三ヶ月間、一脚だった受付に、椅子が二つ。


「小野さん、おはようございます。高瀬です」


「おはようございます。よろしくお願いします」


 小野は鞄を棚に入れて、デスクの前に立った。パソコンの画面、プリンター、電話、保険証リーダー。高瀬が三ヶ月前に初めて見た配置と同じだ。ただし、今は壁のカレンダーの書き込みが高瀬の字でも埋まっているし、付箋の色も増えていた。


「まず、これを見てもらえますか」


 高瀬はノートの一冊目を出した。「患者様メモ」。


「これは前の方——中村さんが書いたものです。患者さんごとの特記事項がまとめてあります。最初の一週間は、これを見ながら対応してください」


 小野がノートを受け取って、開いた。最初のページ。佐伯房子、七十八歳。薬歴、家族連絡先、会計の注意、耳のこと。七行にわたる記載が、丸い字でびっしり埋まっている。

 小野がページをめくる。二ページ目、三ページ目。付箋が何枚も飛び出している。ピンクと黄色と青。どのページも同じ筆圧で、同じ丁寧さで書かれている。手が止まった。


「高瀬さん、これ……すごい詳しいですね。六十人以上分ある」


「うん。全部、前の人が一人で書いたの」


「一人で?」


「一人で。十四年」


 小野はノートを見つめたまま、しばらく黙っていた。高瀬は三ヶ月前の自分を見ているような気がした。引き出しからこのノートを初めて取り出した日のことを、はっきり覚えている。



 午前の診療が始まった。

 二人で受付を回す。一人が患者の応対をしている間に、もう一人が電話を取る。一人が会計をしている間に、もう一人がカルテを出す。

 九時十五分、電話が鳴った。高瀬が出る。予約変更の電話だった。受話器を耳に挟みながらパソコンの画面を操作していると、自動ドアが開いて患者が入ってきた。保険証を差し出されて——小野が立ち上がった。


「おはようございます。保険証をお預かりします」


 小野の声は落ち着いていた。高瀬は電話に集中できた。


 (ああ、回る)


 高瀬は自分の手が空く瞬間があることに驚いた。三ヶ月間、一度もなかった感覚だ。電話が鳴っても、患者が来ても、同時に発生しても、片方が対応すればもう片方が補える。呼吸ができる。水を飲む時間がある。トイレに立てる。


 十時半ごろ、採血のある患者が三人重なった。以前なら予約の入れ方を間違えていた。今は小野がカルテを出している間に、高瀬が採血の順番を看護師に伝えに行ける。岡田が「助かります」と言った。

 午前中の患者は二十五人。先月と同じ数だが、待ち時間は明らかに短くなった。会計の処理が詰まらない。佐伯房子が会計を待っている間に、高瀬は次の患者のカルテを準備できた。


 佐伯が帰り際に受付を振り返った。


「あら、二人になったの」


「はい。今日から」


「そう。それは、よかったわね」


 佐伯は小野のほうを見て、小さく頭を下げた。


「よろしくね」


「よろしくお願いします」


 小野が頭を下げる。佐伯は自動ドアに向かいかけて、振り返った。


「中村さんは、一人でやってたのにねえ」


 それだけ言って、出ていった。

 十二年通ったクリニックの受付が一人から二人になった。中村が一人でやっていたことを、二人でやっている。その一言が、すべてを要約していた。



 昼休み。

 小野がノートの二冊目を読んでいた。「レセプト・業務」。付箋のページをめくりながら、首を傾げている。


「高瀬さん、この付箋の色分け、ルールがあるんですか?」


「ピンクが至急、黄色が定期、青が季節業務。中村さんが決めたルール」


「すごく分かりやすい。前の職場にはこんなのなかったです」


 高瀬は頷いた。三ヶ月前の自分も、同じことを思った。



 七月が過ぎて、八月になった。

 二人体制が回り始めると、見えていなかったものが見えてくる。

 予約の取りこぼしが減った。電話の折り返しが早くなった。やまと薬局への金曜のFAXも、高瀬と小野で分担して作るようになった。林さんが電話口で「助かります」と言った。


 宮内達夫が戻ってきた。六月の初めから姿を見せなくなっていた患者だ。受付に保険証を出しながら、「最近、待たなくなったね」と言った。窓際の、いつもの椅子。テレビのリモコンを取って、チャンネルを変えた。中村のノートに「待ち時間に敏感」と書かれていた人が、また座っている。


 レセプトの返戻はゼロになった。月末の三日間、高瀬と小野が交互に点検するようになったからだ。一人が入力し、もう一人が突き合わせる。中村は一人でゼロに近い数字を出していた。二人でようやく追いついている。


 院長の三浦が、月末に経理を確認していた。

 受付の人件費。中村一人のとき、月額二十三万円。今、高瀬と小野の二人で月額四十二万円。ほぼ倍。

 三浦は何も言わなかった。数字を見て、眼鏡を外して、またかけた。

 高瀬は院長が何を考えているか、推測しない。ただ、事実は明確だった。中村が一人で回していたものを、二人でやっと回している。最初から中村の増員要望を聞いていれば、ベテランの中村と補助の一人で、もっとよい体制が組めていた。中村は辞めずに済んだかもしれない。患者も減らなかった。

 「受付は一人で十分でしょ」の代償が、毎月の給与明細に刻まれている。



 高瀬の帰宅は早くなった。

 十七時四十分にクリニックを出られる日が増えた。自転車を漕いで、学童に着くのが十八時前。翼はまだ友達と遊んでいる。門の前で一人で待っている日は、なくなった。

 八月の最初の金曜、翼が学童の門から走ってきた。


「お母さん、ケンタとプール行った!」


「学校のプール?」


「うん。ケンタ、泳げないのに飛び込んだ。先生に怒られてた」


 翼の日焼けした腕が、自転車のハンドルをつかんでいる。朝顔は花が咲き始めた。紫と白。翼の観察日記が、イラスト付きになっていた。



 ある日の夕方、小野が帰り支度をしながら聞いた。


「高瀬さん、中村さんって、どんな人だったんですか」


「会ったことないの。私も」


「え? 一度も?」


「一度も。声も聞いたことない」


 小野は不思議そうな顔をした。


「でも、高瀬さん、中村さんのこと、すごくよく知ってますよね。ノートの説明をしてるとき、まるで一緒に働いてた人みたいに話す」


 高瀬は少し考えた。答えが出るまで、五秒かかった。


「ノートに、全部書いてあるから」


「ノートに?」


「うん。中村さんが何を見て、何を考えて、どう動いていたか。全部、あのノートに書いてある。読めば、分かるの」


 小野は鞄を持ったまま、頷いた。何か腑に落ちた顔をしていた。


 小野が帰ったあと、受付に一人残った。

 ノートの一冊目を手に取る。「患者様メモ」。角の丸くなった表紙。「中村和代」と書いてある。筆圧が均一で、丸い字。十四年間、同じ丁寧さで書き続けた字。


 中村和代という人を、高瀬は一度も見たことがない。声を聞いたこともない。

 でも、ノートの字を見れば分かる。几帳面で、丁寧で、自分の仕事に誇りを持っていて、最後の最後まで次の人のことを考えていた人だ。


 高瀬はノートの表紙を、指先でそっとなぞった。


 ——「受付は一人で十分でしょ」。


 二人がかりで、ようやく回っている。

 それが、答えだった。


 中村和代という人を、私は一度も見たことがない。

 でも、彼女がここにいたことは、全部知っている。

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