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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『受付は一人で十分でしょ』

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第43話「付箋」

 火曜の午前九時二十分。三人目の患者が来たとき、高瀬は予約表を二度見した。

 九時半の枠に、佐伯房子と内山幸雄と大塚和美。三人。

 三人とも採血がある。看護師は二人。採血は一人ずつしかできない。三人目は三十分以上待つことになる。


「佐伯さん、おはようございます」


「おはよう。今日は混んでるわね」


 佐伯は待合室の椅子を見回して、窓側の端に座った。いつもの席らしい。

 高瀬はノートの一冊目を開いた。佐伯房子の欄を探す。「月二回、火曜午前」——間違いない。だが、ほかの二人も火曜の午前に予約が入っている。

 ノートをめくる。内山幸雄の欄。「火曜午前。採血あり。佐伯さんと同じ時間帯にならないよう三十分ずらす」。

 そう書いてあった。

 中村さんは、採血のある患者を同じ時間に入れなかった。予約を受けるとき、頭の中で看護師の手を計算していた。高瀬にはそこまでの余裕がない。入った順に枠を埋めていた。


 三十分後、内山が受付に来た。


「ずいぶん待つなあ。前はこんなことなかったけど」


「申し訳ございません、少々お待ちください」


 声が上ずるのを自分で感じた。内山は不機嫌そうに雑誌を手に取り、椅子に深く座り直した。



 同じ日の午後。

 宮内達夫が来た。ノートに「待ち時間に敏感」と書いてあった六十五歳の男性。水曜の午前が希望だが、今週は予約が取れず火曜の午後に変更になっている。

 受付で保険証を出しながら、宮内は待合室を見渡した。


「今日、混んでるね」


「少々お待たせするかもしれません」


「前の人はさ、待ちそうなときは電話で教えてくれたんだよ。『宮内さん、今日は少し立て込んでるので、十四時半ごろお越しいただけますか』って」


 高瀬は頭を下げた。電話で事前に連絡する。予約表を見て、混みそうな日を判断して、該当する患者に朝のうちに電話をかける。その発想自体がなかった。


「まあ、新しい人なんだろ。頑張ってよ」


 宮内は手を振って、窓際の椅子に座った。テレビのリモコンを探しているのが見える。チャンネルを変える権利がこの待合室にあるのかどうか、高瀬には分からなかった。



 水曜の午前十時。

 電話が鳴った。


「三浦けやき内科クリニック——」


「やまと薬局の林です。高瀬さん、先週お電話した件なんですが」


「はい」


「金曜のFAX、届いてないんですけれど」


 処方変更の事前連絡。先週聞いた話だ。中村さんが毎週金曜にまとめて薬局に送っていた。高瀬はそのFAXの作り方も送り先も把握していない。


「すみません、まだ引き継ぎが——」


「あ、いえ、責めてるわけじゃないんです。ただ、先週からお薬が変わった患者さんがいらして、事前に分かっていれば確認できたので」


 電話を切ったあと、ノートの二冊目を引き出しから出した。「レセプト・業務」。付箋だらけのページをめくっていくと、後ろのほうに「薬局連絡」と見出しがある。


 FAXの書式。送り先の番号。毎週金曜の十六時に送信。変更のあった患者名と薬品名を一覧にして、備考欄に飲み合わせの注意を書き添える。


 (ここまで自分で決めてやっていたのか。院長の指示じゃなく、中村さんが自分で始めた業務なのか)


