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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『誰でもできる仕事だろ』

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第34話「マネージャーが、辞めるそうです」

 九月末の月曜、朝八時五十分。

 朝七時に出社してから、もう二時間近くが経っていた。木村は給湯室で、二杯目のコーヒーを淹れていた。先週末も土曜出社で、月次の確定処理を回していた。眠りが浅い。指先が、いつもより鈍い。

 パソコンを開くと、未読メールが百八十件。三栄自動車部品の水谷からのメールが、最上段にあった。

 件名「八月分請求書、訂正のお願い」。

 昨日、再送した請求書に、また品番のずれがあった。三度目だった。水谷の文面は、いつも以上に短くなっていた。「ご対応願います」。それだけ。


 九時、高橋達也が、木村のデスクの前に立った。手に、白い封筒。


「木村部長、お話があります」


「うん?」


「退職届です。十月末で、退職させていただきます」


 封筒を差し出す高橋の手は、震えていなかった。

 木村は四ヶ月前の山田の朝を、無意識に思い出した。同じ立ち姿、同じ封筒の角度、同じ午前九時。


「……何かあったのか」


「山田さんが抜けてから、僕は自分の案件と、山田さんの引き継ぎ整理と、木村部長の代わりの本社報告——全部、僕がやっていました」


 高橋はメモを読み上げるように、淡々と続けた。


「木村部長が事務に没頭されていたので、僕が実質的にこの部の運営をしていました。案件の進捗管理も、メンバーの育成も。北野さんに月次でフィードバックをするのも僕です」


「分かってる。感謝してる」


「でも、もう持ちません。子どもがまだ五歳で、家にも帰れていません。妻からも、はっきり言われています」


「すまん。もう少し頑張れないか。派遣が来れば、状況が変わる」


「派遣の話は、十一月の予算編成期まで動かないと、安田部長から聞きました」


「それは——」


「同業他社からオファーをいただいています。来月から営業マネージャーで入ってほしいと」


 木村は黙った。

 高橋は封筒をデスクの上に置いて、頭を下げて、自分の席に戻っていった。


 木村はしばらく、封筒に手を触れなかった。

 午前中、水谷からのメール返信を、書き始めては消した。十時を過ぎて、ようやく一通、訂正版の請求書を送り返した。

 昼休み、社員食堂で一人で食べながら、木村は高橋の言葉を頭の中で再生していた。


 ——僕が実質的にこの部の運営をしていました。


 その一文だけが、何度も戻ってきた。

 部長は自分だ。だが、運営をしていたのは高橋だった、という認識を、木村は否定する材料を持たなかった。



 翌週の火曜、朝九時。

 北野美里が、木村のデスクの前に立った。手に、白い封筒。

 木村は、もう、驚かなかった。


「木村部長、退職届です。十一月末で、お願いします」


「……理由を聞いていいか」


「マネージャーが辞めると聞きました。私はまだ三年目で、育成の柱がいなくなる職場で続けていく自信がありません。中小ITベンチャーから内定をいただいているので、そちらに移ります」


「育成は、私がやる。残ってほしい」


「失礼ですが、木村部長は、私にこの三年で一度も、業務についてのフィードバックをくださっていません」


 北野は、視線を逸らさなかった。

 木村は、自分の頭の中で、北野に何かを伝えた記憶を探した。年末のキックオフでの形式的な訓示、新人向けの社訓。具体的な業務に対するフィードバックは、思い当たらなかった。

 全部、高橋に任せていた。


 北野は封筒を置いて、自分の席に戻っていった。


 その日の午後、木村は北野の業務リストを確認した。新規開拓の進捗管理と、月次の与信レビュー。それから、過去三年の取引先別収益分析と、社内承認のルートのフロー図——どれも、木村が一度も触ったことのない領域だった。

