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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『門を開けるだけでいいから』

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第26話「ビルの朝」

 六月の終わり、山本は家を出る。


 朝五時。街灯がまだ一つだけ灯っていて、バスの始発より少し早い時刻。駅まで歩いて、電車に三十分揺られると、都心のオフィス街に着く。

 学校に通っていた頃は、自転車で十五分。今は片道五十分だ。それでも、七時には清掃に入っていたかった。


 ビルは、駅から歩いて八分の場所。十五階建て、中規模のオフィスビル。エントランスのガラスは、早朝の光が斜めに入ると、床の白タイルまで届いて反射する。

 通用口から入り、地下の従業員控室で制服に着替えた。ネイビーのポロシャツと、カーキのパンツ。胸には、小さな布の名札で「山本」とだけ、刺繍してある。



 控室には、先に石川がいた。六十二歳、この仕事を七年続けている先輩だ。


「山本さん、おはよう」


「おはようございます」


「今日は、二階の窓拭きから入るかな」


「了解です」


 石川は物腰のやわらかい男で、最初の一週間、道具の持ち方から窓ガラスの拭き方まで、何度でも同じ説明をしてくれた。

 少し遅れて、藤田が入ってくる。四十五歳、パート。学費で働いているという話だった。


「山本さん、おはようです」


「おはようございます」


 三人で、その日の分担を確認する。

 エントランスの清掃と一階トイレが藤田さん。二階から五階までの共用部が石川さん。六階から十階を山本が担当する。

 エレベーターで上がって、六階から始めた。



 清掃の仕事は、静かだ。

 誰もいないフロアを、順に回っていく。床を掃き、エレベーターホールの操作盤を拭き、非常階段の手すりを磨く。給湯室の流しの水垢を落とすと、指先にぬるい洗剤の匂いが残った。

 最初の一週間、山本は手順に戸惑った。学校とは道具も段取りも違う。それでも一ヶ月が過ぎる頃、身体の方が先に覚え始める。

 磨く。拭く。整える。根本は、十八年やってきた仕事と変わらない。花壇の枯れ葉を取ることと、窓の水垢を落とすことは、同じ種類の丁寧さを必要としている。遊具のボルトを締め直すことと、エレベーターの操作盤を拭くことも、同じ種類の目配りを必要とする。


 ただ、子どもはいない。

 「おじさん、おはよう」と帽子のツバを弾きながら走ってくる声は、ここには届かない。



 七階は、IT系の会社が入っていた。

 ガラスのドアの向こうに、白い壁、黒いデスク、大きなモニターが並ぶオフィス。アルファベットの短いロゴが壁にかかっている。朝七時前、まだ誰もいない。

 山本はフロアの廊下とエレベーターホール、給湯室を回った。ゴミ箱には、エナジードリンクの缶が三本。流しに、昨夜そのままの紙コップが二つ。拭きながら、ここにいる人たちの夜の時間が、少しだけ透けて見えた。



 七時過ぎ、エレベーターのアナウンスが鳴った。


 降りてきたのは、若い男。三十代半ばくらいだろうか。襟のついた薄手のシャツにリュック。七階で、朝一番に出社してくるのは、たいていこの人だった。

 山本は、掃除道具を脇に寄せて、軽く頭を下げる。


「おはようございます」


「おはようございます」


 男も、頭を下げて返した。

 ICカードをかざして、自社のガラスドアの奥へ消える。

 名前も、仕事も、山本は知らない。



 ある朝、エレベーターで一緒になった。

 山本は清掃用のワゴンを押して、六階で降りるつもりで乗り込んだ。男は、そのあとから乗ってきた。

 七階のボタンを男が押し、山本は六階を押す。

 箱が一階から、静かに上がっていく。

 男のほうから、先に小さな声が落ちた。


「……助かってます」


 それだけだった。

 山本は頭を下げて、


「ありがとうございます」


 と返す。

 六階でドアが開いた。降りるとき、もう一度だけ頭を下げる。男も、短く頷いた。


 廊下でワゴンを押しながら、山本はそのひと言の輪郭を、ゆっくり辿った。

 助かってます、という言い方を、学校の子どもたちから聞いたことはない。子どもはありがとうと言う。大人は、助かると言う。職場で、誰かの手を借りている、と自覚している人の言葉だ。

