第42話「受付は一人で十分でしょ」
翼の背中が、校門の向こうに消えた。
ランドセルが大きすぎて、肩の先が見えない。入学式から三日目。友達の後ろをついて歩く背中が、十メートルごとに振り返る。
高瀬真帆は校門の脇で自転車を停めたまま、息子が昇降口に入るのを確認した。
八時十分。
ここから自転車で十分。三浦けやき内科クリニックの診療開始は九時だが、三十分前には来てほしいと面接のときに言われている。
ペダルを漕ぎ出す。住宅街の坂を下りて、商店街の信号を二つ越えた。パン屋の排気口から、焼きたての甘い匂いが漏れている。
七年ぶりの通勤。翼を産んで辞めてから、毎朝この道を通るのは保育園の送り迎えだけだった。保育園ではなく、小学校。送り先が変わって、自分の行き先もできた。
*
三浦けやき内科クリニックは、住宅街の角にある二階建てビルの一階にあった。
白い看板に「三浦けやき内科・消化器科」。隣はコインランドリー、向かいに調剤薬局。自動ドアを開けると、アルコール消毒液の匂いが鼻の奥に届く。待合室には椅子が十二脚、壁にテレビ、その横に雑誌棚。床は白いリノリウムで、入口近くの目地が一カ所だけ浮いている。
受付カウンターの内側に、院長が立っていた。
「高瀬さんだね。三浦です。今日からよろしく」
白衣の下は紺のポロシャツ。老眼鏡を首から下げている。六十二歳。握手はない。名刺もない。
「中村さんが三月で辞めたので、来てもらいました。経験者だから、すぐ慣れると思います」
中村さん。
前任の名前は、面接のときに一度だけ聞いた。十四年勤めていた人、としか知らない。
「受付と会計は分かりますよね。レセプトもお願いします。分からないことがあったら佐藤さんに」
それだけ言って、院長は診察室へ戻っていった。
クリニックの案内図も、業務の一覧表もない。
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「高瀬さんね。よろしくお願いします」
看護師の佐藤恵子が、処置室から顔を出した。五十二歳。白衣の袖を肘まで捲って、注射器の準備をしている途中らしい。
「三月は大変だったのよ、受付がいなくて。私が電話取って、院長も取って」
声を落として、小さく肩を竦めた。
「中村さんのことは——あとでゆっくり話すわね」
その「あとで」がいつなのかは、分からなかった。
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受付のデスクに座る。
椅子の座面が、わずかに沈んでいた。長い時間、同じ人間が座り続けた跡。
デスクの上はきれいに片付いている。パソコン、プリンター、電話、保険証リーダー。レセプトソフトの画面にはログインIDが付箋で貼ってあった。
壁には十二ヶ月のカレンダーが掛かっている。四月のページ。ところどころに丸い字の書き込みがあった。「特定健診案内発送」「インフル予防接種予約リスト作成」。季節の業務だろう。めくってみると、月ごとに書き込みの量が違う。十二月だけ、欄外にまで字がはみ出していた。
引き出しを開ける。
ペン立てと付箋の束。その奥に——ノートが三冊、重なっていた。
大学ノート。B5判。表紙の角が擦り減って丸くなっている。
一冊目。丸い字で「患者様メモ」。
二冊目。「レセプト・業務」。
三冊目。「引き継ぎ」。
院長が「マニュアルを置いてった」と言っていたのは、これだろう。
一冊目を開いた。見開きの左側に患者名、右側に特記事項。最初のページだけで八名分の記載がある。
最初の欄。佐伯房子、七十八歳。高血圧、糖尿病、月に二回火曜の午前。アムロジピン五ミリグラムとメトホルミン二百五十ミリグラム。薬が変わったときは必ず飲み合わせを院長に確認すること。会計は現金のみ、カードリーダーの操作は難しいから。右耳が遠い、右側から話す。娘さんの緊急連絡先。
一人分の欄に、七行。
次のページにも八名。その次にも。ノートの三分の二が埋まっている。
