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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『門を開けるだけでいいから』

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第25話「代わりはいない」

 松本は、目覚ましが鳴る前に目が覚める。


 六時、ちょうど。

 朝の光が、カーテンの縁からうっすら入っていた。隣で妻が寝返りを打つ。松本は音を立てないように、布団から這い出す。

 スラックスのベルトを締めながら、昨日のスニーカーの汚れが玄関で目に入った。四月からずっと、朝六時半には学校にいる。正門の鍵を開けるのは七時の佐伯だが、佐伯が来る前に校内にいないと、万一のときに動ける人間がいない。



 四月一日、山本が辞めた翌日。

 市から派遣されてきた後任・佐伯と、松本は応接室で初めて顔を合わせた。四十代の物静かな男で、清掃派遣会社の社員。契約書を開きながら、佐伯はひとつだけ聞いた。


「七時に門を開けて、子どもが来るまで見守って、時間になったら事務室に戻る。それだけ、でよろしいでしょうか」


 松本は、「それだけ」の外側にある仕事を、できるだけ具体的に話した。花壇の水やり、遊具の点検、蛍光灯の交換、アレルギーを持つ児童の把握、けんかの仲裁、ケガの応急処置、不審者対応。山本さんは、それを十八年続けてきた、と。

 佐伯は、書類の上で指を止めて、少しだけ顔を伏せた。


「……それは、私の契約範囲外かもしれません」


 松本は、何も返せなかった。



 四月八日、新学期の初日。

 松本は六時半に学校に入る。佐伯は七時ちょうど、一秒の狂いもなく来た。正門を開け、正門の脇に立つ。七時過ぎから、早朝登校を希望した児童が、ぽつりぽつりとやってきた。事前の登録は十八人。この日、実際に来たのは十二人。

 佐伯は、児童が入ってくるのを見ていた。ただ、見ていただけだった。「おはよう」の声は出ない。子どもたちのほうも、知らない大人の前を、黙って通り過ぎていく。


 職員室の窓から、その光景を松本は見ていた。

 山本さんなら、一人ずつに名前を呼んでいただろう。ここに立っているのが、山本さんではない、ということが、朝の静けさで、校庭の空気に溶けていく。



 四月二十三日。水曜日。


 朝七時十分、校庭の隅で、三年生の男子が転んだ。

 ふざけて走って、段差に躓いた。膝を擦りむいて、その場で泣き出す。

 正門に立っていた佐伯は、声のしたほうに視線だけ向けた。正門から校庭の奥までは、花壇とジャングルジムの陰で、見通しが悪い。佐伯は動かない。近くにいた別の児童を呼び止めて、「職員室まで行って、先生を呼んできてくれるかな」と、穏やかに頼んだ。


 その朝、職員室にいたのは、松本だけだった。

 窓越しに、泣き声を追いかけるように校庭へ駆け下りる。擦り傷は浅かった。応急処置をして、保健室の鍵を開け、絆創膏を貼る。泣き声はそれでも、五分以上続いた。


 その日の夕方、三年生の保護者から電話が入った。


「うちの子が転んだのに、誰もすぐに来てくれなかったと聞いたのですが」


 保護者の声は、低く、抑えた怒りを含んでいた。

 松本は、経緯をていねいに説明する。正門に校務員が立っていたこと。ただし、そこからは校庭の奥が見通せないこと。児童が呼びに来てから、自分が駆けつけたこと。


「正門に、立っていたなら」


 保護者は一瞬、言葉を詰まらせた。


「……何のために、立っていたんですか」


 答えられない質問だった。



 連休が明けて、五月七日。

 朝七時五分、正門の前を、中年の男性がうろついていた。明らかに様子がおかしい。独り言を呟きながら、校門の鉄柵を指でなぞっている。

 佐伯は正門の内側に立ったまま、動かない。事務室に内線を入れた。その日の六時半から出勤していた松本が出る。


「正門の前に、不審な方がいらっしゃいます」


 佐伯の声は、小声だった。


 松本は階段を駆け下りる。正門に着いたとき、男性は背を向けて歩き去っていくところだった。その、数秒前。早朝登校の一年生の子が、男性のすぐ脇を通り過ぎている。

 もし、あと十秒遅れていたら。

 松本は、正門の前から、しばらく動けなかった。

 鉄柵を握ると、朝の金属の冷たさが、指の関節まで染みた。


 職員室に戻ってから、佐伯に尋ねた。


「なぜ、ご自身で声をかけなかったんですか」


「私は、関わりたくないんです。教員の方が来てくださるまで待つ、という契約だと伺っていました」


 嘘ではなかった。契約は、そうなっている。

 佐伯は、市から渡された研修資料の手順どおりに正門の内側に立ち、手順どおりに事務室へ連絡を入れた。その場で男性に声をかけなかったことは、手順書の中では、正しい行動だった。

