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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『誰でもできる仕事だろ』

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第32話「うちに入った若いやつがさ」

「うちに入った若いやつ、あいつの仕事なんて誰でもできるんだよ」


 夫の声が、新聞越しに食卓に届いた。

 律子は鶏の照り焼きを弁当箱に詰めながら、手を止めなかった。昨夜下味をつけておいた鶏もも肉を、フライパンで焼き直し、卵焼きを巻く。八年間、月曜から金曜の朝、繰り返してきた手順だった。


「正社員枠の無駄なんだよな、ああいうのは」


 木村健司は、新聞を一枚めくる。経済面の見出しを追っているのか、ただ目を走らせているだけなのか、律子には区別がつかなかった。

 二階から、娘の足音。


「お父さん、おはよ」


 階段を駆け降りてきた美咲が、制服のリボンを締めながら席に着く。トーストを齧って、牛乳に口をつけて、それから父親のほうを見た。


「お父さんって、何の仕事してるんだっけ」


 木村が新聞を下ろした。

 不意の質問だった、と律子からは見えた。


「営業の管理だ」


「営業の管理って、何するの?」


「……部下の管理だ」


 木村はもう一度、新聞をめくった。

 律子は弁当箱の蓋を閉めながら、夫の手元を見ない。ここで何かを言えば、長い昼下がりの嫌な余韻が家に残ることを、八年のパート勤めで身につけた感覚が、彼女に教えていた。


「今日、遅くなる」


 木村が言った。


「接待ですか」


「ああ。返しの会だ。三栄の水谷さんと。あそこの課長、最近うるさくてな。月次の請求がちょっと遅れたくらいで、本社まで突っついてきやがる」


「そうですか」


「あと、明日、評価面談がある。山田って事務職、来月で派遣に切り替えるかもな。あいつの仕事、誰がやっても変わらないし」


 律子は卵焼きの最後の一切れを弁当箱に詰めた。

 手は止まらなかった。


 木村は鞄を取って、玄関へ向かった。

 律子は玄関まで追わなかった。木村も、出るときに「行ってきます」を言わない。

 ドアの閉まる音。


 美咲がテーブルに頬杖をついて、母親のほうを見た。


「お父さん、ああいうこと、よく言うね」


「うん」


「『誰でもできる仕事』って、お父さんの口癖でしょ。私、たぶん百回くらい聞いた」


 律子は娘のお椀を下げて、シンクに置いた。


「美咲、もう出ないと、遅刻するよ」


 娘は鞄を取って、玄関へ向かう。

 ドアが閉まると、家の中は急に静かになった。



 律子はダイニングテーブルの上を片付けてから、リビングの引き出しから家計簿を取り出した。

 今月の欄に、整理していない領収書が、十三枚ほど挟まっていた。

 一枚ずつ、日付と金額と店名を、書き写していく。


 六月二日、銀座の和食店、二万八千円。接待。

 六月四日、新橋のスナック、九千五百円。これは個人。

 六月六日、品川のホテルの一階バー、一万二千円——分からない。


 接待費か、個人の飲み代か。

 ここ二年、この区別が、律子にはつかなくなっていた。会社から精算される領収書と家計から出る領収書を、木村は同じ財布に入れて持って帰る。律子が一枚一枚、振り分けるしかない。

 区別のつかないものは、家計簿の隅に「未確認」と書いて、別のファイルに移す。

 別のファイルを開いて確認した。今年の一月から五月までの「未確認」が、二十八枚溜まっている。月平均、五枚から六枚。それが、六月は今日までの一週間ですでに七枚。


 律子は家計簿のメモ欄にひとつ書き加える。


「六月七日、新人発言。未確認領収書、急増」


 書いてから、自分の字を見つめた。黒インクの細い字が、家計簿の罫線からわずかにはみ出している。

 夫の会社が、何かを失いつつある——そう書きたかったが、まだ確証はなかった。律子は家計簿を引き出しに戻して、リビングの戸を閉めた。



 パート先のベーカリー麦の音は、駅から歩いて七分の住宅地にある。

 律子は週四日、朝九時半から午後二時までレジに立つ。今年で八年目になった。

 今朝のシフトは、律子とパート仲間の浜野さんと、店長の春日さんだった。


「木村さん、おはようございます」


 浜野麻美子は、エプロンの紐を直しながら挨拶する。彼女は近くの女子大の三年生で、月曜と水曜の朝だけシフトに入る。三ヶ月前から働き始めたばかりだった。

 店の奥から、朝焼きの食パンの匂いが流れてくる。


 九時四十五分、最初の客が入ってきた。常連の年配の男性、いつものクロワッサンとブラックコーヒー。


「今日もよろしくね」


 常連が言うと、浜野は明るく頷いて、コーヒーをカップに注ぎ始めた。

 ところが、浜野はコーヒーを注いだあとに、温めたミルクを足してしまった。常連はいつも、ブラックでコーヒーを飲んでいる。


「あっ、すみません、淹れ間違えました」


「ああ、いや、いいですよ」


「すぐに新しく淹れ直しますから、少しだけ待っていただけますか」


 常連は頷いて、待った。浜野はコーヒーマシンの前で、慎重にもう一度淹れる。常連は急かさない。


 店長の春日さんが、奥のオーブンの前から声をかける。


「浜野さん、慌てないでね。まず、ピッチャーの中身を確認してから注ぐ。それだけだから」


「すみません」


「謝らないで。ミスはミスとして、次にどうするかが、仕事だから」


 春日さんは六十二歳の女性で、この店を二十二年続けている。普段は奥でパンを焼いていて、レジには出てこない。だが、新人がミスをしたときだけ、表情を変えずにフロアに出てくる。

