第3話「空が広い」
五日目の午後だった。
近所のドラッグストアで買ってきたハンドクリームを試しながら、ソファに座っていた。退職してから、手荒れが治り始めていることに気がついた。会社ではコピー用紙とダンボールばかり触っていたから、冬はいつもひび割れていた。
スマホが鳴った。
知らない番号だった。出なかった。
すぐにまたかかってきた。同じ番号。
出なかった。本を開き直した。
三回目の着信で、画面をちゃんと見た。
番号の下に名前が表示されていた。部長だ。会社の代表番号ではない。個人の携帯から、かけてきている。
代表番号ではかけられない事情があるのだろう。私が退職した後、代表電話を取る人がいないのかもしれない。あの電話は総務——つまり私——が一次対応していた。
本を閉じた。
少し迷った。出る理由はない。もう社員ではないし、義理もない。この五日間、LINEの通知をずっと無視してきた。電話だって同じことだ。
でも、出た。
なぜ出たのか、自分でも分からなかった。
「——あ、つながった。契約書の件なんだが」
第一声がそれだった。
お疲れさまも、元気にしてるかも、突然辞めて申し訳ないとも思っていないのかも、何もない。五日ぶりに聞く部長の声は、社内で内線を取ったときと同じトーンだった。
やっぱりこの人にとって、私は最後まで機能だったのだ。
必要なときに呼び出して、用が済めば切る。内線の受話器と同じ。
「更新期限が今月末らしいんだが、原本がどこにあるか誰も分からなくて。取引先にも聞いたんだが、原本はそちらにあるはずだと言われて」
「引き継ぎ資料の十四ページに書いてあります」
即答した。三十二ページの資料は、自分で書いたから全部覚えている。
「ああ……いや、それは見たんだ。見たんだが——」
そこで初めて、部長の声に迷いが混じった。
「——そもそもファイルが多すぎて。キャビネットに何十冊も並んでるだろう。どれがどの契約のファイルなのか、背表紙を見ても分からなくて」
分かる。
あの棚には七年分の契約書ファイルが詰まっている。取引先二百社以上、年度ごとに分冊して、背表紙には私の字でラベルを貼った。年度別、取引先別、更新時期別。三種類の並びが頭に入っていたから、営業が「あの契約書どこですか」と聞いてきても、考える前に手が伸びた。
でもそれは引き継ぎ資料には書けなかった。
「キャビネット左列の二段目、青い背表紙、右から四番目」——そう書いたところで、ファイルは誰かが抜いて戻せば並びが変わる。七年かけて体に覚えさせた配置感覚は、三十二ページの紙にはならない。
「……左のキャビネットの二段目です。青い背表紙のファイルに、年度ごとにまとめてあります。今月末が期限なら、今年度のファイルの、たぶん前のほうにあるはずです」
最後だから、それだけは教えた。
「あ——ああ。ありがとう」
部長の声に、聞き慣れない響きが混じった。
ありがとう。その言葉を、この人の口から聞いたことがあっただろうか。七年間、一度も聞いた記憶がない。プレゼン資料を徹夜で直しても、出張の手配を三十分で組み直しても、返ってきたのは「お、よくなってるな」と「ああ、済まない、やっぱり飛行機にしてくれ」だけだった。
沈黙が落ちた。
受話器の向こうで、部長が咳払いをした。何か言いかけて、止まった。もう一度、短い咳払い。
「——それでな」
声のトーンが変わっていた。
さっきまでの、用件だけ伝えればいいという事務的な声ではない。語尾が少し揺れている。あの面談のときの、自信に満ちた語り口はどこにもなかった。
「……他にもいろいろ、困っていることがあってな」
「引き継ぎ資料に——」
「読んだ」
食い気味に遮られた。
「読んだんだ。全部読んだ。だが、書いてある通りにやっても上手くいかない。備品の発注は業者に電話したが、いつもと違う人が出て話が通じなかった。お前——君がいつも頼んでいた担当者がいるらしいんだが、名前が分からなくて」
山下さんだ。入社二年目から七年間、毎月やりとりしていた。電話すると「ああ、いつもの」と言ってくれる。発注書を出す前に在庫を確認してくれるし、急ぎのときは翌日配送に切り替えてくれる。それは引き継ぎ資料の発注先一覧には「担当:山下」と書いてある。書いてあるのだが——そういう、人と人の間にできた信頼のようなものは、名前を書いただけでは引き継げない。
「経費精算もな、月末の締め処理をやろうとしたんだが、ボタンを押しても画面が進まない。マニュアル通りにやってるはずなんだが」
締め処理の前に、差し戻し分を全部解消しておかないとロックがかかる。それは資料の二十三ページに書いた。でも、差し戻しが何件あるかを把握するには、一件一件開いて確認しないといけない。私は月末になる前に、少しずつ潰していた。月末に一気にやろうとすれば、そうなる。
「……なあ」
また沈黙。今度は長かった。
「考え直してくれないか」
声が、小さくなっていた。
半年前の面談で「君の仕事は誰でもできるから」と言い切った人の声とは思えなかった。あのとき部長は椅子の背にもたれて、私の資料をぱらぱらとめくりながら言った。余裕があった。私一人いなくなっても何も変わらないと、本気で信じている顔だった。
「条件は相談する。給与のことも、ポジションのことも」
ポジション。
七年間、昇給も昇進もなかった私に。たった五日で、「ポジション」という言葉が出てくる。
間を置いた。
たぶん、三秒くらいだったと思う。部長にはもっと長く感じただろう。
窓の外が見えた。午後の光が、カーテンの隙間から白く射していた。
この五日間で、一つだけ分かったことがある。私の仕事に値段がつかなかったのは、価値がなかったからじゃない。値段をつける気が、誰にもなかっただけだ。
「"誰でもできる仕事"なんですよね?」
声は、震えなかった。
「誰かにやらせてください」
通話終了のボタンを押した。
*
スマホを鞄にしまった。
サンダルをつっかけて、玄関のドアを開けた。
「誰でもできる仕事」を誰もできなかった——それを知れただけで、十分だった。
空が広い。
振り返らなかった。