 佐伯は、間違ったことを、していない。



 五月十四日、佐伯から辞意の申し出があった。


「聞いていた仕事と、違いました。門を開けて立っていれば終わりだと聞いていたのに、現実には、子どもが転んだり、けんかしたり、不審者が来たり、そういうことが普通に起きます。私は、それに対応できる立場では、ありません」


 松本は、引き止めなかった。佐伯の言い分は、筋が通っていた。書類の上では「門を開けるだけ」の仕事。佐伯は、書類を信じてこの学校に来て、書類の通りに働いた。契約の範囲を一度も超えなかった、という意味では、佐伯は模範的な労働者だった。

 ただ、その模範的な書類の外に、学校という場所の現実があった。



 二人目の後任・高井は、五月二十日に市から派遣されてきた。

 五十代の男性で、前職は警備会社。松本は今回、佐伯のときよりも時間をかけて、学校の現実を話した。高井は頷いて、「やってみます」と答えた。


 高井は、佐伯より動こうとした。児童に声をかけようと試み、転んだ子には駆け寄ろうとした。

 ただ、一人ひとりの名前は覚えきれない。アレルギーの情報は、共有の仕組みが追いつかなかった。花壇のことは、そもそも何も知らされていなかった。


 五月二十八日、事件が起きた。

 朝のおやつを持ってきたボランティアのおばあちゃんが、牛乳入りのスコーンを二年生の児童に手渡しかけた。その児童は、乳製品アレルギーを持っている。ギリギリで止めたのは、その日たまたま六時半に出勤していた、川口先生だった。

 川口先生も、四月以降、早朝出勤の回数を少しずつ増やしていた。校務員だけに任せておけない、という判断は、松本が言葉にする前に、川口先生のほうで動き始めていた。


 高井は、その夜、松本の携帯に電話をかけてきた。


「教頭先生、申し訳ありません。私には、この仕事は、務まりません」


 着任から、八日。

 高井はその電話で、六月初めで辞めたいと申し出た。



 松本は、夜の職員室に一人で残っていた。

 五月最終週の金曜日、時計はもう九時を過ぎている。

 川口先生は最後まで心配して残ろうとしたが、「先に帰って」と送り出した。


 机の引き出しから、山本さんの引き継ぎノート七冊を取り出す。

 三月末に預かってから、もう何度も目を通してきたノートだった。それでも、この夜、二冊目——花壇のノートをもう一度、最初から捲る。


『四月第二週、マリーゴールドの苗を購入。年によって入荷が遅れるので、事前に花屋に注文推奨。注文先:駅前の藤本園芸、電話番号……』


 几帳面な字の横に、去年の春に足されたらしい追記がある。


『夏至までに植え付け完了。水やりは朝夕二回、葉にかからないよう根元に』


 ノートを閉じる。

 椅子の背にもたれかかった。天井の蛍光灯が、古い白色で瞬く。職員室の冷房の唸る音だけが、耳に残った。

 窓の外、校庭は暗かった。花壇は、ここからは見えない。けれど、見に行かなくても分かっていた。山本さんが植えたパンジーが、水をもらえないまま、五月の終わりに枯れていく。紫も、黄色も、白も、もう、ほとんど色を残していない。


 松本は、ゆっくりと、呟いた。


「……門を開けるだけでいいから、と言ったんだよな」


 自分の声が、誰もいない職員室の壁に、低く跳ね返った。


 山本さんのノートが、机の上で閉じられている。

 七冊分の、誰かの十八年。その厚みだけが、机の電気スタンドの光を吸い込んでいた。


 ——門を開けるだけでいいから。


 そう言ったのは、自分ではなかった。

 けれど、その言葉をあの校長室で止められなかったのは、自分だ。校長の隣で、膝の上に手を組んで、顔を伏せていた自分。


 佐伯も、高井も、間違ったことはしていない。契約書の通りに、手順書の通りに、正門の内側に立った。市の制度設計も、予算も、研修資料も、それぞれの書類の中では、破綻していない。

 それぞれの正しさが、一つずつ積み重なった結果、校庭で子どもが泣き、花壇のパンジーが枯れる。


 窓の外で、何かが一瞬、風に揺れた気配がする。

 枯れたパンジーの葉の一枚が、夜の風に落ちたのかもしれない。

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