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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『誰でもできる仕事だろ』

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第35話「あなたの仕事って、何なの」

 十一月の金曜、深夜二時。

 律子はリビングのソファに座って、ぼんやりと壁を見ていた。

 二週間前から、夜中の物音で起きるのが習慣になっていた。木村の帰宅時刻が、毎日ずれていく。先週は一時、その前は二時、今夜は——時計の針が、二時を回ったところだった。

 玄関の鍵が開く音。

 革靴の音が、廊下を不規則に進んでくる。


「ただいま」


 声は、いつもより低く、舌が回っていない。

 律子はソファから立ち上がって、玄関へ歩いた。

 木村は靴を脱ぎながら、片手で壁についていた。スーツの肩のあたりが、わずかに濡れている。雨は降っていなかった。誰かに、こぼされたものだろう。

 律子はその肩の跡を、一秒だけ見た。誰がこぼしたのかは聞かない。八年のパート勤めで、聞いてはいけないものの輪郭を律子は知っている。


「お風呂、入りますか」


「いい。先に寝る」


「紅茶でも、出しましょうか」


「いらない」


 木村はリビングへ歩いていった。

 律子は彼の歩幅が、いつもより短いことに気づいた。普段の木村なら、玄関からリビングまで五歩で到達する。今夜は、八歩かかった。

 律子は台所で湯を沸かし始めた。


 ダイニングテーブルに、紅茶を二つ置く。

 木村はソファに座ったままネクタイを外そうとして、結び目が解けないでいた。律子は向かい合いに座った。


「紅茶、入りました」


「……ああ」


 木村は紅茶のカップに、手を伸ばさなかった。


 律子は自分の紅茶に砂糖を入れ、一口飲んでから言った。


「あなた」


「うん」


「会社、何があったんですか」


「何も」


「先週、岡田さんから電話があったって、独り言で言ってましたよね」


 木村はゆっくりと顔を上げた。

 律子の顔をしばらく見ていた。


「お前、それ、聞いてたのか」


「壁が薄いんです、この家」



 律子はテーブルに肘をついて、紅茶のカップに視線を落とした。


「あなたが言ってきたんでしょう。誰でもできる仕事だって」


「……何が言いたいんだ」


「うちの営業事務の女性が辞めた、って、六月にあなた、朝の食卓で言ったでしょう。あの人、辞めたんでしょう」


「ああ」


「その後、マネージャーの方も辞めたんですよね」


「お前——」


「壁が薄いんです、この家」


 木村は何も返さなかった。グラスを空ける動作で、紅茶ではなく空気を飲み込んだ。


「私ね、二十六のとき、東洋銀行の支店長代理から、同じことを言われたんです。『君の業務は、誰でもできるから』って」


 律子は紅茶のカップを両手で包んだ。


「だから、辞めました」


「……」


「あれから二十年、誰がそういうことを言うのか、ずっと観察してきました。会社の上司、大学の教授、世間のニュース、ご近所の井戸端会議。誰がどういう文脈で、どんな相手に、それを言うのか」


