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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『門を開けるだけでいいから』

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第24話「最後の花壇」

 最終日。三月の最後の金曜日は、卒業式の翌週にあたる。


 山本はいつも通り、朝六時半に校務員室の引き戸を膝で持ち上げて開けた。換気扇のスイッチを入れる。ジャンパーを脱いで、作業着のままファンヒーターを点ける。部屋が温まるまでの二分は、十八年間ずっと山本の好きな時間だった。

 今日で、この二分も終わる。



 花壇の前へ。

 秋に植えたパンジーが、三月の最終週でもまだ咲いている。紫と、黄色と、ところどころに白。脇には、ビオラの小さな花も混じって揺れていた。


 ジョウロを持って、根元に水を落とす。いつもよりも、少し長めに。

 冬のあいだ、霜の降りた朝に何度も花殻を摘んだ。枯れた花を一つ残さず抜き取っておかないと、春までもたない。吐く息が白くなる校庭で、素手ではなく、あえて薄い軍手でつまんでいた。指先の感覚を残しておかないと、生きている花を間違ってちぎってしまう。

 その仕事が報われて、いまこの花壇はまだ咲いている。


 卒業式は、先週の金曜日に終わった。六年生六十人あまりが、正門を出ていった。その日も、山本は花壇に水をやった。卒業生の保護者の何人かが、花壇の前で記念写真を撮っている。見送りは、正門の内側から、黙って頭を下げるだけ。十八年、そうしてきた。

 今日は在校生の通知表配布。昼前に全員が帰る。そのあと、春休みが始まる。

 山本の最終日は、今日だ。



 七時半、校舎の蛍光灯が、奥の階から順に点いていく。

 職員室、保健室、各教室。

 山本は校舎の見回りを始めた。廊下の窓ガラスを拭きながら、いつものペースで進んでいく。最後だからといって、特別に丁寧にするつもりはなかった。ただ、体育館の床、プール脇の倉庫、放送室の機材、理科室の薬品棚——十八年のあいだに把握してきた校舎の隅々を、頭の中でもう一度、撫でていく。



 七時五十分、児童の登校。


「おじさん、おはよう」


 太郎だ。今日は走らない。野球帽のツバを人差し指で弾いてから、歩いて近づいてくる。

 山本の前で立ち止まり、少し下を向いた。


「おじさん、本当に、今日で終わり?」


「ああ。終わりだ」


「なんで」


「……おじさんは、もう年だからな」


「まだ全然、おじいちゃんじゃないじゃん」


 太郎は、むきになって言った。

 去年の夏、ジャングルジムから落ちかけて、下で見ていた山本がとっさに支えた子だ。鼻血を出したけれど、大きなケガにはならなかった。その日の帰り、太郎は山本に小さな声で「ありがとう」と言っている。


「また来年、学校来てよ」


「……ありがとうな」


 そう返すのが精一杯で、山本はそれ以上、何も言えなかった。

 太郎はしばらく山本の顔を見てから、「じゃあ、行く」と言って、昇降口に駆け出していく。



 八時前、花子が来た。

 二年生。四月に転校してきた頃は、一人で黙々と歩いていた子だ。今はクラスの子と一緒に来る日もある。

 今日は、一人。手のひらの上に、小さな封筒を、壊れ物のように乗せていた。


 山本の前で立ち止まる。

 封筒を両手で差し出した。


「……やまもとおじさんへ」


 封筒の宛名は、たどたどしいひらがな。


「ありがとう」


 山本は両手で受け取る。


 花子は、何か言おうとして、口を一文字に結んだ。

 声は出てこない。

 目にゆっくり涙が溜まっていき、やがて、「……さようなら」とだけ、絞り出すように言って、走っていった。


 山本は、しばらく、封筒を見ていた。

 この場で開けたら、花子が教室の窓から見ているかもしれない。泣いているところを見せたくない。

 校務員室に戻り、封筒を机の上に伏せて置いた。



 午前の最後の時間で、体育館のマット倉庫の棚を直した。長年使ってきて、少し傾いていたのを、ボルトで補強する。花壇のホースの、接続部のパッキンも、新しいものに替えた。春休みのあいだに、新しい校務員が水をやるかもしれない。少しでも使いやすいように。


