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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『受付は一人で十分でしょ』

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第44話「この人、何をしてたんですか」

 レセプトの締め切りは、毎月十日。

 佐藤恵子はそのことを、十年前から知っていた。知っていたが、自分がその数字を意識したことは一度もない。中村がいたから。

 四月の最終週、高瀬が受付のデスクで唸っている。パソコンの画面にはレセプトソフトの入力画面が開いていて、カルテとノートが両脇に積まれている。昼休みだった。おにぎりが二つ、袋のまま放置されている。


「佐藤さん、ここの加算コード、どれを選べばいいんですか」


 処置室から出てきた佐藤に、高瀬が振り返る。目の下に薄く影ができていた。


「ごめん、私はレセプトは分からないの。中村さんに全部任せてたから」


 高瀬は頷いて、ノートの二冊目を開いた。「レセプト・業務」のページをめくる。付箋が何枚も飛び出している。

 佐藤は処置室に戻りかけて、足を止めた。



 十年間、佐藤は中村の隣で働いていた。

 隣、といっても受付と処置室は壁一枚隔てていて、直接は見えない。ただ、声は聞こえた。

 中村の電話応対の声。「はい、三浦けやき内科クリニックです」。毎朝、同じ調子、同じ声量。十年間、一度も乱れなかった。不機嫌な患者の相手をしたあとでも、次の電話では元の声に戻っている。

 佐藤はそれを「中村さんはそういう人だ」と思っていた。プロだから。受付だから。

 プロだから、ではなかった。

 三月にそれが分かった。


 中村が辞めた翌日の朝、佐藤が受付に座った。九時の診療開始まで三十分ある。予約表を確認しようとして、パソコンの画面を開く。予約は入っている。だが、今日来る患者のカルテがどこにあるか分からない。中村は朝八時半に来て、その日のカルテを診察室の棚から出して並べていた。毎日。佐藤はカルテの場所を知っているが、「今日のぶん」をどう選ぶかは知らなかった。


 電話が鳴った。一本目は患者の予約変更。二本目は薬局からの問い合わせ。三本目は検査結果の郵送確認。午前中だけで十二本。電話を取りながら来院した患者の保険証を受け取り、会計をし、次の患者を呼ぶ。一つが終わる前に次が始まる。

 昼休みになったとき、佐藤の手は震えていた。

 院長が診察室から出てきて、佐藤の顔を見た。


『佐藤さん、大丈夫?』


『大丈夫です。ただ——中村さんは、これを毎日やってたんですね』


 院長は何も答えなかった。たぶん、質問の意味が分かっていなかったのだと、佐藤は思う。

 三月の二週目、検査の紹介状を書く必要が出た。紹介先の大塚記念病院に電話をかけようとして、番号が分からない。中村のノートを探しても、どれがどれだか見分けがつかない。結局、インターネットで検索して電話したが、予約担当の名前を知らないため、たらい回しにされた。三十分かかった。中村なら二分だったはずだ。受話器を直接取って、「いつもお世話になっております、三浦けやき内科の中村です」と言えば、向こうは即座に予約枠を押さえてくれた。

 名前を知っている、ということの力を、佐藤はあの三十分で理解した。



 あの一ヶ月で、佐藤は中村の仕事が何だったかを初めて理解した。

 それまでは「受付の仕事」だと思っていた。受付は受付だ。患者が来たら応対して、会計をして、電話を取る。

 違った。

 中村がやっていたのは、クリニック全体の情報管理だった。どの患者がいつ来て、どんな薬を飲んでいて、どの検査を受けていて、次はいつ来るのか。それを全部、頭に入れていた。ノートに書いていたのは、頭の中身のバックアップだったのだ。

