第23話「門を開けるだけでいいから」
山本は、花壇のパンジーから指を離した。
根元に、小さな虫が一匹ついていた。指で弾き落として、落ちた先の土に、軽く靴の先で蓋をする。
十一月の末だ。手袋をしていても、指先のあいだから朝の冷気が入り込んでくる。息を吐くと白く、すぐに消えた。
十月の第一週、予定通りマリーゴールドから植え替えた紫と黄色と白のパンジー。冷たい朝日に透けると、花びらの内側に細い筋が見える。
正門の錠はまだ外していない。七時半まで、あと五分ほど。
そのとき、校舎の裏手から、息を切らして川口先生が駆けてきた。職員用の裏門を通ってきたらしい。いつも正門の錠を外したあと、七時四十分にやって来るのに、今朝は七時二十五分だった。
「山本さん、おはようございます」
「おはよう。今日、早いな」
「あ、あの、会議で」
川口先生は何か言いかけて、そのまま言葉を飲んだ。
背を向けて、職員室のほうへ足早に歩いていく。
その後ろ姿を、山本はしばらく見ていた。
*
午前十時過ぎ、校務員室の電話が鳴る。内線の番号が、校長室だった。
「山本さん、少しお話ししたいので、校長室まで来てもらえますか」
校長の斎藤先生。
山本は作業着のまま、廊下を歩いた。三階の校長室のドアをノックして、中へ入る。
「失礼します」
応接セットの奥に、斎藤校長が座っていた。その隣に、松本先生。山本のために用意された椅子は、二人の向かいに一つだけ。
斎藤校長は、テーブルの上にA4の書類を一枚置いた。書類の端を揃え直す指先が、ほんの少しだけ震えていた。
「いつもお世話になっています。今日は、来年度の運営について、山本さんにお話をしておきたくて」
書類の見出しに「小学校 午前七時開門事業の実施について」と印字されている。
九月の廊下で耳にした言葉が、ここでやっと形になって、山本の目の前に置かれた。
「来年度の四月から、市内の全小学校で、午前七時に開門することが、正式に決まりました」
斎藤校長の言い方は、少し早かった。
「校務員の山本さんには、来年度から、朝七時の開門を……お願いしたいと、市から方針が下りてきています」
「開門、ですか」
「はい。開門時刻を三十分前倒しして、そのぶん、保護者の方が、えっと……早い時間に出勤できるように、という趣旨です」
言葉の間が、ときどき止まる。
校長自身が、まだ自分の話を飲み込みきれていない声の出し方だった。
「実際、門の前で七時半より前から待っているお子さんも、増えていると聞いています。親御さんが早朝のシフトで家を出るから、一人で家に置いておけない。そういうご家庭のために、市としては……」
そこまで言って、校長は視線を書類のほうへ落とした。
山本は、小さく頷いた。
門の前で待つ子のことは、山本自身が一番知っていた。校則上の登校時刻より前に、鉄扉の向こうでランドセルを背負い直す子の顔を、何人も並べて言える。その子たちの親が早朝に家を出ていることも、朝の光の中で何度も挨拶を交わすうちに、薄く分かっていた。開門時刻を前倒しするという話そのものは、現場から見ても、筋は通っている。
書類には、開門の時刻と、校務員が立つ位置の図と、保護者への通知文案。それだけしか書かれていない。
共働き家庭支援、小一の壁。そう言い換えた「趣旨」だけが、書類の上下にあしらうように並んでいる。悪い趣旨ではない、と山本は、書類の文字を指でなぞりながら考えた。むしろ、必要な話だ。ただ、書類の中には、門を開けたあとの三十分のことが、ほとんど何も書かれていない。
「……七時から、登校が始まるということですか」
「希望する保護者のお子さんは、七時から登校してきます」
「何人くらい」
「市の調査では、本校では二十人前後の見込みです」
二十人。
その数字が、指先にずしりと落ちる。
「あの、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「七時に門を開けて、二十人の子どもが入ってきたあと、ふだんの登校時刻の七時五十分まで、五十分ほど空きます。そのあいだは、どなたが校庭で子どもを見ていることに、なっているんですか」
斎藤校長の目が、わずかに泳いだ。松本先生は、膝の上で手を組んで、顔を伏せている。
「……校務員の山本さんに、校門の内側で、見守っていただくことに、なっています」
「見守り、ですか」
「ええ、ただ、見守りといっても、何か特別なことをするというのではなく、形式的なものです」
形式的、という言葉の意味を、山本は頭のなかでもう一度繰り返した。
「もし、その時間帯に、不審者が校門の前に来たら、どうなりますか」