 律子は目を上げて、夫を見た。


「あなたが、家でその言葉を口にするのを、私は十年以上、聞いてきました」


「……それは、お前の——」


「言ってもいいですか」


「言うな」


「あなたの仕事こそ、誰でもできるんじゃないでしょうか」


 木村は紅茶のカップを倒すように手を伸ばして、止めた。

 ティースプーンが、テーブルに小さな音を立てた。


「部長として、二十年、何を残してきたんですか。今、あなたがやっているのは、山田さんがやっていた事務でしょう。山田さんを軽く扱った人が、その仕事をやれていない」


「黙れ」


「黙ります」


 律子は紅茶を一口飲んで、それから言った。


「ただ、ひとつだけ、お願いがあります」


「……」


「明日、娘が起きる前に、寝室に入ってください。娘の前では、いつもの『お父さん』でいてください。美咲には、何も知らせないでください」


「……」


「今日のことは、家計簿の隅に未確認と書いておきます」


 木村はようやく紅茶のカップを手に取って、一口飲んだ。

 冷めかけた紅茶を、彼は黙って最後まで飲み干した。


 律子は自分のカップを両手で握ったまま、夫を見ていた。

 木村は飲み終えても、椅子から立ち上がらなかった。スーツのまま背中をソファに預けて、目を閉じている。

 そのまま眠ってしまうのではないか、と律子は思った。

 しばらく沈黙が続いて、それから木村はゆっくりと立ち上がり、寝室へ歩いていった。寝室の扉が閉まる音を、律子はソファの上から聞いていた。時計は三時を回っていた。


 律子はリビングの灯りを消して、ダイニングテーブルの紅茶のカップを片付けた。



 翌朝、土曜の七時。

 律子は娘の美咲と、二人で食卓に座っていた。

 木村は寝室から出てこない。日曜まで、出てこないかもしれない。

 律子は目玉焼きとトーストを娘の前に置いて、自分の分も並べた。三枚目の皿は、棚の中にあった。


「お母さん」


「うん?」


「お父さん、昨日、何時帰り?」


「二時過ぎ」


「……そっか」


「お母さんは、起きてた」


「うん。物音で、私も目が覚めた」


 美咲はトーストを一口齧って、それから言った。


「お父さん、最近、痩せたよね」


「そうね」


「会社、大変なの?」


「たぶん」


「お母さんも、最近、寝てないでしょ」


「そう?」


「目の下、隈になってる」


 律子は自分の頬に手を当てた。普段、この子は親の顔をこんなに見ていなかったはずだ。


 朝食のあと、律子は美咲の制服にアイロンをかけ始めた。

 来週月曜の朝、美咲が学校に着ていくシャツとブラウス。律子は毎週土曜の朝に、一週間分のアイロンをかける。六年続けている習慣だった。


 美咲は自分の部屋で宿題をしていた。

 律子はアイロンを動かす手を止めて、廊下越しに声をかけた。


「美咲」


「うん?」


「ちょっと、リビングに来て」


 美咲はシャープペンを置いて、リビングに来た。

 律子はアイロン台の前でシャツの皺を伸ばしながら、娘を見た。


「美咲」


「うん」


「あなたが将来、誰かに、『君の仕事は、誰でもできるから』と言われたら——」


「うん」


「その人とは、離れていい」


「……」


「それは、相手の問題で、あなたの問題じゃない」


「うん。知ってる」


 律子はアイロンをシャツの胸元に滑らせた。蒸気が、少し上がる。


「美咲」


「うん」


「お父さんが、もし、いつか、あなたに同じ言葉をかけたら——」


 律子はアイロンを止めて、娘を見た。


「私は、その場で、お父さんと別れるから」


 美咲はしばらく母親を見ていた。

 それから、黙って、うなずいた。


 律子はアイロンの蒸気のスイッチを切って、もう一度シャツに視線を戻した。

 美咲はしばらく台所のあたりに残っていた。冷蔵庫を開け、麦茶のピッチャーを出してコップに注ぐ。それを律子のアイロン台の脇に、そっと置いていった。


「お母さん」


「うん?」


「お父さん、お母さんには、たぶん、優しい人だよ」


「……どうして?」


「お母さん、お父さんのことを、ちゃんと見てるから。優しくない人のことは、ちゃんとは見ないと思う」


 美咲はそれだけ言って、自分の部屋に戻っていった。

 律子は麦茶のコップに、しばらく手を伸ばさなかった。



 夕方、美咲は部屋から出てこなかった。

 律子は二階の押入れから、古い段ボール箱を一つ降ろした。

 箱の底に、細い革のケースがある。表面に、東洋銀行のロゴ。退職するときに、人事の若い女性から記念にと渡されたものだった。段ボールには、結婚式の招待状の控えと、新婚旅行の航空券のしおりも入っていた。それらには触れず、革のケースだけ取り出した。中には、当時の社員証が入ったままになっている。

 律子は社員証の写真を見た。二十六歳の自分。化粧が薄くて、髪が肩までで、表情がまっすぐ前を向いている。

 しばらく見て、ケースに戻し、段ボール箱に戻し、押入れに返した。



 その夜、律子はリビングの引き出しから家計簿を取り出した。

 十一月の領収書欄を、開く。

 銀座の和食店、新橋のスナック、品川のホテルのバー——あれだけ並んでいた接待費が、今月は、ほぼ消えていた。

 代わりに、増えているレシートがあった。

 二十四時間営業のコンビニ。日付は、深夜一時、二時、四時。商品は、栄養ドリンクとおにぎりが中心で、たまにブラックコーヒーと胃薬。一回の額は、五百円から千円程度。だが、その回数が、月の前半だけで、十二回を超えていた。


 律子は家計簿のメモ欄にひとつ書き加える。


「十一月、接待費 急減。深夜コンビニ 急増」


 書いてから、自分の字を見つめた。

 黒インクの細い字が、家計簿の罫線からはみ出していた。

 律子は家計簿を引き出しに戻して、戸を閉めた。

 寝室から、夫の寝息が、廊下越しに、規則的に聞こえていた。

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