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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『誰でもできる仕事だろ』

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第36話「言葉を、飲み込む」

 二〇二七年四月、月曜の朝。

 木村は第三営業部の自分のデスクに座っていた。

 肩書は、課長補佐。部長から二段階下がった。給与は二割減。新しい配属先は、医療機器分野を扱う別ラインの営業部だった。


 一月にこのフロアに移ってきた頃は、毎朝、フロアに着くたびに、自分の旧オフィスのほうを盗み見るようにしていた。三ヶ月経って、その癖は、わずかに薄れていた。エレベーターを降りるときに、十階のボタンを押そうとして、八階のボタンを押し直す。その動作も、最近は迷わなくなった。


 隣の席は、新卒一年目の佐々木萌、二十二歳。彼女は今月入社したばかりで、木村のことを「営業部から異動してきた、課長補佐」としか認識していない。前職の経歴は、本人には伝わっていない。

 オフィスの窓の外で、桜が散り始めていた。葉桜になる、ぎりぎりの時期だった。


 九時、佐々木が席を立った。木村のデスクの前に立って、ノートパソコンの画面を、木村のほうに向けて見せる。


「木村課長補佐、すみません、これってどうすればいいですか」


 画面には、月次の発注集計表が開かれていた。

 木村は佐々木の画面を覗き込む。会計システムMの画面構成。三ヶ月前まで自分が、夜中に泣くような気持ちで触っていた、あのシステムだった。


「……これは、上の段の合計欄に、自動計算ボタンがある。右上の更新ボタンを、最後に押すんだ」


「あ、ここですか」


「そう」


 佐々木はメモを取って、自分の画面に戻った。

 木村は自分の口の中に、ふと、別の言葉が浮かんだのを感じた。

 君の仕事は、誰でもできるから——。

 言いかけて、口を閉じた。

 答えているのは、自分が去年覚えたばかりのフォーマットの位置だった。


 午前中、佐々木は三度、木村のデスクに来た。

 月次集計の合計欄、見積書の有効期限の入れ方、社内承認のフローの順序。どれも、去年までは、山田一人が回していた業務の枝葉だった。木村はノートを見ながら、ひとつずつ答えていった。佐々木はメモを取り、頷いて、自分の席に戻る。

 三度目の質問のあと、佐々木が言った。


「木村課長補佐、ありがとうございます。最初にちゃんと教えてくれる先輩がいてくれて、助かりました」


「いや、こちらこそ」


 木村は、それしか言えなかった。



 昼休み、社員食堂で武井啓子と二人で食事をしていた。

 武井は四十八歳、第三営業部の課長。木村の新しい上司にあたる。武井は、木村の異動の経緯を、本社人事から聞いていた。


「木村さん、第三営業部、慣れましたか」


「ええ、まだ覚えることが多くて」


「そうですよね。医療機器の規制周りは、自動車部品とはまた別の知識が要りますから」


「はい」


 武井は自分の定食の味噌汁を一口飲んで、それから味噌汁の椀を置いた。


「営業部のとき、部下の方が三人、辞められたんですよね」


 木村は箸を止めた。

 異動先の上司からこの話が出るのは、覚悟していた。


「はい」


「何があったんですか」


「分かりません。今でも、何が悪かったか、整理できていません」


 武井は、しばらく木村の顔を見ていた。

 それから、ゆっくりと言った。


「整理できなかったままで、いいと思います。整理できる人ばかりじゃないので」


「……」


「私もね、十二年前、別の課で部下を二人、続けて辞めさせたことがあるんです」


「……」


「降格にはならなかった。でも、その時から、人事の評価には、私の名前にずっと、印がついています。本社が監視している、という意味です」


「……」


「整理できなかったままで、進むしかないこともあります。整理してから進める人ばかりじゃないので」


 武井はトレイの上に、箸を揃えた。


「ただ、第三営業部では、佐々木さんに、丁寧にお願いします。あの子はうちの今期の唯一の新卒なので」


「はい」


「フィードバックを毎月、紙でいいので、本人と私に共有してください。形式は問いません」


「分かりました」


「最後に、ひとつだけ」


「はい」


「フィードバックは、相手の業務をひとつでも、自分の言葉で書いてください。それだけでいいです」


「はい」


「自分の言葉で書けないものは、書かなくていいんです。書けるところから始めてください」


 武井は自分のトレイを持って、立ち上がった。

 木村は定食の白米を一口、口に運んだ。

 味は、ほとんど分からなかった。



 午後六時、退社時刻。

 佐々木が木村のデスクの前で、頭を下げた。


「木村課長補佐、お先に失礼します」


「うん、お疲れさま」


 佐々木はエレベーターホールへ歩いていった。

 木村は自分の机の上の書類の山を見た。明日の朝までに、目を通すべきものが、まだ三件ある。だが、今日は定時で帰ろうと思った。

 降格してからの三ヶ月、木村は初めて定時退社を試みた。


 駅までの道で、ビルの一階の喫煙所の前を通った。営業部時代の同僚が二人、煙草を吸っていた。木村が会釈すると、向こうも会釈を返したが、それ以上の言葉はなかった。木村も立ち止まらなかった。