前の職場にも患者メモはあった。ただ、事務が二人いたから半分ずつ書いていたし、ここまでの密度では書かなかった。一人で六十名以上を、この細かさで管理していた人間がいる。
ノートを閉じた。九時の診療開始を待つ。
*
午前中は、何とかなった。
保険証を預かり、カルテを出し、会計をする。七年のブランクがあっても、手は覚えている。保険証のオンライン資格確認は前職になかったシステムだが、画面の指示に従えば済んだ。
午前の患者は二十三人。院長の診察は丁寧で速い。問題は会計で、処理が追いつかないと待合室が詰まる。座りっぱなしの腰が、昼前には鈍く痛み始めていた。
午前最後の患者を送り出したあと、次の予約を確認しようとして手が止まった。予約一覧はパソコンに入っているが、患者ごとの検査予定は別の画面で、切り替え方が分からない。佐藤に聞くと「中村さんはパソコンと紙の予約帳を両方使ってたのよ」と言って、カウンター下の棚からリングファイルを出してくれた。
ファイルの表紙にも、同じ筆跡。「予約管理」。
昼休み。
コンビニのおにぎりを食べながら、ノートの一冊目を読み進める。
宮内達夫、六十五歳。逆流性食道炎、月一回水曜の午前。退職後で時間があるから朝一番を好む。待ち時間に敏感で、長くなると受付に声をかけてくる。ただし感じは悪くない、話好き。
中村さんの字は、どの欄も同じ大きさで同じ丁寧さで書かれていて、急いで書き殴った形跡がどこにもない。
*
午後一人目の患者が、受付カウンターの前で足を止めた。
「あら」
白髪を短く切った女性。杖は使っていない。背筋がまっすぐ伸びている。保険証を出しながら、高瀬の顔をじっと見た。
「中村さんは?」
「前任の方は、三月で退職されました。後任の高瀬です。よろしくお願いいたします」
「……そう。それは寂しいわね」
佐伯房子。ノートの一ページ目の人だ。
右側から話す。会計は現金。
佐伯はそれ以上聞き返さず、待合室の椅子へ向かった。十二年通った場所の変化を、黙って飲み込む背中に見えた。
そのあとも三人の患者が同じことを聞いた。高瀬は三回、同じ返事をした。
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十七時半。最後の患者が帰り、会計を締める。
電話が鳴った。
「三浦けやき内科クリニックです」
「あ、中村さんに代わっていただけますか? やまと薬局の林です」
「中村は退職いたしました。後任の高瀬と申します」
受話器の向こうが、一拍、止まった。
「……そうですか。辞められたんですか」
林さんの用件は、中村さんが毎週金曜にFAXで送っていたという処方変更の事前連絡についてだった。どの患者の薬が変わったか、一覧にして薬局に共有していたらしい。高瀬はメモ帳に走り書きしながら、十五分間、説明を聞いた。
受話器を置く。手のひらが汗ばんでいる。
(FAXの事前連絡なんて、前の職場ではやっていなかった。この人は、どこまで自分で決めて動いていたんだろう)
*
学童に翼を迎えに行く。
十八時十分。翼は靴を履いて、元気に話しかけてきた。
「お母さん、給食でカレー出た」
「辛かった?」
「甘口。でもおかわりした」
自転車の横を翼が歩く。二人乗りはできないから、七歳の歩幅に合わせてペダルに足を乗せたまま地面を蹴った。商店街のシャッターが半分閉まっている。朝に匂いを嗅いだパン屋も、もう暗かった。五分の道。
夕食は、昨夜こねておいたハンバーグの種をフライパンに並べた。ジューと油が跳ねる音を聞きながら、翼の連絡帳にサインする。翼を寝かしつけてから、リビングに戻る。二十一時半。
鞄からノートの一冊目を出した。
テーブルに置いて、表紙を見る。「患者様メモ」。角の丸くなった字。
六十名以上の患者の名前、薬歴、家族の連絡先、会計の注意、予約の好み。一ページごとに、知らない人の十四年分が詰まっている。
(前の職場でも医療事務をやっていた。事務は二人いた。この人は、一人で、これを全部やっていたのか)
ノートを閉じて、電気を消す。
明日も八時三十分には着かなくてはいけない。翼を送って、自転車で十分。