 常連は、新しいコーヒーを受け取って、いつもの席に座った。


 律子はレジを打ちながら、ふと考える。

(この子の仕事は、誰でもできるって、誰が決めるんだろう)


 春日さんが浜野に教えたことは、マニュアルに書かれていない。ピッチャーを取り違えたあとのリカバリーや、客の沈黙の意味の読み方。それらは、二十二年この店を続けてきた人だけが、若い手に渡せる。


 あれは、二十六歳の春だった。

 律子は東洋銀行の渋谷支店、預金課の窓口担当だった。

 大口顧客の相続継承の書類を、若手の窓口で受け付けるのは律子しかいなかった。書類の書き間違いが一字でもあれば、相続税申告の期限がずれて、顧客に数百万単位の損失が出る。毎日、その緊張の中で書類を捌いていた。


 支店長代理の片岡は、五十代後半の小柄な男性で、いつも黒革のシステム手帳を持って歩いていた。律子の評価面談は毎年三月、その手帳を開いた状態で始まった。

 あの夕方も、いつものように、応接スペースで二人きりだった。窓の外で、桜並木の若葉が出始めていた。


『木村さん、今期もご苦労さまでした』


 片岡は、律子の評価シートの欄を、ペンの先で軽く叩いた。


『業務遂行は問題なし。これは三年連続で同じです』


『はい』


『ただ、今期も、昇格枠の対象には入っていません』


『……はい』


『木村さんがいま担当されている業務は、当行の中でも、比較的標準化が進んでいる領域でして。属人化を避けるべき分野ですから、今期も、来期も、もう少し、いまの体制で見守らせてください』


 律子はその一文を、頭の中で二度繰り返した。最初は意味が入ってこなかった。二回目で、片岡の言葉の組み立て方がはっきり聞こえた。

 標準化が進んでいる、属人化を避ける——婉曲な言葉の裏側で、律子の業務が誰にでも置き換え可能であることが、昇格させない根拠になっていた。


『分かりました』


 律子はそれだけ言って、応接スペースを出た。窓口に戻って、午後の最後の客の相続書類を受け付けて、定時に退社した。

 帰りの電車で、誰の顔も見なかった。何の音も聞こえなかった。

 アパートの一室で、コートを着たまま床に座って長く泣いた。仕事を奪われたわけでも、減給されたわけでもない。ただ、片岡の短い一文で、五年間の自分の業務が、誰にでも置き換え可能なものとして整理されていた。

 朝になる前に、退職を決めた。婚約者だった木村に、結婚を急ぐと告げて、翌年には退職届を出した。



 午後二時にパートを上がって、律子は駅前のスーパーに寄った。

 夕食は鶏のクリーム煮にすると決めていた。鶏もも肉、玉ねぎ、人参、マッシュルームを順に籠へ入れていく。二十年近く前、銀行を辞めた直後の自分が、結婚してから初めて作る料理の材料を入れていった日のことを、ふと思い出した。何を作ったかは、もう覚えていない。


 キッチンで野菜を切っていると、四時過ぎ、玄関の鍵が開く音がした。


「ただいま」


「おかえり」


 美咲が鞄を放りながらリビングに入ってくる。冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注ぐ。

 律子は玉ねぎを刻む手を止めて、振り返った。


「美咲」


「うん?」


「今朝、お父さんが言ったこと、覚えてる?」


「うん。お父さん、ああいうこと、よく言うね」


「学校で、誰かに、似たようなこと言われたことある?」


 美咲は麦茶のコップを両手で持ったまま、しばらく考えてから、首を傾げた。


「……ない。少なくとも、まだ」


「そう」


「あ、でも、今日、現代社会の先生が、面白いこと言ってた」


「何?」


「『誰でもできる仕事って、誰でもやってないですよね』って。授業の脱線で、たぶん十秒くらい言って、すぐ次の話に行ったんだけど。私、その十秒だけ、ノート取った」


 美咲が鞄からノートを出して、ページをめくる。

 数学のノートの欄外に、青いペンで一行、書かれていた。


『誰でもできる仕事って、誰でもやってない』


 律子はその一行を、じっと読んだ。

 二十年前、自分が銀行を辞めた夜にぼんやり浮かんで言葉にできなかったことが、女子高生のノートの欄外に十秒で書き留められていた。


「先生、いい先生だね」


「うん。お母さんも、そう思う?」


「思う」


 律子は玉ねぎを刻む手を、また動かし始めた。

 包丁の音が、台所にゆっくり戻ってきた。


「お母さん、お父さん、今日帰ってくる?」


「遅いって。たぶん、零時を過ぎる」


「じゃあ、二人で食べようか」


「うん」


 美咲は麦茶のコップをテーブルに置いて、自分の部屋に戻っていった。

 律子は台所の棚を開けて、皿を二枚だけ取り出した。

 三枚目の皿は、その奥に、しまったままにした。

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