 駅から自宅まで、徒歩十二分。

 桜並木の下を歩きながら、木村は二十年前の自分の姿を、なぜか思い出していた。

 律子と結婚した直後、住宅ローンを組んで、この街に引っ越してきた。あのときも、桜は散り始めていた。

 律子は新婚の家で、初めての夕食を作っていた。何を作ったかは、思い出せなかった。

 風が吹いて、花弁がスーツの肩に落ちた。三ヶ月前なら、無意識に払い落としていたものを、今夜はしばらくそのままにしていた。



 玄関の鍵を開ける。

 革靴を脱ぐ音が、自分の耳に、はっきりと届いた。


「ただいま」


 律子の返事は、リビングからだった。


「おかえりなさい」


 いつもより、わずかに、声の角度が違う。木村はそれが何を意味するか、まだ整理できていなかった。

 食卓に料理が並んでいた。鶏のクリーム煮、白いご飯、味噌汁、それから胡瓜の浅漬け。三枚目の皿が、自分の場所に戻っていた。

 律子は無言で席に着く。

 木村も無言で席に着いた。クリーム煮を、最初に一口食べた。新婚の頃に、何度か食卓に上がった料理だった。


 二階から、足音。

 美咲が階段を降りてきて、リビングのドアを開けた。


「お父さん、おかえり」


 木村は箸を止めた。

 娘から「おかえり」を言われたのは、思い出せる限り、何ヶ月ぶりだった。いや、何年ぶりだったかもしれない。


「ああ、ただいま」


「ご飯、お母さんが作ったやつ食べた?」


「うん」


「美味しいよね」


「そうだな」


 美咲はそれだけ言って冷蔵庫から麦茶を出し、自分のコップに注いで自分の部屋に戻っていった。

 律子は夫を見なかった。

 無言で味噌汁を一口、口に運んだ。

 木村は自分の味噌汁を、しばらく見つめていた。



 夜十時、寝室。

 木村はベッドに腰掛けて、机の引き出しを開けた。

 古い名刺ケースが、引き出しの奥にある。蓋を開けると、二十年分の名刺が、束になって入っていた。

 一番下に、入社一年目の名刺があった。「赤羽精機株式会社 営業部 木村健司」。肩書はなかった。あの頃の自分は、名刺を渡すたびに、名前と顔を覚えてもらえるように、深く頭を下げていた。

 時系列を遡るように、束の中ほどに「主任」、その上に「課長代理」、「課長」、「部長」と並んでいた。

 その一番上に、最後に作った自分の名刺があった。


『赤羽精機株式会社 営業部 部長 木村健司』


 木村はその一枚を、引き出しから取り出した。

 しばらく、肩書の文字を見ていた。それから両手で、名刺を二つに折った。

 もう一度。四つに折った。

 ベッドの脇のゴミ箱に、その紙片を静かに落とした。

 ゴミ箱の底で、紙がわずかに音を立てた。


 残った名刺の束は、引き出しに戻した。「主任」「課長代理」「課長」の三枚は、まだ捨てない。捨てる必要を、まだ感じない。


 木村は灯りを消して、ベッドに横になった。

 律子はリビングで、まだ食器を片付けている音がしていた。

 その音は、規則的で、急いでいなかった。

 木村は目を閉じた。


 眠りにつく直前、木村の頭にひとつの問いが、ふと浮かんだ。

 山田は今、どこで何をしているのか分からない。高橋には五歳の子どもがいる。北野は、まだ三年目だ。

 彼らがやっていた仕事を、自分は本当に、誰でもできると思っていた。

 律子も二十六歳のときに、同じ言葉を言われた。律子が銀行を辞めたのは、自分が部長になる十数年も前だった。あのときの律子の業務を、自分は今、想像することすらできなかった。


 ——私は、誰でもできる仕事を、誰がやっていたかすら、知らなかった。

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