 校務員室の机で、引き継ぎノートの束を手に取った。


 A4のキャンパスノート、全部で七冊。

 表紙は十八年分の手垢で、端のほうが丸く擦り切れている。山本は一冊ずつ、背表紙を指先でなぞった。ノートの中身は、校舎の鍵の癖、花壇の年間計画、アレルギー対応児童のリスト、遊具の点検履歴、電気系統の配線図、不審者対応の記録、そして雑記。ひとことで括れるページは一ページもない。

 花壇のノートを開くと、十月の第一週に藤本園芸で頼むパンジーの発注先、電話番号、支払い条件が、几帳面な字で並んでいた。アレルギーのノートには、健吾の欄に「給食のそばの日、朝の段階で教室の掲示物を確認」と書き足してある。去年の春に追記したものだ。不審者対応のノートは、十八年のあいだに三回、校門前に立ったことのある人物の特徴、時間、通報した警察官の名前まで書き込まれていた。

 七冊は、山本の記憶そのものだった。



 昼過ぎ、児童が下校していく。

 正門の前に、山本は立った。通り過ぎる子ひとりひとりに、「気をつけてな」と、いつもの声で送る。

 太郎は、一度振り返って、大きく手を振っていった。花子は、振り返らなかった。まっすぐ、家のほうへ歩いていった。


 校門を閉める。

 山本は、七冊のノートを抱えて、職員室に向かった。


 ドアを開けると、松本先生が立ち上がった。その後ろに、川口先生もいる。


「山本さん」


 松本先生の声が、少しだけかすれていた。


 山本はノートを、松本先生の机の上にそっと置く。

 松本先生は一番上のノートを手に取り、表紙をめくった。鍵の癖、立て付けの直し方、その先のページ。捲る指の動きが、途中で止まる。

 それから、松本先生は二冊目、三冊目、と順に手を動かしていった。ひとつのページで止まり、また捲る。アレルギーのノートのある行で、松本先生は一度、目を閉じた。


 いつの間にか、他の教員も、松本先生の机の周りに集まっている。

 誰も、何も言わなかった。


 ノートを閉じたとき、松本先生の目は赤かった。


「……山本さん」


「はい」


「本当に、本当に、ありがとうございました」


 松本先生は、深く、頭を下げる。


 川口先生は、もうずいぶん前から泣いていた。両手で顔を押さえて、声を殺している。

 他の教員たちも、順番に山本に声をかけてくれた。お世話になりました、ありがとうございました。

 山本は、一人ずつに頭を下げていった。



 校長室で、斎藤校長と向かい合う。


「山本さん。本当に、申し訳なく思っています」


 斎藤校長は、今日は正面から山本の顔を見た。

 十一月の校長室で、書類を挟んで話したときとは、別の顔だった。


「いえ、長い間、お世話になりました」


「……あなたに、辞めていただくような形になったこと、私は」


「校長先生」


 山本は、斎藤校長の言葉を、やわらかく遮った。


「私は、自分で決めました。誰かに辞めさせられたわけじゃ、ないんです」


 斎藤校長は、しばらく山本の顔を見ていた。

 それから、ゆっくり、深く、頭を下げる。


 山本も頭を下げて、校長室を出た。



 校務員室の最後の片付けを終えて、作業着から私服に着替える。

 作業着は、洗ってからきれいに畳んで、机の上に置いた。次に来る人が使うものは、置いていくことになっている。


 花子の封筒は、作業着の胸ポケットから、私服の内ポケットへ移した。

 ここでは開けない。家に帰ってから、恭子と一緒に開けよう。


 校務員室の引き戸を、膝で持ち上げて、閉める。鍵を事務室の箱に戻した。


 正門を出るとき、一度だけ、振り返った。

 花壇のパンジーが、三月の夕日に、紫と黄色と白の粒になって光っている。

 山本は頭を下げて、門の外へ出た。二度目は、振り返らない。


 家に着くと、恭子が玄関で待っていた。


「おかえり」


「ただいま」


「お疲れさまでした」


 山本は、頷いた。

 靴を脱いで、居間のソファに座る。内ポケットから封筒を取り出した。


「これ、もらった。花子って子から」


「読んでもいい?」


「一緒に」


 恭子が隣に座る。

 封筒の糊は、子どもの指で押しただけの弱いもので、指先でそっと開くと、たどたどしい字の便箋が一枚だけ入っていた。


『やまもとおじさん、いつも、なまえをよんでくれて、ありがとう』


 恭子が先に泣いた。

 山本は、手紙を両手で持ったまま、机の上にそっと置く。しばらく、封筒と便箋を見ていた。

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