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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『補佐役として優秀だね』

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第29話「プレゼン前夜」

 プレゼン三日前、滝沢が出張から戻ってきた。


 藤村のデスクの前で、ジャケットの埃を手で払いながら、滝沢は陽気に声をかけた。


「藤村、お疲れ。資料、見たぞ。よく仕上がってるな」


「ありがとうございます」


「ちょっと、俺の話す部分だけ、修正させてもらった」


 滝沢が共有フォルダを指で叩いた。

 藤村が組んだスライド七十五枚のうち、冒頭から十二枚目まで、滝沢のバージョンに上書きされていた。


 藤村は自分のモニターで開き直した。

 六枚目のスライド、原料調達の概要図のところで、藤村の手が止まる。北海道の小麦の単価が、トン単価で旧単価のままになっていた。一ヶ月前に変わった単価ではなく、半年前の数字。

 九枚目のスライド、市場規模の数字も、四半期前のリリース値。最新の業界紙の更新が反映されていない。


「滝沢さん」


 藤村はできるだけ平らな声で呼びかけた。


「六枚目の単価と、九枚目の市場規模、最新の数字に戻してもいいですか」


「ああ、そこね。俺が話すときに、自分の頭に入ってる数字のほうが楽なんだよ。ちょっと古いかもしれないけど、大筋ズレてないだろ」


「先方も最新の数字でこちらに来ます。古い数字でプレゼンすると、専務の方が混乱されると思います」


「うーん、まあ、そうかもしれないけど。じゃあ、お前のほうで、後ろから補足してくれよ」


 滝沢は軽く笑って、自分のデスクに戻っていった。

 藤村は深夜まで残って、六枚目と九枚目の数字を最新値に静かに戻した。共有フォルダの自動更新通知が立たないタイミングを選んで、ローカルから差し替えた。



 プレゼン前々日。

 夕方、藤村のメールに、大塚から個人宛のメッセージが届いた。


 差出人:大塚 隆夫(吉永食品 開発部)

 件名:明日の社内打合せ用の件、ご相談


『お疲れ様です。明日、当社の専務との事前打合せがあります。専務に、博通堂さんの案で進める根拠を、私のほうから説明することになりました。


つきましては、藤村さんが二年間、私たちと一緒に組み上げてきた『水曜のサンドイッチ』の五年後のシナリオを、藤村さんご自身の言葉で、テキストでまとめて送っていただけないでしょうか。スライドの要約ではなく、藤村さんがいま、頭の中で見ている五年後のブランド像、その全体です。


私はそれを、明日の打合せで読み上げます。専務を説得するには、二年分の積み重ねが伝わる言葉が必要だと思っています』


 藤村はメールを三度、読み返した。

 会議室の予約システムに、小さな会議室を二時間押さえる。会議室Eの隅に座って、ノートパソコンを開いた。

 書きはじめる前に、目を閉じた。


 二年前、最初の立ち上げ会議の風景。

 大塚が藤村に向かって言った最初の言葉。「うちの新ブランド、五年後にどんな食卓に乗っていてほしいか、藤村さんはどう思いますか」。

 藤村はその時に話した内容を、いまだに覚えていた。

 共働き世帯の、水曜日の朝。

 子どもの寝坊と、夫の出勤と、自分のメイクと、それでも一人ひとりが、十分以内に家を出る朝。冷蔵庫を開けて、何も考えずに掴める一品。

 それが、サンドイッチであってほしい。


 藤村は目を開いて、書き始めた。

 タイトル「水曜のサンドイッチ・五年後のシナリオ」。


 最初の一文は、二年間考え続けてきた言葉から取った。商品スペックを語る前に、家族の朝に寄り添うコンセプト。続けて、競合の主力ブランドとの「位置」の違い、五年後に達したい指標群、それらが二年間の取材で集めた声からどう導かれるか——藤村はそれぞれを過不足なく書き足していった。


 書き終えたのは、二時間半後だった。文字数は二千八百字。送信ボタンを押す前に、もう一度、最初から読み返した。一文も削らなかった。

 ファイルの冒頭一文だけは、明日のプレゼンでも口に出すつもりで、頭の中で何度も繰り返した。

 明日、社内資料として読み上げられる文章と、明日の役員会議室で藤村が話すかもしれない言葉とは、別ものになる。



 大塚から、十分後に返信が来た。


『拝読しました。これで、専務を説得します。ありがとうございました』


 藤村はその短い一行を、長く見ていた。



 プレゼン前夜。

 夜の九時、滝沢が藤村のデスクに来た。


「藤村、明日のプレゼン、最後のすり合わせだけしておこう」


「はい」


「俺が冒頭から十二分話す。戦略の概観と、市場の俯瞰、それから三つのセグメント。そのあとで、お前が後ろから、戦術と数字の補足。最後の質疑応答も、細かい話は、お前が拾ってくれ」


「分かりました」


「お前のやり方でいい。十五年やってきた、いつも通りで」


 滝沢は軽く藤村の肩を叩いて、自分のデスクに戻っていった。

 藤村は誰もいなくなったオフィスで、もう一度スライドの七十五枚すべてに目を通す。冒頭の十二枚は、滝沢の言葉。それ以降は、藤村の骨格。

 でも、明日、藤村が話す機会はない。あるとしても、滝沢の補足、五分間ほど。


 鞄の内ポケットを、もう一度確認した。

 昨日の夜に書いた、退職届が入っている。

 藤村はその封筒を取り出して、テーブルの上に置いた。提出するのは、明後日の朝。プレゼンの結果がどうなろうと、提出する。Y&Mからの最終回答期限は、四日後。


 封筒を、また鞄に戻した。

 オフィスの蛍光灯を半分だけ落として、藤村は帰宅した。



 マンションに戻って、シャワーを浴びる。タイルの目地に、梅雨の湿気が薄く溜まっている。

 寝室のクローゼットに、明日着るスーツがかかっている。紺ではなく、今日は黒。化粧は、いつもより、わずかに濃くするつもりだった。


 鏡の前に立つ。

 両手を、洗面台の縁にゆっくり置いた。陶器の冷たさが、指の腹に伝わる。

 藤村はファイルの冒頭一文を、鏡の中の自分に向けて声に出してみた。


 声は、自分の耳には、少しだけ震えて届いた。

 もう一度、最初から、声に出してみる。今度は、震えの幅が、半分になっていた。


 書き終えたシナリオを、頭の中で最後まで通した。明日、もし、自分が話す機会が来たら、八分前後。

 布団に入ったのは、午前一時を過ぎていた。胸の上に、退職届の入った鞄を、引き寄せたまま。


 眠りに落ちる直前、藤村の頭に浮かんだのは、二年前の立ち上げ会議で、大塚が最初に投げかけた問いだった。


『五年後に、どんな食卓に乗っていてほしいか、藤村さんはどう思いますか』


 その問いに、明日、自分が、自分の名前で答える。

 誰の補佐としてではなく。

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