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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『補佐役として優秀だね』

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第27話「補佐役として優秀だね」

 藤村紗英はメールの返信を打つ前に、過去三年分のキャンペーン履歴フォルダを目で追った。


 吉永食品からの問い合わせは「平成三十年に出した『金曜のサンドイッチ』のテレビ広告で、原料調達のクレジット表記がどうなっていたか」。八年前の話だ。普通なら「確認してご連絡します」と返すところを、藤村は十秒足らずで、当時の担当ディレクター名と、提出した最終版の二十秒スポットの構成と、結局その表記がカットになった経緯まで、頭の中から取り出した。

 返信メールに数行で書く。送信。


 午前九時十二分。

 博通堂第一クリエイティブ局のオフィスは、まだ半分も埋まっていない。藤村のデスクの前で、観葉植物のパキラが、空調の風に細い葉を揺らした。



 十時から、吉永食品「水曜のサンドイッチ」の定例会議。

 会議室Cに入ると、滝沢は先に来ていた。スーツの上着を椅子の背にかけて、タブレットでメモを開いている。


「藤村、おはよう。今日のアジェンダ、ざっと頭に入れてきた」


「おはようございます」


 滝沢は去年の十二月にこの案件のリーダーに着任した。前任のリーダーが体調不良で外れて、社内調整で滝沢が入った。半年と少しが経つ。藤村は二年前のプロジェクト立ち上げから、ずっと実務の中心にいる。

 吉永食品からは、開発部長の大塚と、宣伝課の若手二人がやってきた。


「藤村さん、お久しぶりです」


 大塚は会議室に入ってまず、滝沢ではなく藤村に声をかけた。それから滝沢のほうに向き直って、軽く頭を下げる。

 滝沢は気にしない様子で、プレゼン資料の冒頭を映しはじめた。


「では、今期のロードマップの大枠から。共働き世帯の朝食市場は、コロナ後に再編が進んでいまして、いわゆる『時短ニーズ』のレイヤーが分岐しているんですね。我々としては、ここを三つのセグメントに切り分けて——」


 滝沢の語りは、滑らかだった。三十枚ほどスライドを進める。

 大塚が手を挙げたのは、「店頭での売り場比率」のページが出たときだった。


「滝沢さん、ここの数字なんですが、コンビニの売り場比率の前提って、最新のものですか? 業界紙の四月号で、コンビニ大手三社の方針転換が出ていたと思うんですが」


「ええ、それは反映済みで……」


 滝沢の語尾が、少し止まった。

 タブレットをスクロールする音が、二秒ほど続く。それから、ちらりと藤村のほうに視線が来た。


「藤村、その辺りは」


「はい」


 藤村は資料を伏せたまま、答えた。


「四月号の方針転換は、お弁当・惣菜の自社製造比率を上げる方向ですね。サンドイッチカテゴリは、コンビニ三社のうち二社が外部供給を維持する方針です。ただ、A社だけは内製比率を上げると公表していますので、A社の売り場比率は来期、八パーセント前後で見込んでいます。資料の十八ページの数字は、その前提で更新済みです」


「ああ、そうそう、そういうことです」


 滝沢は満足げに、次のスライドへ進んだ。

 大塚は藤村のほうへ小さく目線を送った。



 会議が終わって、滝沢が先に部屋を出た。

 藤村は資料を片付けながら残っていた。すると大塚が扉のところでもう一度こちらを向いた。


「藤村さん、ちょっといいですか」


「はい」


「さっきのA社の話、内製比率を上げるとなると、業界の慣習的にはどこまでいけるものでしょうか。社内でちょっと話題になっていまして」


 大塚は会議室の外、廊下の壁際まで藤村を呼んだ。誰にも聞かれない位置取りだった。


「業界の慣習で言うと、サンドイッチカテゴリは自社製造比率が三十パーセントを超えると、卸業者との関係が崩れるラインがあります。A社は今回、その慣習を破る覚悟で動いている可能性がありますね」


