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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『補佐役として優秀だね』

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第30話「これは、私の企画です」

 吉永食品本社の役員会議室は、十四階の南角にあった。


 窓の向こうに、東京タワーが見える。藤村は出席者の名札が並ぶ長机の博通堂側の三番目の席に着いた。一番奥が滝沢、その隣に藤村、その隣に小宮。普段の定例MTGで同席する宣伝課の若手二人は、今日は最終決定の場なので外れている。

 吉永食品側は、社長の吉永正樹、専務の岸本、そして大塚部長。岸本専務は藤村の入室時、ちらりと一度こちらを見ただけだった。


 午後二時、定刻。

 社長が「では、始めてください」と短く促した。



 滝沢のプレゼンが始まった。


「本日、博通堂よりご提案させていただくのは、『水曜のサンドイッチ』ブランドの五年計画でございます。市場の構造変化と、御社の長期戦略との接続を、三つのフェーズに分けて——」


 滝沢の声は、よく通った。スライドのアニメーションが滑らかに切り替わる。冒頭の市場俯瞰、共働き世帯の食事行動の三セグメント化、競合各社の差別化軸。十二分間、滝沢は淀みなく話し続けた。

 話し終えたあと、社長が小さく頷いた。

 専務の岸本は表情を変えない。


「以上が概観です。続きまして、戦術および数字面の補足を、弊社のプランナーから」


 滝沢は藤村のほうに目で促した。

 藤村は立たない。座ったまま、補足を始める。「いつも通り」の役回り。タブレットで二つの数字を提示して、滝沢の概観を裏付けた。三分。

 大塚部長が、最初の質問を投げてくる。


「藤村さん、この市場シェアの試算、競合のG社が今期出してきた予算規模との関係は、どう見られていますか」


「G社は今期、九パーセントの予算増を発表しています。ただし、業界紙の続報では、増加分の多くが既存枠での単価上昇分とのことで、実質的な新規攻勢は限定的と見ています。私たちの試算は、その範囲内で吸収可能です」


「なるほど」


 大塚はそれから、滝沢のほうへ視線を移した。


「滝沢さん、御社の概観のなかで、コンビニ三社の売り場比率の話がありましたね。そこに、A社の内製化の影響は織り込まれていますか」


「ええ、先ほどの三セグメントの最後で、コンビニチャネルの再編は、概観として……」


「具体的な数字でいうと、何パーセントの影響を見込まれていますか」


 滝沢の言葉が、止まった。

 タブレットを操作する手が、二度、画面をタップして、止まった。


「藤村、その辺は、補足してくれ」


「はい」


 藤村は答えた。


「A社経由の売り場比率は、来期、外部供給縮小のあおりで、現在の十六パーセントから八パーセント前後まで半減すると見込んでいます。御社のサンドイッチカテゴリにとっては、最大八ポイントのチャネル縮小が想定されます。それを補うために、スーパーチャネルでの売場確保を、本提案では三十パーセント増で組んでいます。スライド四十六ページに、その算出根拠が入っています」


 専務の岸本が初めて口を開いた。


「藤村さん、その数字、確かですか」


「四月二十日の業界紙のデータと、御社の流通管理部から共有いただいた最新資料の、二つを根拠にしています」


「ふむ」


 岸本はメモを取った。

 大塚は藤村の顔を見て、それから、滝沢のほうをもう一度見た。



 質問が、続いた。

 原料調達の単価、店頭プロモーションのROI予測、SNS上の競合の動き、過去三年の類似ブランドの失敗事例。

 大塚が投げる質問に、滝沢は半分しか答えられなかった。残り半分は、藤村が引き取った。藤村はできるだけ滝沢の顔を立てる形で、補足の枕詞を置きながら答えていく。

 途中、藤村が答え始めようとした瞬間、滝沢が「私から」と短く割って入った場面が、二度あった。割って入っても、滝沢は数字までは持っていなかった。沈黙が一拍だけ落ち、最後は藤村が引き継ぐ流れになる。

 しかし、二十分が過ぎた頃、岸本専務が静かに腕時計を見る。岸本のメモを取るペンが、いつの間にか、止まっていた。

 会議室の空気が、少しだけ重くなる。

 滝沢のプレゼンは、明らかに、想定していたシナリオから外れていた。


 大塚がペンを置く。

 そして、藤村のほうを、まっすぐ見た。


「藤村さん」


「はい」


「あなたが描いている、五年後を、ここで話してくれませんか」


 会議室が、静まった。

 滝沢が息だけで何か言いかけて、口を閉じる。

 藤村は椅子の背を一度だけ、両手で押した。

 立ち上がる。


 タブレットを、テーブルの上で伏せた。スライドは、もう必要なかった。

 藤村は社長と専務と大塚の顔を順に見た。


「これは、私が二年前から作ってきた企画です」


 藤村の声が、自分の耳に、はっきり届いた。

 昨夜、鏡の前で声に出した時よりも、震えていなかった。



「私たちが提案するのは、商品ではなく、家族の朝の十分間です」


 藤村は岸本専務の止まったままの手元を、視界の端で確かめた。

 昨夜書いたシナリオの順番ではない。会議室で岸本の表情を見て、組み直した。


「水曜日の朝という時間は、月曜のような気合も、金曜のような解放感もありません。ただ、淡々と続いていく週の真ん中です。共働きのご家庭で、子どもの寝坊と夫の出勤が重なる朝に、冷蔵庫を開けて、何も考えずに掴める一品があるかどうか。それが、その日一日の家族の機嫌を、ほんの少しだけ、左右します」


