第21話「弟子」
朝六時。三島鉄工所の裏口を開けて、沢田は中に入った。
赤羽精工では鉄のシャッターを下から六十センチ上げて身をかがめて入っていた。ここは裏口から入れる。場所は変わった。でも、時間は変えなかった。
工場の蛍光灯を点けた。
三島鉄工所は、赤羽精工より少し小さい。旋盤は七台。沢田が割り当てられた機械は、入口から三台目だ。中古の機械だ。三島が「これが一番調子いい」と言って割り当ててくれた。
電源を入れた。主軸が低く唸り始める。
試運転で十五分、機械を温める。場所が変わっても、この手順は変えなかった。冷えた機械では、ミクロンの精度は出ない。
沢田が三島鉄工所に移ってから、半年が経った。
*
六時半、三島章吾が入ってきた。
社長が朝一番に工場に出てくる会社だった。ここは、先代からの古い町工場の、古い空気が残っていた。
「沢田さん、おはよう」
「おう」
三島は沢田より一歳下だが、社長業は長い。工場の隅々まで目を配る。今朝も、機械の並びと、各工具箱の位置を確認して回っている。
「今日、若い三人、沢田さんに付ける」
「ああ」
「拓海、この前の難削材で相当手こずったらしい。本人、落ち込んでる」
拓海は二十七歳の若手だ。赤羽精工の水野と同じくらいの年頃だった。
「落ち込むのはいい。諦めなきゃ、そのうち削れる」
「沢田さんにそう言われると、あいつも安心するだろう」
三島は笑って、自分の執務に戻っていった。
*
七時半、若手三人が出勤してきた。
「沢田さん、おはようございます」
拓海が、少し硬い声で挨拶した。
その後ろから、中堅の佐々木、一番若い真由が続く。佐々木は三十四歳、真由は二十二歳の女性職人。女性で旋盤を担当する職人は業界でも珍しい。三島が「手先の感覚がある」と見込んで入れた子だ。
「拓海、あの難削材、まだ残ってるか」
「はい、あと三本」
「俺が見る。やってみろ」
拓海が緊張した顔で、機械の前に立った。
沢田は、少し離れたところで腕を組んだ。佐々木と真由も、手を止めてこちらを見ていた。
拓海の刃物の送りを、沢田は耳で聞いていた。
キュルキュル、という音がわずかに混じった。刃先が材料に噛みすぎている。
「止めろ」
拓海が機械を止めた。
「音を聞いてたか」
「……はい」
「キュッて鳴った。あれは刃先が食い込みすぎてる。送りを半分に落として、切込みを三分の一だ」
「三分の一ですか」
「最初はそれでいい。削れ始めたら、少しずつ上げていけ。材料に教えてもらえ」
拓海は頷いて、機械を再起動した。
今度は、音が違った。シャーッという滑らかな音が続いた。切粉が、短く螺旋状に落ちた。
「……できました」
拓海の声が、少し上ずっていた。
佐々木と真由が、拓海の手元を覗き込んでいた。
*
その日の午前の終わり、真由が新聞を抱えて工場に入ってきた。
朝の納品で銀行に行った帰りに、コンビニで経済紙を買ってきたらしい。
「沢田さん、これ……」
真由が、経済面のページを開いて差し出した。
沢田は作業着の手をウエスで拭いて、新聞を受け取った。
「赤羽精工、民事再生法申請」
見出しは、それだった。
本文は、短かった。先代からの町工場、自動化投資の失敗、主要取引先離脱、三十人の雇用の行方。そのあたりが、事務的な文字で並んでいた。
沢田は、黙って読んだ。
読み終えて、新聞をたたんだ。
「……沢田さんの、前の会社ですよね」
真由が、遠慮がちに聞いた。
「そうだ」
それだけ返して、沢田は新聞を作業台の端に置いた。
真由は、それ以上聞かなかった。
拓海と佐々木も、黙って自分の機械に戻っていった。
沢田は、自分の機械の前に立った。
削りかけの部品があった。公差プラマイ十ミクロン。いつも通りの仕事だ。
削り始めた。
岡田は、どうしているだろう。
水野は、どうしているだろう。
考えても、答えは出なかった。今、自分にできるのは、目の前の一本を削ることだけだった。
*
午後、三島が難しい案件を持ってきた。
「医療機器メーカーからの特急だ。公差プラマイ五ミクロン。五本」
図面を見た。精密シャフト。赤羽精工で東邦エアロ向けに削っていたものと、似た形状だった。