 院長は診察室から出ない。看護師は処置室から出ない。クリニックの「外」と「中」をつないでいたのは、受付の中村だけだった。



 高瀬がレセプトの返戻を出した。

 月が変わって五月の第一週、保険者から三件の差し戻しが届いた。加算コードの選択ミスが二件、傷病名の記載不備が一件。

 高瀬が院長に報告している声が、処置室まで聞こえた。


「院長、レセプトの返戻が三件です」


「返戻? そんなに出たことないけど」


「……中村さんが防いでいたんだと思います」


 院長は黙った。

 佐藤は注射器の準備をしながら、壁越しにそのやり取りを聞いていた。


 中村がいた十年間、返戻は年に一件か二件だった。それが、高瀬の最初の一ヶ月で三件。

 高瀬が下手なのではない。佐藤はそう思った。高瀬は経験者で、前職では七年間医療事務をやっていた。それでも三件出る。中村が異常に正確だったのだ。

 返戻一件あたりの再請求にかかる手間と、収入への影響。中村はそれを十四年間、ほぼゼロに抑え続けていた。院長はそれを「普通」だと思っていた。普通ではない。


 受付の仕事は「笑顔で対応してくれればいい」と、院長は面接のときにも言っていた。佐藤は隣の部屋でそれを聞いていた。あのとき何か言うべきだったのかもしれない。しかし、佐藤自身も中村の仕事の全体像を把握していなかった。隣にいて、十年間。



 中村が退職届を出したのは、二月の水曜日だった。

 佐藤はその日のことを覚えている。午後の診療が終わったあと、中村がいつもより五分だけ長くデスクに座っていた。それから立ち上がって、院長室に入り、三分で出てきた。

 表情は変わっていない。泣いてもいないし、怒ってもいない。ただ、十年間で初めて、中村の背中が少し丸く見えた。

 佐藤が「中村さん」と声をかけると、中村は振り返って微笑んだ。


『佐藤さん、お疲れさまでした』


 過去形だった。

 それが、佐藤が中村から聞いた最後の言葉になる。翌日から有給消化に入った中村に、院長は引き継ぎの時間を設けなかった。中村が「引き継ぎをしたいのですが」と申し出たとき、院長は「マニュアルだけ置いといて」と答えた。

 佐藤は処置室でその声を聞いていた。何も言えなかった。中村の仕事がマニュアル一冊で収まるものではないと、そのとき既に分かっていたはずなのに。



 佐藤は高瀬にノートの三冊目のことを伝えた。

 金曜の夕方、診療後。高瀬がカウンターで返戻の修正をしているときに、佐藤は引き出しの奥からもう一冊のノートを出した。三冊目があることは高瀬も知っていた。ただ、手に取る余裕がなかった。


「これ、中村さんが最後に書いたものよ。引き継ぎ用」


 高瀬が受け取る。三冊目。表紙に「引き継ぎ」と書いてある。一冊目、二冊目と同じ丸い字だが、少し急いでいるのが分かった。ページの端が折れている。


「院長に『マニュアルだけ置いといて』って言われたのが、これなの。中村さん、最後に急いで書いたのよ。有給に入る前に」


 高瀬はノートを開いた。

 最初のページに、目次がある。受付業務、会計、レセプト、予約管理、薬局連絡、検査手配、消耗品発注、季節業務。八項目が並んでいて、各項目にページ番号が振ってあった。

 レセプトの項を開く。加算コードの選び方、傷病名の書き方、月末の点検手順。高瀬がさっき間違えたコードの正しい選択基準も、赤ペンの注釈付きで載っていた。

 最後のページまで、びっしり埋まっている。


 最終ページ。余白に、走り書き。

 ほかのページより少し大きい字で、少し崩れた字で、こう書いてあった。


「一人では限界です。何度かお伝えしましたが、聞いてもらえませんでした。次の方が同じ思いをしないよう、できるだけ書き残します」


 高瀬の手が止まった。

 佐藤は黙って見ていた。


 高瀬がノートを閉じた。表紙を両手で押さえるように持って、数秒、動かなかった。

 それから顔を上げた。


「……佐藤さん。中村さんは、怒って辞めたんですか」


「いいえ」


 佐藤は首を振った。


「泣いてもいなかった。ただ、疲れた顔をしてた」


 高瀬はもう一度、ノートの表紙を見た。

 「引き継ぎ」。丸い字。最後の最後まで、この人は次の人のことを考えていた。


 (この人は、何をしてたんですか——)


 その問いへの答えが、三冊のノートの中に、全部書いてあった。

 佐藤は処置室に戻り、手を洗った。蛇口から出る水が冷たい。

 中村さん、あなたの仕事は、こうやって、次の人に届いた。佐藤はそう思った。口にはしなかった。

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