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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『補佐役として優秀だね』

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第31話「補佐役として、優秀でした」

 数日が経った朝、藤村は鞄に退職届を入れたまま、いつも通り出社した。


 地下鉄を降りて、博通堂のオフィスビルまで、徒歩五分。普段と同じ時刻、同じ道、同じエレベーター。第一クリエイティブ局の自分のデスクに着くと、机の上にメモが一枚置かれていた。


『局長室まで、十時に来てください。高木』


 手書きの字。

 藤村はメモを軽く折りたたんで、引き出しに入れた。鞄から退職届を出すかどうか、まだ決めていなかった。



 午前九時三十分、滝沢が出社した。

 藤村のデスクの前を、いつもより速く通り過ぎていく。目を合わせない。

 藤村は彼の背中を、ほんの短く目で追った。


 九時五十分、後輩の小宮がコーヒーを買って戻ってきた。


「藤村さん、おはようございます」


「おはよう」


「あの……今朝、社内の人事掲示板に、何か出てました?」


「見てない」


「俺、ちょっと開いてみますね」


 小宮がパソコンに向かって、十秒ほど黙る。それから、画面を藤村のほうに向けた。


『人事異動内示(案件単位):吉永食品アカウント、リーダー職を、藤村紗英に変更。滝沢健は別案件へ異動』


 短い告知だった。決定ではなく、内示。

 社内システムの掲示板は、関係者にしか開かない閲覧権限がついている。藤村は画面を一行だけ読んで、自分のディスプレイに視線を戻した。


「藤村さん」


「うん」


「これ、おめでとうございます、で、いいんですか」


「まだ、決まったわけじゃないみたい」


「でも、出てるってことは……」


「うん」


 藤村はそれ以上答えなかった。



 十時、局長室。

 高木は藤村の入室と同時に立ち上がって、応接ソファのほうに藤村を促した。普段の評価面談で使うのと同じ、革張りのセット。


「藤村さん、座ってください」


「失礼します」


 高木はテーブルの上に紙を一枚置いた。「アカウント・プロデューサー登用に関する内示書」と印字されている。


「先日、吉永食品さんからご回答とともに正式な書面が届きました。藤村さんをリーダーに、というご指名です。社長と専務、それから大塚部長、三名の連名で」


「……」


「私も、社内で調整しました。来期から、藤村さん、正式にプロデューサーです。吉永食品アカウントの全責任を君が持ってください。ついては、ご了承いただけますか」


 高木は藤村の顔を見た。

 いつもの穏やかな笑みは、今日は、薄かった。


「……はい」


 藤村はそれだけ答えた。


「それから、藤村さん」


「はい」


「あなたは、補佐役として優秀だね、と私はずっと言ってきました」


 高木はテーブルの上で両手を組んだ。

 藤村はその指の動きをしばらく見ていた。


「先日、滝沢から長文の報告がありました。吉永食品さんからのご指名は、お伝えしたとおりです。社内の人事掲示板にも、いくつか問い合わせが入りました」


 高木はテーブルの一点をしばらく見ていた。


「あれは、間違いだったと、今になって、思います」


 それだけ言って、高木はテーブルの紙を指先で揃え直した。

 藤村はすぐに返事をしなかった。返事をするのに、十五年分の時間が要る。


「いえ」


 ようやく、藤村は言った。


「補佐役として、優秀でした。それは、事実です。ただ、これからは、リーダーとしての優秀さも、見ていただきます」


 高木はテーブルの上で指を組んだまま、長く動かなかった。

 藤村は立ち上がって、局長室のドアに向かう。ドアノブに手をかける前に、振り返って、一度だけ頭を下げた。



 昼休み、滝沢が給湯室に立っていた。

 藤村が紅茶のティーバッグを取りにいくと、滝沢のほうから、振り返ってきた。


「藤村」


「はい」


「俺が、お前を補佐役って言ってきたのは……」


 滝沢は続きを言葉にできなかった。

 数日前に届いていた長文チャットを、藤村も読み返していた。本人の言葉で、本人が書いていた。滝沢は同じ文面を、高木のところへも先回りして送ったのだろう。

 藤村はティーバッグを湯飲みに落として、ポットからお湯を注いだ。


「滝沢さん」


「ああ」


「吉永食品の引き継ぎ、来週から、始めましょう。ロードマップの細部は、私から共有します。次の案件のリーダーをされるなら、必要なものは全部お渡しします」


「……ありがとう」


 滝沢はそれだけ言って、給湯室を出ていった。



 午後、後輩の小宮が、藤村のデスクの前で、立ち止まった。


「藤村さん、ちょっといいですか」


「うん」


「その、辞めるんじゃないかって、ずっと心配してたんですけど。今朝、内示が出て、俺、めちゃくちゃホッとして」


「……」


「藤村さん、辞めなくて、いいんですよね」


 藤村は自分のデスクの一番下の引き出しを開けて、白い封筒を取り出した。

 今朝、出社した直後に、鞄から引き出しの奥に移しておいた、あの夜書いた退職届だ。

 藤村はその封筒をシュレッダーには入れなかった。元の場所に、もう一度しまい直した。


「辞めるカードは、しまっておく」


「え」


「いつでも辞められる、と思っているから、辞めなくて済むこともある。あの封筒は、しばらく、そこに置いておく」


 小宮は藤村の言葉の意味をしばらく考えていた。

 それから、小さく頷いて、自分のデスクに戻っていった。



 夕方、藤村はヘッドハンターの木下に、メールを送った。


『お世話になっております。先日のご紹介の件ですが、今回は見送らせてください。状況が変わりまして、現職で新しい役回りをいただくことになりました。タイミングが合わず申し訳ございません。今回のご縁を、私のなかでは大切にとっておきます。心からの感謝とともに』


 送信ボタンを押すと、十分後に、木下から短い返信が来た。


『承知いたしました。藤村さんのご活躍を、心より応援しています。またご一緒できる機会があれば』



 十日後、吉永食品本社で、最初の打ち合わせ。

 大塚部長との、新体制での顔合わせだった。

 藤村は新しい名刺を一枚、大塚に渡した。


『博通堂 第一クリエイティブ局 アカウント・プロデューサー 藤村紗英』


 大塚は名刺を両手で受け取って、しばらく肩書のところを見ていた。


「藤村さん」


「はい」


「残り三年、よろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 大塚は新しい名刺を胸の高さで、もう一度持ち直した。それから、深く礼をした。

 藤村は姿勢を整えて、応えた。



 帰り道、藤村は地下鉄の駅まで、ゆっくりと歩いた。

 ビルとビルのあいだから、梅雨の合間の青い空が細く流れている。改札のIC音がどこか遠くで鳴っていた。


 二年前、最初の立ち上げ会議で、大塚が投げかけた問い。

『五年後に、どんな食卓に乗っていてほしいか、藤村さんはどう思いますか』

 あの問いに、ようやく自分の名刺を持って答えられる立場になった。


 歩きながら、頭の片隅で、誰かの声が不意によぎる。

 五年前、外資へ転職した、同期の大野が、最後に藤村に言った言葉。

『あなたも、逃げて』

 大野は博通堂を出ていった。藤村は残った。出ていくことと、残ることに、どちらの正しさがあるのかは、藤村にもまだ分からない。

 ただ、辞めるカードを引き出しの奥に置いて、明日、また出社する。それは、決めた。


 地下鉄の改札に向かう人波の中で、藤村は鞄の取っ手を左手で握り直した。

 『誰でもできる仕事』と言われて去っていった人たちは、みんな、戻らなかったのだろうか。

 ——私は、辞めなかった。辞めるカードを、握りしめたまま。

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