 あの男が、七階の廊下を誰が拭いているか知っている、ということでもあった。

 山本は次の階のボタンを押しながら、ふいに、十八年学校の廊下を掃いてきた自分のことを思った。同じ感覚だったのかもしれない、と。



 仕事は十時に終わる。道具を片付けて、控室で着替えて、十時半には地下鉄に乗っていた。

 帰りの駅の売店で、新聞を一部買う。地方面の小さな枠に、「桐原市、午前七時開門事業について市議会で議論」の見出しが見えた。

 続きは、読まなかった。

 読めば、いろいろ知ってしまう。後任が何人辞めたのか、子どもがケガをしていないか、花壇に誰か水をやっているのか。知れば、動きたくなってしまう。

 山本は新聞を畳んで、膝の上に置く。窓の外を、七月の朝の光が、街路樹の葉を通して斑に流れていった。



 家に着くと、恭子がパートに出かけるところだった。


「おかえりなさい」


「ただいま」


「ごはん、炊いてあるから」


「ああ」


 恭子は、パートのカバンを肩にかけ、玄関で靴を履く。


「学校、どうなってるかなあ」


 ぽつりとした声だった。


「……」


「気にならない?」


「気にはなる。でも、今は、あっちのことだ。俺は、今、ビルを拭いてる」


 恭子は、少しだけ山本の顔を見てから、笑った。


「そうね。行ってきます」


「いってらっしゃい」


 玄関が閉まる。

 山本は、居間でテレビをつけた。朝のニュース番組が流れている。経済、事件、天気。桐原市のことは、触れられない。



 その夜、ふとんに入ってから、目を閉じて、山本は考えた。


 ——学校は、どうなっただろうか。


 太郎は、ジャングルジムで危ない遊び方をしていないだろうか。

 花子は、朝、門の前で立ち止まっていないだろうか。

 パンジーの跡地に、誰かがマリーゴールドを植えただろうか。植えていないだろうな、と自分で答えた。


 知らないほうが、いいのかもしれない。

 知ってしまえば、自分の選択が正しかったかどうか、天秤にかけたくなる。

 正しかったかどうかは、山本自身にも分からない。あのまま再雇用を受けていれば、花壇はきれいだっただろう。太郎や花子は、山本が名前を呼ぶ校庭にいただろう。けれど、七時に二十人の子どもを一人で見守っていた山本が、誰かのケガに気づけない朝があった可能性も、消えない。



 翌朝、山本は五時に家を出る。ビルに着いて、控室で制服に着替え、石川と藤田と挨拶を交わす。六階から清掃を始め、七階に上がる。

 廊下を拭いていると、エレベーターの音がした。七時過ぎ。あの男が降りてくる。


「おはようございます」


「おはようございます」


 男はいつものように頭を下げて、自社のドアに向かう。ICカードをかざし、ドアが開く、その一瞬、振り返って、短く口の端だけで笑った。

 山本も、もう一度頭を下げて、雑巾を絞り直す。ビルのガラスに、七月の朝の光が反射して、自分の影が薄く映った。

 拭き跡の向こうで、光の筋が一本、横に伸びていく。


 朝一番の廊下を、黙って拭いている人間が、世の中にはたくさんいるのだろう。山本は、そう思った。

 誰かに名前を呼ばれることもなく、誰かに名前を覚えられることもないまま、それでも、毎朝の廊下を黙って拭いている人たち。

 自分も、そのひとりになった。


 ——少なくとも、今の俺は、ここで拭いている。


 雑巾を持ち直して、山本は次のフロアへ歩き出す。

 エレベーターの扉が閉まる音が、長い廊下の奥のほうで、低く鳴った。

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