「そのときは、山本さんから警察や職員室に連絡していただいて、対応する、ということになっています」
「職員室には、まだ先生はいませんよね」
「……七時の時点では、いない可能性が高いです」
「連絡しても、すぐには、誰も来ないということですか」
「そのときに居合わせた職員が対応する、という建付けになっています」
建付け。
その言葉を、山本は頭のなかでゆっくりなぞった。建付けというのは、制度の上だけで組み立てられた図のことだ。実際に不審者が来たときに、その図で子どもを守れるかどうかは、図の中には書かれていない。
「もし、子どもがケガをしたら、どうなりますか」
「応急処置は、山本さんにお願いすることになります」
「十人、二十人の子どもが、一斉にケガをすることはありません。でも、もし、一人、深いケガをしたとき、私は応急処置をしながら、残った十九人を、同時に見守れません」
斎藤校長は、答えなかった。
松本先生も、答えない。
「もし、けんかが始まったら」
山本は、さらに聞いた。
「門の前でけんかが始まったら、私は止めに入ります。止めに入っているあいだ、門の前には、誰もいません。ほかの子が、その隙に道路に出たら、どうなりますか」
斎藤校長が、ゆっくりと顔を上げる。書類の端を、指先でそっと撫でた。
「山本さん」
「はい」
「心配しないで大丈夫です」
校長は、困ったように微笑んだ。
「門を開けるだけでいいから。見守りといっても、形式的なもので、山本さんに何もかもを背負っていただくという話では、ないんです。トラブルが起きたら、その時に居合わせた教員が対応しますから」
山本は、斎藤校長の顔を見た。
それから、松本先生の顔に目を移す。松本先生の視線は、やっぱりテーブルの上に落ちていた。
「教員の先生方は、七時の時点では、まだ出勤前、ですよね」
斎藤校長は、今度こそ、答えなかった。
沈黙だけが、校長室の床に積もっていく。
窓の外で、パンジーの花弁が、十一月の風に、一瞬だけ揺れたのが見えた。
「……考えさせてください」
山本はそれだけ言って、頭を下げる。
校長室を出た。
廊下で腕時計を見たら、十時二十五分。体育館の屋根のトタンを、今日のうちに見に行く予定にしていた。予定は変えない。
午後、梯子をかけて屋根に登り、浮いたトタンを三ヶ所打ち直した。釘を打つとき、屋根の金属が鈍く唸る。その音の裏側で、校長の言葉が、繰り返し鳴っていた。
——門を開けるだけでいいから。
*
夕方、校務員室に戻ったとき、松本先生が扉の前で待っていた。
「山本さん」
「教頭先生」
「……すみません」
松本先生は、それだけ言った。
ほかに、何も言えないようだった。
「教頭先生も、反対、なんですね」
「……公には、言えません」
松本先生の声は、低い。誰かに聞かれないように、気を張っている声だった。
校長の下で動く立場の人間が、その立場のまま、頷いた。
山本は、それ以上、問わなかった。
「分かりました」
山本はそれだけ言って、校務員室に入る。
扉を閉めてから、ようやく、小さく息を吐いた。
石油ストーブの燃える匂いが、鼻の奥に届いた。
*
その夜、夕食の途中で、山本は箸を置いた。
「再雇用、辞退しようと思う」
恭子は、茶碗を持ったまま、山本の顔を見た。
「……そう」
「来年から、七時開門になる。門を開けて、見守りもする。もし何か起きたときに、先生方はまだ出勤前だ」
「助けを呼んでも、来ないってこと?」
「いると言われても、実際には、いない」
恭子は、茶碗を置いた。
「門を開けるだけでいいから、って校長先生に言われた。そう言われた仕事を、俺は、続けられない」
「あんたは、ずっと、そうじゃないものをやってきたもんね」
「……ああ」
「太郎くんや花子ちゃんは、どうするの」
「……」
「あんた、ずっと気にしてるじゃない。太郎くんが転びそうだとか、花子ちゃんの声が小さいとか」
「辞めるのは、そのためでもあるんだ」
恭子は、少しだけ笑った。笑ったのに、目の端は湿っていた。
「お疲れさまでした。十八年、お疲れさまでした」
「まだ、三月まで働くけどな」
「うん。あと四ヶ月ね」
恭子が立ち上がって、台所に戻る。
山本は、冷めかけた味噌汁を、最後まで飲み干した。
翌朝、山本はいつも通り、六時半に校務員室の引き戸を膝で持ち上げて開けた。
いつも通り、体育館のシャッターを上げ、プール脇を点検して、正門の前に立つ。花壇のパンジーに、根元から水をやる。
やることは変わらない。あと四ヶ月、山本がやる。
——門を開けるだけでいいから。
その言葉だけは、頭のなかで、少しも音量が落ちなかった。




