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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『誰でもできる仕事だろ』

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第33話「君の仕事は、誰でもできるから」

 月曜の朝、木村は八時五十分に出社した。

 営業部のフロアはまだ半分しか埋まっていない。自分のデスクに座って、コーヒーを一口飲んでから、本日の評価面談リストを開く。

 最初は山田玲奈、二十九歳、営業事務、勤続六年。


 会議室Bは九時の予約だった。木村は資料を持って、会議室へ歩いた。

 山田はすでに先に来ていた。グレーのジャケットを着て、メモ帳を膝の上に置いて、両手を揃えて座っている。

 木村は向かいの椅子に座って、山田の評価シートを開いた。

 三年連続、同じ文言が並んでいる。「通常業務遂行、特筆事項なし」。


「山田さん、今期もお疲れさま」


「ありがとうございます」


「評価シートの結論から言うと、今期も、特に問題はない」


「はい」


「ただ、君の業務、毎期同じ評価がついているのは、君も把握していると思う」


「はい」


「率直に話すよ。君の仕事は、誰でもできるからな。派遣でも回るんだよ、その業務」


 山田の表情は、変わらなかった。

 木村はメモを取らない山田の手元を、確認せずに続けた。


「営業事務の業務、全部マニュアル化できるはずなんだ。実際、他社では派遣で回しているところが多い。うちも、君の業務枠は、来月から派遣に切り替える可能性が高い」


 山田は、何も言わなかった。


「もちろん、君が望むなら、別部署への異動も検討する。だが、今のポジションでの昇格は、君のキャリアにとってもプラスにならないと、私は思っている」


「分かりました」


「君が腐らないように、率直に言ったつもりだ。今後のキャリアの参考にしてほしい」


 山田は、評価シートに視線を一瞬落として、それから木村を見た。


「ご指導、ありがとうございます」


 二十分の面談が、十二分で終わった。

 山田は会議室を出ていった。木村は椅子の背にもたれて、コーヒーの残りを飲み干した。

 悪い話を、率直に伝えた。これは、自分の役目だ。



 翌火曜の朝、九時十分。

 山田が、白い封筒を手に、木村のデスクの前に立った。


「木村部長、お話があります」


「うん?」


「退職届です。来月末で、退職させていただきます」


 封筒をデスクの上に置いた。

 木村は封筒を見て、それから山田を見た。


「……分かった。人事に話しておく」


「お願いします」


 山田は頭を下げて、自分のデスクに戻っていった。

 木村は封筒を引き出しに入れた。


 午前十一時、人事部のフロアへ降りた。

 人事部長の安田直人は、自分の席で書類を見ていた。木村が前に立つと、顔を上げる。


「木村部長、おはようございます」


「営業事務の山田、辞めるって。来月末だ」


「ああ」


 安田は机の上のメモに、何かを書き付けた。


「派遣を入れろ。来週から間に合わせろ」


「派遣枠は、年度予算の中で決まっています。今期分はもう使い切っているので、追加するには稟議が必要です」


「稟議って、何日かかるんだ」


「最短で三週間。通常は二ヶ月です」


「冗談だろう。月末処理が回らなくなるぞ」


「申し訳ありません。十一月の予算編成期まで待っていただくか、それまでは木村部長の部内で吸収していただくしかありません。他部署からの一時応援を社内公募する形であれば、最短で一週間ですが、応援者の業務がそちらの部に押し戻しになります」


「いや、いい。事務くらい、誰だってやれるだろう。来期計画と本社月次報告を回せる人間のほうが、よっぽど稀少なんだから」


 木村が言うと、安田は一瞬、ペンを止めた。

 それから、何も言わずに、メモに視線を戻した。


「分かりました。木村部長のところで吸収、と記録しておきます」


 木村は人事部のフロアを出て、自分のフロアに戻った。

 営業部のドアを開けると、山田は自分の席で月次の処理を進めていた。

 木村は山田のデスクの前で立ち止まった。


「山田」


「はい」


「派遣の件、今期中は無理だそうだ。一旦、俺が引き継ぐ」


「……分かりました」


「来週から、フォルダの場所と業務手順を、俺に教えてくれ」


「承知しました」


 山田はそれだけ言って、画面に視線を戻した。



 山田の引き継ぎは、退職届を出した翌週の月曜から始まった。

 山田は、自分のデスクの右側に椅子を引いて、木村を座らせた。パソコンの画面を、二人で覗き込む形になる。


「まず、フォルダ構成から説明します。Z共有ドライブの『営業部』の中に、『受発注』『経理』『顧客マスター』『与信』『月次処理』のフォルダがあります」


 山田はひとつずつ、フォルダの中身を見せていく。中はさらに二十社分の顧客フォルダに分かれ、それぞれの中に、見積書、受注確認書、納品書、請求書のテンプレートが置かれていた。

 木村はメモを取りながら聞いていたが、半分も理解できなかった。


「会計システムMの月次処理は、こちらです」


 山田はマウスでメニューを開いていく。木村が普段、自分では開かないシステムだった。


「二十二日締めで請求書を発行します。確定処理は、月末の三日前までに完了させる必要があります。確定処理が終わると、各顧客に請求書PDFが自動送信されます」


「自動送信?」


「はい。送信前に、必ず内訳を最終確認してから、確定ボタンを押します。確定後は、修正できません」


 木村はノートに「確定ボタン」と書いた。

 山田は画面を切り替えながら、説明を続けていく。


 二十社の取引先について、山田はそれぞれの担当者の名前と、応対のクセを記したメモも見せてくれた。


「三栄自動車部品の水谷さんは、品番の桁取り違えに非常に厳しい方です。請求書を出す前に、必ず先方の発注書PDFと突合してください」


「川崎産機の佐藤さんは、先方が月末締めなので、こちらの月内の数字を、二十日時点で先に見せてほしいというご要望があります。これは部長判断ですが、慣例で対応しています」