 ノートの中にあった、北野の手書きメモのコピーを取り出した。


「九月、横浜の山田鋼業 訪問。新規受注の見込みあり。次回十月初旬、見積提示」

「九月末、川崎産機 既存案件の更新交渉。価格は据え置きで合意。十一月から契約継続」


 二件とも、木村は一度も報告を受けていなかった。北野が一人で動いて、一人で進めていた案件だった。



 北野が退職届を出した翌週、木村は朝七時の出社を続けていた。三栄からの催促電話の頻度が、週に三回から、ほぼ毎日に変わっていた。

 月末の確定処理を、木村は一人で進めていた。引き継ぎノートを片手に、一通ずつ。山田が一日で終わらせていた作業に、木村は丸三日かかっていた。


 高橋の最終出社日は十月末の金曜だった。午後五時、高橋は荷物をまとめて、デスクを片付けた。挨拶は、月初の朝礼で済ませてあった。

 帰り際、木村のデスクの前で一度だけ立ち止まった。


「木村部長、お世話になりました」


「ああ、お疲れさま」


 高橋は何も付け加えずに、エレベーターホールへ歩いていった。

 山田と、同じ後ろ姿だった。


 十一月初旬、月曜の朝。

 木村のデスクの内線が鳴った。受話器を取ると、本社の総務部の女性だった。


「木村部長、本社人事担当役員の岡田より、お電話です」


「……繋いでください」


「赤羽ホールディングス、人事担当役員の岡田です」


 岡田の声は、低かった。


「先週、三栄自動車部品の水谷課長から、私のところへ直接お電話をいただきました。御社の営業部、二ヶ月で三人退職されたそうですね。私たちの取引、続けられるんでしょうか、と」


「申し訳ありません。状況は、こちらでも把握しております」


「来週水曜、本社人事部までいらしてください。私と、人事担当者で、お話を伺います」


「承知しました」


「それから、今週中に、安田部長から別のご連絡が行きます」


 電話が切れた。

 受話器を置いた木村の指先が、わずかに冷たくなっていた。

 二十年、社内政治の中で泳いできた。本社の人事担当役員から直接電話が来るのは、定期人事異動の事前打診のときだけだ。それ以外で名前が呼ばれることは、これまでに、なかった。


 午後二時、安田から内線が入った。


「木村部長、人事部までお越しください」


 人事部のフロアで、安田は会議室の扉を閉めた。


「先週、組織健康度調査の対象部署が決まりました。営業部です」


「……何の調査だ」


「退職者面談の集約と、現職社員へのアンケートを実施します。山田さん、高橋さん、北野さん、三人の退職時面談で、共通する退職理由が出てきています」


「共通する理由って、何だ」


「これは、調査結果が出てから、本社のほうからご報告があると思います。私の口からは申し上げられません」


「待ってくれ。私の管理に問題があるという話か」


「現時点では、何も決まっていません。ただ、調査の対象になったということは、お伝えしておきます」


「……分かった」


 会議室の扉に手をかけたとき、木村は振り返った。


「安田部長、私は——」


 言いかけて、続きの言葉が出てこなかった。

 安田は、何も言わずに、木村の続きを待っていた。

 木村は、首を横に振って、会議室を出た。


 オフィスに戻る前に、男子トイレに入った。鏡の前で、ネクタイを締め直す。鏡の中の自分の顔が、ここ二ヶ月で、明らかに痩せていた。

 二週間前、妻の律子が、何も言わずに朝食の皿を並べた光景を思い出した。皿は、二枚しかなかった。三枚目は、棚の中にしまわれたままだった。理由は聞かなかった。聞ける状況でもなかった。



 深夜十一時、誰もいないオフィス。

 木村は引き継ぎノートを開いていた。机の上に、山田のノート、高橋の案件管理メモ、北野の取引先リスト、それから自分の手書き付箋が並んでいる。

 明日の朝までに、誰がどの案件を引き継ぐか、整理しなければならない。残っているのは、自分を含めて三人だけだった。課長補佐の石川と、営業の大野。

 石川は別の部内業務、大野は新規開拓の途中。となると、自分が大半を抱えるしかない。


 ノートのページに、自分の名前を、何度も書きながら、木村はふと手を止めた。

 自分の今の業務リストを書き出してみる。営業部長として、来期計画、本社月次報告、案件全体管理、新規開拓統括。これが、本来の四つ。それに加えて、山田の事務、高橋のマネジメント、北野の現場営業、課長補佐の調整。これが、引き受けた四つ。

 全部で八つだった。

 「誰でもできる仕事」と自分が呼んでいたものが、八つのうち三つを占めていた。


 木村はノートを閉じた。

 ふと、自宅の食卓のことが浮かんだ。律子と美咲が、二人で食べているのか、それとも、すでに自分の椅子は、もう食卓に並んでいないのか。考えようとしたが、最近の自宅の様子が、思い出せなかった。

 時計の針は、日付が変わるまで、あと三十分を切っていた。


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