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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
一人総務 ―『誰でもできる仕事だから』

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第2話「誰もいない」

 目が覚めたとき、部屋が静かだった。


 アラームが鳴っていない。当たり前だ、昨夜のうちに全部切った。七時十二分。会社にいた頃なら、もう家を出ている時間だ。八時十五分の始業に間に合うように、七時ちょうどの電車に乗って、駅から早歩きで十二分。遅刻したことは一度もなかった。


 布団から出ない、という選択肢があることに気づくのに少し時間がかかった。


 天井を見た。ひびが一本、斜めに走っている。七年住んでいるのに、初めて気がついた。平日の朝にこの角度で天井を見たことがなかったのだと思う。


 しばらくそうしていた。



 起き上がったのは八時を過ぎてからだった。

 顔を洗って、コーヒーを淹れた。豆を挽くところから。会社にいた頃はインスタントすら飲まずに出ていた。朝の十五分は、来客用のお茶の在庫チェックと給湯室のコーヒーメーカーのセットに使っていたから。


 ソファに座って、マグカップを両手で包んだ。

 窓から冬の日差しが差し込んでいる。十二月にしては暖かい朝だった。


 テレビはつけなかった。

 何も考えなくていい朝が、こんなに静かだとは知らなかった。会社にいた頃の今ごろは、もう三本は電話を取っている。宅配便の受け取り、会議室の変更、誰かの名刺の増刷依頼。始業から一時間で、私のメモ帳は半ページ埋まるのが普通だった。


 今日のメモ帳は、白いままだ。


 スマホが鳴った。

 LINE。


「すみません、コピー用紙の発注先ってどこでしたっけ? 至急です」


 引き継ぎ資料の二ページ目。発注先一覧の一番上。共有フォルダのパスは最終日に全社メールで送ってある。


 既読だけつけて、スマホを置いた。



 二日目。


 昨日より少しだけ遅く起きた。体がようやく、アラームのない朝に慣れ始めている。

 コーヒーを淹れている間にスマホを見たら、通知が三件並んでいた。


「契約書のファイルってどのフォルダですか? サーバーのどこ探しても見つからなくて」


「来客用のお茶、どこに発注してましたか? 銘柄も教えてほしいです。午後にお客さん来るんですけど」


「複合機のトナー替えたことないんですけど、業者の番号分かります? 印刷止まってて困ってます」


 引き継ぎ資料の八ページ、十一ページ、十五ページ。全部書いてある。目次もつけた。索引もつけた。三十二ページの資料を、誰も開いていないのだろう。


 分かっていたけれど。


 コーヒーを飲みながら、通知を一件ずつ消した。返信はしなかった。



 三日目。


 スマホを見る前に、まず窓を開けた。冷たい空気が入ってくる。隣の家の屋根に霜が降りていた。こんなに寒い朝なのに、急ぐ場所がないだけで不思議と平気だった。


 通知は、増えていた。


「社用車の保険更新っていつでしたっけ。書類届いてるんですけど、これ放置していいのか誰も分からなくて」


「○○商事の担当者の連絡先わかる? 先方から折り返し待ちらしいんだけど、営業が怒られてるみたいで」


「防災備蓄の期限管理ってどうやってたんですか。棚に期限切れの水が大量にあるって言われて、総務に聞けって言われたんですけど」


「経費精算の月末の締め処理ってどのボタン押せばいいですか? 画面が何個もあって分からないです」


 全部、小さな仕事だ。

 発注先を調べる。ファイルを探す。業者に電話する。ボタンを一つ押す。どれも十分あれば終わる。どれも「誰でもできる」はずの仕事だ。


 でも、その「誰」がどこにもいないらしい。


 三十二ページの引き継ぎ資料が、共有フォルダで眠っている。全社メールのリンクを開いた人が何人いたのか、たぶん確認するまでもない。



 四日目。


 朝、顔を洗ってからスマホを開いた。


 未読三十二件。


 スクロールしても終わらなかった。同じ人が時間を空けて何度も送ってきている。「前のメッセージ見ていただけましたか?」「お忙しいところすみません」「本当に困ってまして」。丁寧な言葉の奥に、苛立ちが滲んでいるのが分かった。


 名前も知らない人からのメッセージもあった。


「突然すみません、総務の方に聞けと言われたんですが、会議室の予約システムのパスワードが分からなくて……」


 もう「総務の方」はいない。

 その人に、誰がそれを教えるのだろう。


(私が辞めた穴を、誰も埋められていない)


 そう思ったとき、何かが込み上げた。怒りではなかった。悲しみでもない。ただ、七年間ずっと喉の奥に詰まっていた何かが、ゆっくり溶けていくような感覚だった。


 スマホを裏返して、テーブルに置いた。

 コーヒーを淹れ直した。三日前に買った豆が、もう半分になっている。会社を辞めてから、コーヒーの消費量だけが増えた。


 窓の外を見た。

 向かいのマンションのベランダに、布団が干してある。平日の昼前に布団を干せる人が、この街にもいるんだなと思った。


 通知音を切った。



 五日目。


 午前中は本を読んで過ごした。半年前に買って、ずっと積んでいた文庫本。会社にいた頃は、帰宅後に本を開く気力が残っていなかった。ページをめくる手が軽い。二章まで読んだところで昼になった。

 簡単にパスタを茹でて、食べた。平日の昼に自分のために料理をするのは久しぶりだった。


 午後、知らない番号から着信があった。

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