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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『受付は一人で十分でしょ』

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第45話「人を増やすか、私が辞めるかです」

 六月に入って、翼が学校から朝顔の鉢を持ち帰ってきた。

 ベランダに置いて、毎朝水をやる。翼は観察日記をつけている。「はっぱが二まいになった」と、大きな字で書いてあった。


 高瀬は朝顔の双葉を見ながら思う。

 自分の仕事も、根が張り始めたところだ。ただし、水が足りていない。



 入職して二ヶ月が経っていた。

 できるようになったこともある。会計の処理速度は上がった。レセプトも、中村のノートを参照しながらであれば、返戻を月一件に抑えられるようになった。薬局へのFAXも、金曜のルーティンとして定着させた。

 だが、追いついていないことのほうが多い。


 予約管理。中村のノートには六十名以上の患者の好みと検査スケジュールが書いてあるが、それを暗記するには年単位の時間がかかる。ノートを見ながら予約を入れるため、電話一本に五分かかる。中村はもっと短かったはずだ。


 消耗品の発注。注射針、採血管、検査キット、消毒液、コピー用紙。在庫が切れかけてから気づく。中村のカレンダーには発注タイミングが書いてあるが、商品名と型番を照合する時間が足りない。先週、採血管が切れて佐藤に迷惑をかけた。岡田が在庫室を走り回り、別のサイズの管でしのいだ。


 患者数も微減している。五月の月間患者数は前年同月比で八パーセント減。予約の電話を折り返せず、かけ直したときにはもう別の病院に行った、という患者がいる。待ち時間の増加で足が遠のいた常連もいる。宮内達夫は来なくなった。


 そして、帰宅時間。

 入職当初は十七時半に終わっていた。今は十八時を過ぎる日が増えている。翼の学童のお迎えが十八時半なのに、クリニックを出るのが十八時十五分になる。自転車を飛ばして、信号を二つ無視しかけて、息を切らしながら学童の門をくぐる。

 先週の金曜は十八時二十八分だった。二分前。翼は一人で靴を履いて、門の前に立っていた。高瀬が自転車から降りると、翼は走ってきて高瀬の腰にしがみついた。何も言わなかった。

 その夜、翼を寝かしつけたあと、高瀬はキッチンで泣いた。声を出さずに、流しの水を出して、音を消しながら。

 夫の誠が、夕食のテーブルで切り出した。


「真帆、最近、顔色悪いよ」


「そう?」


「学童のお迎え、俺が行ける日は行こうか」


 誠は水曜と金曜なら定時で帰れる。ただ、それ以外の三日は高瀬が行くしかない。


「ありがとう。でも、根本的にはそういう問題じゃないんだよね」


「というと?」


「一人分の仕事じゃないの。前の人は十四年かけて一人で回してたけど、そもそも一人で回る仕事量じゃなかった」


 誠はしばらく黙っていた。箸を置いて、高瀬の顔を見る。


「辞めるか?」


「辞めたら同じことの繰り返しになる。次の人がまた一人で苦しむだけ。中村さんが十四年やって、私が二ヶ月やって、次の人もまた一人で潰れる。そういう構造なの」


 誠は黙って聞いている。高瀬はテーブルの上の麦茶のグラスに目を落とした。氷が溶けかけている。

 中村のノートの走り書きが浮かんだ。「次の方が同じ思いをしないよう」。あの一文が、高瀬の中に根を下ろしていた。



 翌朝。

 翼を小学校に送り届けて、クリニックに着く。八時三十五分。雨が降っていた。傘を畳んで、自動ドアを開ける。消毒液と、微かに古い紙の匂いがする。


 高瀬は院長の朝の時間を取った。

 診療開始前の十分間。院長は診察室の机でカルテを確認していた。


「院長、お話があります」


 三浦は老眼鏡を外して、高瀬を見た。


「なに、どうしたの」


「受付をもう一人、増やしてください」


 三浦の手が止まった。


「増やす? 中村さんは一人で——」


「中村さんが一人で回していたんです。私には、一人では回せません」


「慣れればできるんじゃないかな。中村さんも最初は——」


「七年、医療事務をやっていました」


 高瀬は言葉を切った。院長の目を見る。


「ここの業務量が一人分じゃないことは、経験者だから分かります。前の職場では同じ規模のクリニックを事務二人で回していました。ここは一人です。それが正常ではないことは、二ヶ月で十分に分かりました」