 木村はノートにメモを取った。

 二十社分のクセが、それぞれ違う。


 最初の三日間で、フォルダ構成や会計システムの概観、二十社のクセまで——山田が一人で抱えていた業務の全貌を、木村は一通り聞いた。


「もう、わかった。あとは月次のサイクルを回しながら覚える」


 木村は三日目の終わりに、そう言った。山田は黙って頷いた。



 五月下旬。山田の主導で、五月の月次処理が進んだ。木村は隣の椅子で、画面を覗き込んでいる。二十二日締めの確定処理、確定後の二十社分の請求書PDF自動送信、月末の与信レビュー。山田の手は、画面の上を迷いなく動いていく。

 木村は内心で「これ、自分一人でやれるのか」と思ったが、口には出さなかった。


 六月の月初処理は、木村が一人で試みることにした。引き継ぎノートを開きながら、ひとつずつ進めていく。だが、五ページ目で手が止まった。


「山田、この『前月在庫の繰り越し処理』っていうのは、どこから数字を持ってくるんだ」


「経理部から月初の三日に来るメールに、添付されています。それを『顧客マスター』の中の『前月実績』のセルにコピーします」


「ああ、なるほど」


 言われればその通りなのだが、ノートには書かれていなかった。山田は「あとで追記しておきます」と言って、自分の手書きノートに書き加えた。


 六月末の金曜、午前——山田の最終出社日。

 二十二日締め後の確定処理は、最終確認の段階に入っていた。月末三日前の期限まで、あと一日。山田が立ち会える、最後のタイミングだった。

 木村は山田の隣で、三栄向けの請求書の品番に違和感を覚えた。だが、どこが違うのかが分からない。


「山田、これ、合っているか」


 山田が画面を覗き込んだ。


「桁が一つずれています。先方の発注書PDFと、ここの数字、突合してください」


 木村はPDFを開いて、突合を試みた。気づくのに、十五分かかった。

 山田は静かに、自分のノートに何かを書き足してから、画面に向き直って、確定ボタンを押した。二十社分の請求書PDFが、自動で送信された。



 同日、午後五時。

 山田は荷物をまとめて、デスクを片付けた。挨拶は、営業部の朝礼で済ませてあった。

 最後に、机の上にA4サイズのノートを一冊、置いた。


「これ、引き継ぎノートです。フォルダの場所、月次の手順、それから木村部長が試されてうまくいかなかった箇所も、すべて追記してあります」


「ああ、ありがとう」


 帰り際、木村のデスクの前で一度だけ立ち止まって、言った。


「お世話になりました」


「ああ、お疲れさま」


 それだけだった。

 山田はエレベーターホールに歩いていって、振り返らなかった。



 山田が辞めた翌週から、木村は朝七時に出社するようになった。

 七月初旬の月曜の朝、木村のデスクの上には、二十社分の請求書と、先方から届いた発注書の山が、未処理のまま積まれていた。

 月初めの繰越処理を、木村は引き継ぎノートを開きながら、ひとつずつ進めていく。


 朝八時十二分、最初の電話が鳴った。

 受話器を取ると、三栄自動車部品の購買部課長、水谷だった。


「木村部長、おはようございます。先月お送りした七月分の発注について、受注確認書がまだこちらに届いていないようでして。確認させていただきたく、お電話しました」


「……あ、はい、確認します」


「いつも山田さんから、月初めに受注確認書をいただいていたんですが」


「山田が退職しまして。私のほうで対応しています」


「そうですか。月内には、いただけますか」


「もちろんです、すみません」


 木村は電話を切って、引き継ぎノートを開いた。

「月次の受注確認書 → Z共有 → 受発注 → 顧客別 → 三栄」と書かれている。共有ドライブを開いて、その通りにフォルダを辿る。フォルダの中に、六月分の受注確認書が一通あった。七月分は、まだ作っていなかった。


 他の取引先からの催促電話が、次々に来た。

 経理部からは「月次の確定処理、遅れていますよ」と内線が入る。

 高橋達也が、木村のデスクの前に立った。


「部長、来週の本社月次報告、準備できてますか」


「……すまん。今、月末処理が立て込んでて、本社報告の資料、まだだ」


「私が代わりに作りましょうか」


「頼む」


 高橋はパソコンに戻っていった。

 木村は引き継ぎノートのページを、もう一度めくり直した。


 その日の昼過ぎ、木村は三栄向けの七月分受注確認書を、テンプレートから作成する作業に取りかかった。

 共有ドライブのテンプレートを開いて、品番を入力し、数量を入力し、税抜き金額を入れる。税込み計算が、自動で入らない。引き継ぎノートを見直すと、「自動計算は、シートの右上の更新ボタンを押す」と小さく書いてあった。

 更新ボタンを押すと、税込み額が表示された。

 受注確認書一通の作成に、四十分かかった。

 二十社分。それを月内に終わらせる必要があった。



 深夜十一時、誰もいないオフィス。

 木村は引き継ぎノートを最初のページから読み返していた。山田が手書きで書いた説明と画面のスクリーンショット、注意点が、びっしりと並んでいる。

 最後のページに、こう書かれていた。


『困ったときは、過去三年分のメールフォルダ「営業事務/山田/三栄」を検索してください。だいたいの問い合わせには、過去のやり取りで答えがあります』


 木村はメールの検索画面を開いて、「三栄」と入れた。

 山田が、過去三年分、水谷とやり取りしていたメールが、八百件以上、ずらりと並んだ。

 画面をスクロールしていく手が、途中で止まった。

 時計は十一時半を回っていた。明日の朝七時には、また出社しなければならない。

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