第28話「お前がいないと困る」
Y&Mの面接は、虎ノ門のオフィスタワー三十八階で行われた。
藤村は紺のジャケットを着ていた。普段の博通堂で着ているのと同じものだ。受付で名前を告げると、若い女性が会議室まで案内してくれた。窓の外に、皇居の森が初夏の濃い緑で広がっている。
面接官は二人。一人は四十代後半の日本人男性、もう一人はオーストラリア人の女性で、ビジネスマネジャーだという肩書だった。
「藤村さんが某食品メーカーで五年計画をリードされていると、業界で伺っています。相当ご自分で組まれてますね」
日本人男性が藤村のレジュメを指で押さえながら言った。藤村は答えた。
「企画立案は二年前の立ち上げから関わっています。今期から半年ほど、別のリーダーが入っていますが、実務はずっと私が担当しています」
「そうですよね、見ていて分かります」
オーストラリア人女性が、英語で割って入った。
「Saeさん、もし弊社にジョインしてくださる場合、最初の半年で、外資系食品メーカー二社のアカウントをお任せしたいと思っています。年収は前回のお話より引き上げさせていただき、今より三百二十万円アップ、肩書はアカウントディレクター。決断は、来月の頭までにいただけますと幸いです」
「……来月の頭、ですね」
日本人男性が、横から日本語で「あと一ヶ月とすこし」と補足した。
窓の外、皇居の森を、白い鳥が一羽、横切っていく。
*
博通堂に戻ると、滝沢のデスクは空だった。
今週は鹿児島出張、戻りは金曜の夜。それから来週は別案件で福岡、再来週は札幌の予定が組まれている。本社にいる時間のほうが、最近は短い。プレゼンまで、あと三週間。
藤村は自分のデスクで資料を開いた。最終プレゼン用の七十五枚のスライド。冒頭の戦略パートは滝沢が話す前提で組んであるが、中盤以降の戦術と数字は、すべて藤村が組み立てている。
後輩の小宮が隣のデスクから声をかけてきた。
「藤村さん、今日も遅くなりますか」
「うん、二十二時くらいまでかな」
「俺、夕飯買いに出ますけど、何か買ってきますか」
「じゃあ、駅前の中華のお弁当、お願いしてもいい?」
「はい、いつもの八宝菜ですね」
小宮は二十八歳。三年前に新卒で入って、藤村のチームに配属された。最初の頃、クライアントの前で声が緊張で震えていた小宮は、今、自分から夕食の中華弁当を提案するくらいには、独り立ちしかけている。
小宮が出ていく後ろ姿を、藤村は短く目で追った。三年で、これだけ変わる。
*
吉永食品からのメールが、夕方に届いた。
差出人:吉永食品 開発部 大塚
件名:再来週水曜MTGのご連絡
藤村はメール本文を読んで、息を一拍止めた。
『お世話になっております。再来週水曜十四時からの定例MTG、滝沢様、藤村様、ご出席いただけますと幸いです。藤村様には、必ずご同席くださいますよう、お願い申し上げます』
最後の一行に、明確な意図がある。
二年間、定例MTGの招集メールに藤村が名指しされたのは、初めてだ。これまでは「博通堂のチームの皆様」か、あるいは「滝沢様」だけ。それが、今回は別行に分けて、強調するように名前が呼ばれている。
藤村は滝沢に「水曜のMTG、私も出席するよう、先方からご指名がありました」と短くチャットを送った。
返信は、二時間後に届く。
『了解。藤村が出てくれたら、俺も助かる。最近、大塚さん、細かい話多いから』
その一文を、藤村は二度、読み返した。
*
二週間が、瞬く間に過ぎた。
滝沢は鹿児島から戻り、福岡へ飛び、札幌の予定はプレゼン後に回された。プレゼンの一週間前、定例MTGの水曜日。
吉永食品本社十二階の会議室。
大塚部長と、宣伝課の若手二人。博通堂からは、滝沢と藤村と小宮。