 ノートの余白に、赤ペンで「※薬剤師は変更を事前に把握しておきたい。患者の安全に直結」と書いてあった。



 木曜の午後。

 佐伯房子が、会計のときに高瀬の手を止めた。


「高瀬さん、ちょっと聞いていい?」


「はい、何でしょうか」


「今日、先生にお薬を一つ追加されたんだけど。前から飲んでる血圧の薬と、一緒に飲んで大丈夫なのかしら」


 高瀬は一瞬、返事に詰まった。薬の飲み合わせは薬剤師の領域だ。受付が答える範囲ではない。

 だが、ノートにはこう書いてあった。「薬変更時は必ず飲み合わせを院長に確認すること」。


「少しお待ちください。院長に確認いたします」


 診察室に内線をかけた。三浦院長は「ああ、大丈夫だよ」と簡潔に答えた。

 佐伯にそう伝えると、少しだけ表情が緩んだ。


「中村さんはね、こっちが聞く前に確認してくれてたのよ。『佐伯さん、新しいお薬、前のと一緒で大丈夫って先生に確認しましたからね』って」


 高瀬は頷くしかなかった。

 聞かれる前に確認していた。患者が不安を口にする前に、先回りして答えを用意していた。

 ノートの一行目、「薬変更時は必ず飲み合わせを院長に確認すること」。あれは手順の記録ではない。十四年のあいだに中村さんが佐伯房子という一人の患者に対して積み上げてきた、信頼の設計図だった。



 金曜の夕方、診療後。

 高瀬はカウンターの上にノートの二冊目を広げていた。


 付箋が多い。ピンク、黄色、青。最初はランダムに貼ってあるように見えたが、読み進めるうちに法則が見えてきた。

 ピンクは「至急・期限あり」。レセプトの提出締切、保険証の有効期限切れの患者。

 黄色は「定期」。毎月のルーティン業務。月初のカルテ整理、月末のレセプト点検。

 青は「季節」。四月の特定健診案内、十月のインフルエンザ予防接種、十二月の年末調整。

 壁のカレンダーの書き込みと、ノートの付箋が対応している。カレンダーが年間スケジュール、ノートが具体的な手順書。


 二冊のノートとリングファイルとカレンダー。四つの紙が噛み合って、一つのシステムになっている。

 マニュアルなんて言葉では足りない。中村さんは十四年かけて、受付を一人で回すための仕組みそのものを自分で設計し、自分で運用していた。前の職場には二人の事務がいて、院長の指示で動いていた。ここにはそれがない。指示を待つ相手がいないから、自分で考えるしかなかったのだろう。



 翼を迎えに行く前に、佐藤に声をかけた。

 処置室の片付けをしている背中に、高瀬は聞いた。


「佐藤さん。中村さんって、どういう人だったんですか」


 佐藤は使い捨て手袋を外して、ゴミ箱に捨てた。

 しばらく黙っていた。高瀬のほうを向かずに、トレイの消毒スプレーを手に取って、一度、布で拭く。


「……全部、やってた人よ」


「全部」


「受付も、会計も、レセプトも、予約も、電話も、薬局との連絡も。院長が知らないところで、患者さんのことを全部覚えてた」


 佐藤はスプレーを棚に戻した。


「私は十年一緒に働いてたけど、中村さんの仕事が何だったか、ちゃんと分かったのは、いなくなってからよ」


 佐藤は消毒済みのトレイを棚に戻しながら、続けた。


「三月、私が受付やったでしょう。一日で分かった。あの人、朝八時半に来て、診療前に全部のカルテを並べて、今日来る患者さんの薬と検査を頭に入れてたの。午前中の電話は平均十二本。昼休みにレセプトをやって、午後も電話と予約と会計と——全部、同時にやってた」


「それを、一人で」


「一人で。十四年。有給もほとんど取らなかったわ。取ったら代わりがいないから」


 高瀬は何か返そうとして、やめた。

 返す言葉がなかった。



 翼を迎えに行く。十八時五分。

 今日は翼のほうが先に走ってきた。


「お母さん、友達できた。ケンタっていうの」


「よかったね」


「ケンタ、足が速いんだよ」


 自転車を押しながら歩く。四月の夕暮れは、まだ明るい。商店街のパン屋が、シャッターを半分下ろしているのが見えた。


 帰宅して、翼に夕食を食べさせて、風呂に入れて、寝かしつけた。

 二十一時四十分。リビングのテーブルに、ノート二冊を並べる。

 一冊目、「患者様メモ」。二冊目、「レセプト・業務」。まだ三冊目の「引き継ぎ」は開いていない。


 一週間で分かったことがある。

 このノートは、マニュアルではない。中村和代という人間の、十四年分の判断の集積だ。どの患者にどう対応するか、どの業務をいつやるか、何を先回りして確認するか。全部、この人が一人で考えて、一人で決めて、一人でやっていた。


 (この人は、なぜ辞めたんだろう)


 その答えは、まだノートのどこにも書いていない。

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