第2話「誰もいない」
目が覚めたとき、部屋が静かだった。
アラームが鳴っていない。当たり前だ、昨夜のうちに全部切った。七時十二分。会社にいた頃なら、もう家を出ている時間だ。八時十五分の始業に間に合うように、七時ちょうどの電車に乗って、駅から早歩きで十二分。遅刻したことは一度もなかった。
布団から出ない、という選択肢があることに気づくのに少し時間がかかった。
天井を見た。ひびが一本、斜めに走っている。七年住んでいるのに、初めて気がついた。平日の朝にこの角度で天井を見たことがなかったのだと思う。
しばらくそうしていた。
*
起き上がったのは八時を過ぎてからだった。
顔を洗って、コーヒーを淹れた。豆を挽くところから。会社にいた頃はインスタントすら飲まずに出ていた。朝の十五分は、来客用のお茶の在庫チェックと給湯室のコーヒーメーカーのセットに使っていたから。
ソファに座って、マグカップを両手で包んだ。
窓から冬の日差しが差し込んでいる。十二月にしては暖かい朝だった。
テレビはつけなかった。
何も考えなくていい朝が、こんなに静かだとは知らなかった。会社にいた頃の今ごろは、もう三本は電話を取っている。宅配便の受け取り、会議室の変更、誰かの名刺の増刷依頼。始業から一時間で、私のメモ帳は半ページ埋まるのが普通だった。
今日のメモ帳は、白いままだ。
スマホが鳴った。
LINE。
「すみません、コピー用紙の発注先ってどこでしたっけ? 至急です」
引き継ぎ資料の二ページ目。発注先一覧の一番上。共有フォルダのパスは最終日に全社メールで送ってある。
既読だけつけて、スマホを置いた。
*
二日目。
昨日より少しだけ遅く起きた。体がようやく、アラームのない朝に慣れ始めている。
コーヒーを淹れている間にスマホを見たら、通知が三件並んでいた。
「契約書のファイルってどのフォルダですか? サーバーのどこ探しても見つからなくて」
「来客用のお茶、どこに発注してましたか? 銘柄も教えてほしいです。午後にお客さん来るんですけど」
「複合機のトナー替えたことないんですけど、業者の番号分かります? 印刷止まってて困ってます」
引き継ぎ資料の八ページ、十一ページ、十五ページ。全部書いてある。目次もつけた。索引もつけた。三十二ページの資料を、誰も開いていないのだろう。
分かっていたけれど。
コーヒーを飲みながら、通知を一件ずつ消した。返信はしなかった。
*
三日目。
スマホを見る前に、まず窓を開けた。冷たい空気が入ってくる。隣の家の屋根に霜が降りていた。こんなに寒い朝なのに、急ぐ場所がないだけで不思議と平気だった。
通知は、増えていた。
「社用車の保険更新っていつでしたっけ。書類届いてるんですけど、これ放置していいのか誰も分からなくて」
「○○商事の担当者の連絡先わかる? 先方から折り返し待ちらしいんだけど、営業が怒られてるみたいで」
「防災備蓄の期限管理ってどうやってたんですか。棚に期限切れの水が大量にあるって言われて、総務に聞けって言われたんですけど」
「経費精算の月末の締め処理ってどのボタン押せばいいですか? 画面が何個もあって分からないです」
全部、小さな仕事だ。
発注先を調べる。ファイルを探す。業者に電話する。ボタンを一つ押す。どれも十分あれば終わる。どれも「誰でもできる」はずの仕事だ。
でも、その「誰」がどこにもいないらしい。
三十二ページの引き継ぎ資料が、共有フォルダで眠っている。全社メールのリンクを開いた人が何人いたのか、たぶん確認するまでもない。
*
四日目。
朝、顔を洗ってからスマホを開いた。
未読三十二件。
スクロールしても終わらなかった。同じ人が時間を空けて何度も送ってきている。「前のメッセージ見ていただけましたか?」「お忙しいところすみません」「本当に困ってまして」。丁寧な言葉の奥に、苛立ちが滲んでいるのが分かった。
名前も知らない人からのメッセージもあった。
「突然すみません、総務の方に聞けと言われたんですが、会議室の予約システムのパスワードが分からなくて……」
もう「総務の方」はいない。
その人に、誰がそれを教えるのだろう。
(私が辞めた穴を、誰も埋められていない)
そう思ったとき、何かが込み上げた。怒りではなかった。悲しみでもない。ただ、七年間ずっと喉の奥に詰まっていた何かが、ゆっくり溶けていくような感覚だった。
スマホを裏返して、テーブルに置いた。
コーヒーを淹れ直した。三日前に買った豆が、もう半分になっている。会社を辞めてから、コーヒーの消費量だけが増えた。
窓の外を見た。
向かいのマンションのベランダに、布団が干してある。平日の昼前に布団を干せる人が、この街にもいるんだなと思った。
通知音を切った。
*
五日目。
午前中は本を読んで過ごした。半年前に買って、ずっと積んでいた文庫本。会社にいた頃は、帰宅後に本を開く気力が残っていなかった。ページをめくる手が軽い。二章まで読んだところで昼になった。
簡単にパスタを茹でて、食べた。平日の昼に自分のために料理をするのは久しぶりだった。
午後、知らない番号から着信があった。