 岸本がメモに目を落とすのが、視界の端に映った。藤村は続ける。


「御社の旗艦商品『金曜のサンドイッチ』は、週末を待つ祝祭のための食事です。私たちが立ち上げる『水曜のサンドイッチ』は、その対極にあります。日常を継続するための、目に見えない助けです。同じカテゴリの商品が、家族の中で持つ意味が、違うんです」


 ここで、藤村は二年間の取材から集めた家族の声を、二つだけ引用した。

 横浜の母親、三十六歳の声。「水曜の朝が一番疲れているから、何も考えずに済む一品があるだけで、家族に優しくなれる」。

 もう一人は、岸本専務の世代を意識して選んだ。埼玉の五十二歳の単身者の声。「妻が亡くなってから、平日の朝は冷蔵庫を開けるのが一番つらい時間です。水曜の朝に、誰かが選んでくれた一品があるなら、その一品で、生活が立て直る気がします」。

 専務の指先が、初めて、メモの上で動いた。


「五年後、市場シェアは十二パーセントを目標にしています。ただ、本当にお伝えしたいのはシェアの数字ではなく、その背後にあるリピート率四十五パーセント前後と、ブランドへの愛着の深さです。家族の朝の十分間に寄り添えたかどうかが、結果として、これらの数字に現れます」


 藤村は岸本専務の手元に視線を落とした。

 専務は藤村の言葉を一語ずつメモに書き取っている。


「コンセプトを商品スペックに翻訳するのではありません。家族の朝のリアリティから、商品を逆算する。それが、二年間、私が組み立ててきた五年計画です」


 藤村が話し終えたとき、気がつくと、八分が過ぎていた。



 会議室は、まだ静まったまま。

 社長の吉永は、少し目を細めて、藤村の顔から目を離さない。

 専務の岸本のメモは、一点で止まっている。

 大塚がゆっくり頷いた。


「社長」


 大塚が社長のほうを向いた。


「私からは、博通堂さんの案で進めていただきたい。ただし、条件があります」


 吉永社長が「条件?」と聞き返した。


 大塚は社長のほうへ向き直った。


「リーダーは、藤村さんでお願いします。二年間、このブランドを実質的に描いてきたのは、藤村さんです。私たちが信頼しているのも、藤村さんです。藤村さんがリーダーなら、契約を更新します。それが、こちらからの条件です」


 滝沢の顔から、血の気が引いた。

 藤村は自分の手のひらに、汗が滲んでいるのを初めて感じる。


 社長はしばらく藤村のほうから目を逸らさなかった。

 それから、滝沢ではなく、藤村のほうへ向き直る。


「分かりました。検討します。来週、回答します」


 社長は立ち上がった。

 会議室を出ていく社長の後ろを、岸本専務も続いた。岸本は退出の直前に、もう一度藤村のほうを短く振り返ってから、廊下に出ていった。

 大塚は最後まで残って、博通堂の三人に深く礼をしてから、退出した。



 博通堂のチームは、ロビーに下りるエレベーターのなかで、何も話さなかった。

 滝沢の表情は固まっていた。小宮が藤村の隣で、小さく息を吐いた。

 一階に着いて、自動ドアを抜けた瞬間、滝沢が言った。


「お前……あの五年後のシナリオ、いつから書いてたんだ」


 藤村は答えなかった。

 タクシー乗り場の方へ、滝沢は早足で歩いていった。小宮が藤村の隣で、肩を一度だけ落とした。


「藤村さん」


「うん」


「カッコよかったです」


 小宮はそれだけ言った。

 藤村は自分の鞄の内ポケットに手を入れた。指の腹に、退職届の封筒の角が鋭く触れた。汗ばんだ手のひらに、紙の縁の硬さがまだ熱を持っている。

 封筒は、握らなかった。手だけを、ゆっくり鞄から抜いた。


 遠くで、滝沢がタクシーに乗り込んだ。ドアが閉まる前に、滝沢は一度だけ、藤村のほうへ目を上げた。何かを言いかけて、結局、口を閉じたまま、車内に消えた。

 その夜、藤村の携帯に、滝沢からの長文のチャットが届くのは、日付が変わる頃だった。読まずに、藤村は布団に入った。明日の朝、読む。


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