 三浦は椅子の背に体を預けた。


「うちはそんなに患者が多いかな。一日四十人くらいだろう」


「四十五人です。そのうち採血や検査のある方が十五人前後、処方変更が週に五件から八件、検査の紹介状が月に十通以上、レセプトは月末に三日間かかりきりになります。そのあいだも受付と電話と会計は止まりません」


 数字を並べた。中村のノートに書いてあった数字と、高瀬が二ヶ月間で計測した数字。院長は数字に弱くない。窓の外の雨粒を見ながら、黙って聞いていた。


「中村さんは、何度も同じお願いをされていたそうですね」


 三浦が高瀬のほうに顔を戻した。


「……それは」


「佐藤さんから聞きました。三年前、一年前、そして辞める直前。三回、増員をお願いされたと」


 三浦は何も言わなかった。唇が薄く開いて、閉じた。


「人を増やしていただけないなら、私は辞めます」


 高瀬は声を上げなかった。怒っているのではない。事実を伝えている。


「また一人分の求人を出して、中村さんのような方が応募してくれることを祈ってください。ただ、来ないと思います。中村さんは十四年かけてこのクリニックの全部を覚えた人です。そういう人は、求人票には現れません」


 三浦はボールペンを手に取った。キャップを外して、またはめる。それを二度繰り返す。高瀬の顔を見ないまま、窓の外の雨を見ていた。

 しばらく沈黙が続いた。雨の音だけが診察室を満たしている。


「……わかった。求人を出す」


「ありがとうございます」


 高瀬は頭を下げて、受付に戻った。

 九時の診療開始まで、あと十五分。いつも通りにカルテを並べて、予約表を確認して、レセプトソフトを立ち上げる。手が少し震えている。

 佐伯房子が一番に来た。


「おはよう、高瀬さん」


「おはようございます、佐伯さん」


 佐伯は高瀬の顔をじっと見て、何か気づいたようだったが、何も言わなかった。窓際の、いつもの椅子に座る。

 その日、一日の診療を回した。四十三人。電話は十四本。予約変更が三件。検査の紹介状を一通書いて、FAXを一枚送った。一人で。まだ一人で。



 診療後、佐藤が処置室の入口に立っていた。

 高瀬が片付けをしている背中に、声をかけた。


「言ってくれたんだね」


 高瀬は振り返った。


「佐藤さん、聞こえてました?」


「壁、薄いから」


 佐藤が少しだけ笑った。十年間、壁越しに中村の仕事を聞いていた人の笑い方だった。


「中村さんも、同じことを言ってた。三回。でも院長は聞かなかった。四回目は、なかった。退職届だったから」


「今回は聞いてもらえました。中村さんが先に三回言ってくれていたから、四回目の重みが違ったんだと思います」


 佐藤は何か言いかけて、やめた。高瀬の肩を軽く叩いて、処置室に戻った。その掌が、少し温かかった。



 帰宅。翼と夕食。

 今日は誠が先に帰っていて、カレーを作っていた。鍋から玉ねぎの焦げた匂いがする。翼は「お父さんのカレーは辛い」と文句を言いながら、おかわりした。


 翼を寝かしつけて、リビングに戻る。二十一時二十分。

 ノート三冊目を開いた。最終ページの走り書き。


「一人では限界です。何度かお伝えしましたが、聞いてもらえませんでした。次の方が同じ思いをしないよう、できるだけ書き残します」


 高瀬はその行を、人差し指でなぞった。

 中村さんが言って、聞いてもらえなかったことを、自分がもう一度言った。今度は、通った。

 中村さんはこの結果を知らない。知らせる手段もない。

 ノートを閉じた。

 テーブルの上に、翼の観察日記が開いたままになっている。「はっぱが六まいになった。つるがのびてきた」。朝顔は、水をやればやっただけ伸びる。

 明日からは、もう少し早く帰れるかもしれない。

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