「NCで出るか」
三島が、沢田に聞いた。
「出ない」
沢田は即答した。
「この材質で、この形状だと、NCじゃ仕上げ面が荒れる。手で削るしかない」
「頼めるか」
「やる」
沢田は刃物台の前に立った。
拓海、佐々木、真由が、いつの間にか後ろに集まっていた。
材料を固定した。センターを出す。刃物を選んだ。
粗削り、中仕上げ、仕上げ。
削り始めた。
仕上げの刃物を送り込むとき、沢田は息を止めた。
機械が鳴いた。シャーッ、という滑らかな音。四十年、ずっと聞いてきた音。場所が変わっても、いい削りの音は同じだ。
一本目を削り終えて、精密マイクロメーターを当てた。
十五・〇〇〇。
ジャスト。
佐々木が、小さく息を吐いた。真由が、「すごい……」と漏らした。
「沢田さん」
拓海が、迷いながら声を出した。
「これ、やっぱり、NCとAIじゃ、ここまで出ないんですね」
沢田は、二本目の材料をチャックに固定しながら、手を止めずに答えた。
「"AIで自動化できる"らしいよ。そう言われて辞めた」
怒ってはいなかった。
皮肉でもなかった。
ただ、事実を言った。
拓海が黙った。
佐々木も真由も、何も言わなかった。
沢田は、二本目を削り始めた。
*
昼休み、沢田は一人で工場を出た。
三島鉄工所から歩いて五分。商店街に入って、少し奥まで進んだところに、紺色ののれんがかかっている店がある。
「よしえ食堂」。
退職直後、一度だけ通り過ぎたことがあった。そのときは入らなかった。
最近は、週に二、三回、ここで昼を食べている。カウンター六席、テーブル二つの小さな店。店主らしい女性が一人と、年下の女性が一人、それから時々奥で皿を洗っている静かな年配の男が見える。
のれんをくぐった。
「いらっしゃい」
カウンター越しに、五十代半ばの女性が笑った。沢田と同じくらいの年齢に見える。
空いていたカウンターの端に座った。
「今日のおすすめは」
「サバ味噌だよ。身が厚いの入ってる」
「じゃ、それで」
女性は厨房に戻って、盛り付けを始めた。
奥で、別の女性——ホール担当らしい——が「はーい」と元気な声で返事をしていた。
トレーが置かれた。
サバ味噌、味噌汁、白いご飯、小鉢のひじき煮。
沢田は手を合わせて、味噌汁を一口飲んだ。
出汁の香りが、鼻に抜けた。
しばらく、椀を見ていた。
「……美味いな」
小さく呟いた。
カウンターの向こうで、女性が少し笑った。
「ありがとうございます」
サバに箸を入れた。身が厚い。骨の周りの脂がのっている。白いご飯と一緒に口に入れる。味噌の甘さと、サバの脂が、混ざった。
女性が、布巾でカウンターを拭きながら言った。
「お客さん、最近よく来てくれるね」
「近くの三島さんとこに移ってな。昼はここだ」
「三島鉄工所さん」
女性は、小さく頷いた。
「あそこ、いいとこよ。社長さん、いい人だって聞いてる」
「ああ」
沢田は、それ以上言わなかった。
女性も、聞かなかった。
静かに食べた。小鉢のひじきは、しっかり味が染みていた。こういう煮物は、時間をかけた人間の仕事だ。機械では作れない。
食べ終わって、会計を済ませた。
店を出るとき、のれんが風に揺れた。
振り返ると、女性がカウンターの中で、次の客の出汁を引いているのが見えた。
朝の厨房と同じ匂いが、店の奥から流れてきていた。
*
三島鉄工所への道を、沢田は歩いていた。
工場に戻れば、拓海と佐々木と真由が待っている。三本目の精密シャフトを、今日中に仕上げなければならない。
若い職人たちが、機械の音を聞き分けるようになるまで、まだ何年もかかる。何年かければ、身体が覚える。四十年は要らない。二十年もあれば、一人前になる。沢田がそうだったように。
歩きながら、ふと思った。
("誰でもできる仕事"と言われて辞めた人は、みんなどうしているのだろう)
誰のことを考えているのか、自分でも分からなかった。ただ、世の中にはそういう人が、たぶんたくさんいる。
答えは、出なかった。
でも、一つだけ、言えることがあった。
(——少なくとも、俺はここにいる)
工場のシャッターが、見えてきた。
沢田は歩くペースを、少し上げた。