「なるほど」


 大塚は目を細めて聞いていた。


「やっぱり、藤村さんに聞くのが一番早いな」


 大塚は笑った。

 藤村も、控えめに会釈を返した。

 廊下の自販機で、誰かが缶コーヒーを買う音が聞こえた。


「次のMTG、来週の水曜でしたね。それまでに、こっちの専務、説得しないといけないんです。A社の話、もう少し詳しく整理してもらえると助かります」


「承知しました。社内で滝沢のほうにも共有して、正式な資料としてお出しします」


 大塚は少し沈黙してから、軽く頷いた。


「ありがとう」


 大塚はそれだけ言って、エレベーターのほうへ歩いていった。

 藤村は自分のデスクに戻る前に、給湯室で冷たい水を一杯飲んだ。



 午後三時、評価面談。


 第一クリエイティブ局の局長、高木が、革張りの椅子に深く座って、藤村の評価シートを広げた。

 高木は五十代の男性で、口元にいつも穏やかな笑みを浮かべている。


「藤村さん、今期もお疲れさまでした」


「ありがとうございます」


「クライアントからの評価は、本当に高いですね。吉永食品さんからは、毎年、藤村さんあっての博通堂、と言っていただいています」


「恐れ入ります」


「で、来期のことなんですけれども」


 高木は評価シートの「今後の役職展開」の欄に、ペンの先を置いた。

 その欄は、藤村の場合、三年連続で同じ文言が書かれていた。


「結論から言いますと、藤村は補佐役として優秀だね、と。今期も、滝沢から、君がいるからチームが回っているという報告が、何度も上がってきている。来期も、この体制を維持してほしいというのが、上の判断です」


「……はい」


「プロデューサー登用の件は、来期以降、引き続き検討させてください。最近、吉永さん以外の担当でも、藤村さんを名指しでお願いされる声が増えているのは、私も把握しています。ただ、社内の体制との兼ね合いがあって」


「分かりました」


 高木はペンを置いて、両手を組んだ。


「あと、大変、言いにくいんですけれども。同期の田中、今期プロデューサーに上がるんです。これで、あなたの同期男性は、四人目ですね。藤村さんとしては、思うところがあるかもしれませんが」


「いえ」


 藤村は机の下で、左手の親指を人差し指の付け根に押し当てた。十五年のあいだに身につけた、自分にだけ分かる小さな鎮め方だった。


「あと、これも言いにくいんですが。藤村さん、ご結婚もされていない、お子さんもいない。だからこそ、もっとリーダー職に出てもらえたら、と私は思うんですが、社内のいろいろな見方もあって」


 高木は笑みを浮かべながら言った。

 藤村はそのまま指の付け根を、もう一度押した。


「分かっています。来期も、よろしくお願いします」


「うん、ありがとう。期待しています」


 高木はシートを閉じた。

 窓の外、初夏の午後の光が、ビルの東向きの面に反射していた。



 帰宅は、夜の九時を過ぎていた。

 藤村のマンションは、駅から徒歩八分。築十年の1LDK。玄関で靴を脱ぐと、左の踵が少し痛む。今日は会議室を四つ移動して、外回りも一件あった。歩数計は、一万五千を超えていた。


 着替えてから、ノートパソコンを開いた。

 仕事用のメールを閉じて、プライベートのGmailを開く。一通、未開封のメールがあった。


 差出人:木下/ハットフィールド・パートナーズ

 件名:先日のお話の続き、ご都合いかがでしょうか


 ヘッドハンターの木下とは、一ヶ月半ほど前に一度だけ電話で話した。「外資系広告代理店のY&Mが、アカウントディレクター職で経験者を探しています。藤村さんの名前が、何度か上がってきました」。年収は今より三百万円台、ポジションは正式な「ディレクター」。

 あの電話のあと、藤村は返事を保留にしていた。

 高木の今日の言葉が、頭の中で、もう一度再生される。


 五年前、同期の大野美和が外資へ転職するとき、藤村に残した言葉も、続いて蘇った。

 あなたも、逃げて。

 大野は、あれだけそう言って、博通堂を出ていった。


『藤村は補佐役として優秀だね』


 藤村はメール画面の返信ボタンに、人差し指を置いた。


「お話、聞かせてください」


 その一文だけ打って、送信ボタンを押した。

 時計の秒針が、夜の十時に向けて、ゆっくり進んでいた。

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