第31話「補佐役として、優秀でした」
数日が経った朝、藤村は鞄に退職届を入れたまま、いつも通り出社した。
地下鉄を降りて、博通堂のオフィスビルまで、徒歩五分。普段と同じ時刻、同じ道、同じエレベーター。第一クリエイティブ局の自分のデスクに着くと、机の上にメモが一枚置かれていた。
『局長室まで、十時に来てください。高木』
手書きの字。
藤村はメモを軽く折りたたんで、引き出しに入れた。鞄から退職届を出すかどうか、まだ決めていなかった。
*
午前九時三十分、滝沢が出社した。
藤村のデスクの前を、いつもより速く通り過ぎていく。目を合わせない。
藤村は彼の背中を、ほんの短く目で追った。
九時五十分、後輩の小宮がコーヒーを買って戻ってきた。
「藤村さん、おはようございます」
「おはよう」
「あの……今朝、社内の人事掲示板に、何か出てました?」
「見てない」
「俺、ちょっと開いてみますね」
小宮がパソコンに向かって、十秒ほど黙る。それから、画面を藤村のほうに向けた。
『人事異動内示(案件単位):吉永食品アカウント、リーダー職を、藤村紗英に変更。滝沢健は別案件へ異動』
短い告知だった。決定ではなく、内示。
社内システムの掲示板は、関係者にしか開かない閲覧権限がついている。藤村は画面を一行だけ読んで、自分のディスプレイに視線を戻した。
「藤村さん」
「うん」
「これ、おめでとうございます、で、いいんですか」
「まだ、決まったわけじゃないみたい」
「でも、出てるってことは……」
「うん」
藤村はそれ以上答えなかった。
*
十時、局長室。
高木は藤村の入室と同時に立ち上がって、応接ソファのほうに藤村を促した。普段の評価面談で使うのと同じ、革張りのセット。
「藤村さん、座ってください」
「失礼します」
高木はテーブルの上に紙を一枚置いた。「アカウント・プロデューサー登用に関する内示書」と印字されている。
「先日、吉永食品さんからご回答とともに正式な書面が届きました。藤村さんをリーダーに、というご指名です。社長と専務、それから大塚部長、三名の連名で」
「……」
「私も、社内で調整しました。来期から、藤村さん、正式にプロデューサーです。吉永食品アカウントの全責任を君が持ってください。ついては、ご了承いただけますか」
高木は藤村の顔を見た。
いつもの穏やかな笑みは、今日は、薄かった。
「……はい」
藤村はそれだけ答えた。
「それから、藤村さん」
「はい」
「あなたは、補佐役として優秀だね、と私はずっと言ってきました」
高木はテーブルの上で両手を組んだ。
藤村はその指の動きをしばらく見ていた。
「先日、滝沢から長文の報告がありました。吉永食品さんからのご指名は、お伝えしたとおりです。社内の人事掲示板にも、いくつか問い合わせが入りました」
高木はテーブルの一点をしばらく見ていた。
「あれは、間違いだったと、今になって、思います」
それだけ言って、高木はテーブルの紙を指先で揃え直した。
藤村はすぐに返事をしなかった。返事をするのに、十五年分の時間が要る。
「いえ」
ようやく、藤村は言った。
「補佐役として、優秀でした。それは、事実です。ただ、これからは、リーダーとしての優秀さも、見ていただきます」
高木はテーブルの上で指を組んだまま、長く動かなかった。
藤村は立ち上がって、局長室のドアに向かう。ドアノブに手をかける前に、振り返って、一度だけ頭を下げた。
*
昼休み、滝沢が給湯室に立っていた。
藤村が紅茶のティーバッグを取りにいくと、滝沢のほうから、振り返ってきた。
「藤村」
「はい」
「俺が、お前を補佐役って言ってきたのは……」
滝沢は続きを言葉にできなかった。
数日前に届いていた長文チャットを、藤村も読み返していた。本人の言葉で、本人が書いていた。滝沢は同じ文面を、高木のところへも先回りして送ったのだろう。
藤村はティーバッグを湯飲みに落として、ポットからお湯を注いだ。
「滝沢さん」
「ああ」
「吉永食品の引き継ぎ、来週から、始めましょう。ロードマップの細部は、私から共有します。次の案件のリーダーをされるなら、必要なものは全部お渡しします」
「……ありがとう」
滝沢はそれだけ言って、給湯室を出ていった。
*
午後、後輩の小宮が、藤村のデスクの前で、立ち止まった。
「藤村さん、ちょっといいですか」
「うん」
「その、辞めるんじゃないかって、ずっと心配してたんですけど。今朝、内示が出て、俺、めちゃくちゃホッとして」
「……」
「藤村さん、辞めなくて、いいんですよね」
藤村は自分のデスクの一番下の引き出しを開けて、白い封筒を取り出した。
今朝、出社した直後に、鞄から引き出しの奥に移しておいた、あの夜書いた退職届だ。
藤村はその封筒をシュレッダーには入れなかった。元の場所に、もう一度しまい直した。
「辞めるカードは、しまっておく」
「え」
「いつでも辞められる、と思っているから、辞めなくて済むこともある。あの封筒は、しばらく、そこに置いておく」
小宮は藤村の言葉の意味をしばらく考えていた。
それから、小さく頷いて、自分のデスクに戻っていった。
*
夕方、藤村はヘッドハンターの木下に、メールを送った。
『お世話になっております。先日のご紹介の件ですが、今回は見送らせてください。状況が変わりまして、現職で新しい役回りをいただくことになりました。タイミングが合わず申し訳ございません。今回のご縁を、私のなかでは大切にとっておきます。心からの感謝とともに』
送信ボタンを押すと、十分後に、木下から短い返信が来た。
『承知いたしました。藤村さんのご活躍を、心より応援しています。またご一緒できる機会があれば』
*
十日後、吉永食品本社で、最初の打ち合わせ。
大塚部長との、新体制での顔合わせだった。
藤村は新しい名刺を一枚、大塚に渡した。
『博通堂 第一クリエイティブ局 アカウント・プロデューサー 藤村紗英』
大塚は名刺を両手で受け取って、しばらく肩書のところを見ていた。
「藤村さん」
「はい」
「残り三年、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
大塚は新しい名刺を胸の高さで、もう一度持ち直した。それから、深く礼をした。
藤村は姿勢を整えて、応えた。
*
帰り道、藤村は地下鉄の駅まで、ゆっくりと歩いた。
ビルとビルのあいだから、梅雨の合間の青い空が細く流れている。改札のIC音がどこか遠くで鳴っていた。
二年前、最初の立ち上げ会議で、大塚が投げかけた問い。
『五年後に、どんな食卓に乗っていてほしいか、藤村さんはどう思いますか』
あの問いに、ようやく自分の名刺を持って答えられる立場になった。
歩きながら、頭の片隅で、誰かの声が不意によぎる。
五年前、外資へ転職した、同期の大野が、最後に藤村に言った言葉。
『あなたも、逃げて』
大野は博通堂を出ていった。藤村は残った。出ていくことと、残ることに、どちらの正しさがあるのかは、藤村にもまだ分からない。
ただ、辞めるカードを引き出しの奥に置いて、明日、また出社する。それは、決めた。
地下鉄の改札に向かう人波の中で、藤村は鞄の取っ手を左手で握り直した。
『誰でもできる仕事』と言われて去っていった人たちは、みんな、戻らなかったのだろうか。
——私は、辞めなかった。辞めるカードを、握りしめたまま。