滝沢が戦略の概観から話し始めた。途中、原料調達のセクションに入ったとき、大塚が手を挙げた。
「滝沢さん、原料の調達ルートの再編、私たちのほうで先月内部で動いた件、反映されてますか。北海道の小麦の契約先が変わって、価格交渉のラインも変わった話です」
「ええと……それは、先月の話ですか。確認して、後ほど折り返します」
滝沢の声が、わずかに早くなった。
大塚の視線は、滝沢を超えて、藤村の顔に止まっていた。
「藤村さん、その辺は」
「いえ」
藤村は口を開いた。
「先月、北海道の契約先が二社から一社に絞られて、価格交渉の起点が、トン単価で千二百円下がる前提と伺っています。四月二十日付で、御社の調達部から数字を共有いただきました。今期の予算組みは、その数字を反映済みです。スライド四十二ページに、新しい単価で更新した試算表があります」
藤村はタブレットを操作して、スライドを四十二ページまで送った。
大塚は画面を覗き込んで、ゆっくり頷いた。
「ああ、これですね、はい。この単価で計算してくれているなら、こちらの社内資料とも整合します。助かります」
「いえ」
滝沢は笑みを保ったまま、藤村のほうに小声で「助かった」と言った。
大塚はスライドの数字を一行ずつ目で追っていた。
*
会議が終わって、滝沢と小宮が先に部屋を出た。
藤村が資料を片付けていると、大塚が最後にもう一度、扉のところで足を止めた。
「藤村さん、ちょっと、廊下で」
会議室の隣の、無人の応接スペースに、大塚は藤村を案内した。コーヒーマシンが低く唸っている。
「正直に言いますね。うちの専務、競合のG社案に少し傾いています。G社のほうが、グローバルブランドの提案で華やかなので。先週の役員会で、私と専務で意見が割れました」
「……そうですか」
「来週のプレゼン、社長と専務と、私たちが立ち会います。私はG社案じゃなく、博通堂さんの案で行きたい。ただ、専務を説得する材料が、必要です」
大塚はコーヒーマシンの脇に置かれた紙コップを取って、ボタンを押した。マシンが豆を挽く音が低く響く。
「藤村さんが、二年間、一緒に組み立ててくれた五年後のロードマップ。あの全体像を、プレゼンの席で、藤村さんの言葉で、ちゃんと話していただけませんか。専務に届くのは、それしかないと思っています」
藤村はしばらく応接スペースの壁の絵画を見ていた。
絵は、海辺の朝の風景だった。誰の作品なのかは、表示がない。
「……分かりました」
「無理を言って、すみません」
「いえ。ありがとうございます」
藤村は頭を下げて、応接スペースを出る。
エレベーターで一階に下りるあいだ、他に誰も乗ってこない。鏡張りの壁に、自分の顔が映る。表情は、いつもと変わらなかった。
*
その夜、藤村は自宅のテーブルで、退職届を書いた。
白いA4の紙に、印字ではなく、手書きで。インクのボールペンが、二回かすれる。署名のところで、手が止まった。
ペンを置いて、退職届を、鞄の内ポケットに入れる。
提出は、来週のプレゼンが終わった、翌日。
オフィスを出る前に、会社の冷蔵庫を開けた。小宮が買い、入れておいてくれていた八宝菜の弁当が、手つかずで残っている。夕方の打合せが長引いて、食べる時間がなかった。袋を提げて、家まで持ち帰る。
翌朝、出社すると、小宮が藤村のデスクの前で待っていた。
いつもより、顔が硬い。
「藤村さん」
「うん?」
「あの、聞いてもいいですか」
「いいよ」
「藤村さん、本当にこの会社にいていいんですか」
藤村は答えなかった。
答える代わりに、自分のデスクに座って、パソコンの電源を入れる。小宮も、それ以上は聞かない。
オフィスの空気は、低く回っていた。




