第20話「公差外れ」
月曜の朝、健太郎は東邦エアロ本社の受付にいた。
受付嬢に名乗ると、奥から若い社員が迎えに来た。いつもなら明るい挨拶を交わす担当者が、今日は無言で会議室に案内した。
エレベーターの中でも、会議室までの廊下でも、一言も交わさなかった。
会議室に入ると、品質管理部長の小田島と、技術部長の二人が座っていた。
テーブルの上には、分厚い資料が三冊積まれていた。
「お忙しいところ、恐縮です」
小田島が事務的に言って、健太郎に着席を促した。
技術部長が一冊目の資料を開いた。
「ロット番号K-四〇三、該当期間、三月下旬から五月末までに御社から納入された精密シャフトです」
ページがめくられた。
寸法の測定データが、びっしりと並んでいた。
健太郎は目を走らせた。
外径の測定値。公差は図面指示でプラマイ十ミクロン。その数字を超える値が、赤い太字で並んでいる。
「……これは」
「最大で、プラス二十五ミクロンです」
小田島の声は低かった。
「公差の倍以上、外れています」
健太郎は、言葉が出なかった。
二十五ミクロン。十五ミクロン超過。航空部品の精密シャフトで、この誤差は致命的だった。取り付ける先のベアリングと嚙み合わない。嚙み合っても、回転時に微振動が出る。長時間の飛行で、微振動は金属疲労を進める。
「既に一部は、旅客機の組立ラインに投入されています」
技術部長が続けた。
「全数を回収し、検査に回します。御社納入分のシャフトは、当該機種のすべてのロットを洗い直す必要があります。検査費用、回収物流費、組立工程の遅延損害——概算で、四億八千万円になります」
健太郎は椅子の背にもたれかけた。
背中が、急に冷たくなった。
「……お、御社の検査で、見逃されたということは」
「抜き取り検査で見つけたんです」
小田島が、冷たく返した。
「全数検査しなければ見えない異常を、弊社で発見しました。本来、製造元で保証されるべき品質です」
反論の余地はなかった。
赤羽精工のAI品質管理システムは、「全品公差内」と出していた。そのデータを信じて、健太郎は東邦エアロに納入した。
システムが、嘘をついていたのか。違う。システムは学習したデータの範囲内で動いていた。ただ、その範囲の外に、現実があった。
「赤羽さん」
小田島が、資料を閉じた。
「取引は、今月をもって停止させていただきます。代替調達先にはすでに打診済みです」
「待ってください、品質改善策を——」
「信頼の問題です」
小田島の言葉は、短かった。
「うちの会社が扱っているのは、人の命が乗るものです。一度、数字を疑われたら、元には戻せません」
健太郎は、何も言えなかった。
東邦エアロの会議室の窓から、六月の曇り空が見えていた。
*
会社に戻った健太郎は、役員と幹部を集めて緊急会議を開いた。
四億八千万円の賠償請求。東邦エアロとの取引停止。新規案件は既に動いていたものが複数ある。それらもキャンセルされるだろう。
経理部長が資料を見ながら言った。
「年商のうち、東邦エアロが占める割合は四割。これがゼロになります」
「他の取引先は」
「医療機器のメディカル精密、半導体のシリコンテック、両社から問い合わせが入っています。東邦エアロの件が業界で広まり始めています」
健太郎の手が震えた。
会議室の空気が、重くなっていた。
専務——三ヶ月前の取締役会で「様子を見ないと」と言った、生え抜きの番頭——が、静かに口を開いた。
「社長」
「……はい」
「三ヶ月、何も言えなかった私の責任もあります。ただ——」
専務は一度言葉を区切った。
「沢田さんが辞めた直後から、現場では小さな違和感があったんです。岡田が何度か社長室に上げたはずです。AIが学習していない材料ロットで、仕上げ面が荒れる、と」
「……聞いた」
「あれは、公差内だったかもしれません。でも、職人は『ギリギリ』で引っかかっていた。それを、社長は『公差内だから問題ない』と処理されていた」
健太郎は、三週間前の岡田との会話を思い出した。硬度で五から八パーセント、仕上げ面が荒い。あのときの岡田の顔。
何か言いたそうにして、結局「分かりました」と言って出ていった、あの背中。
「沢田さんは、四十年かけて、ギリギリを越えさせない仕事を続けていた。ギリギリの手前で、止めていた。その『手前』が、AIには学習されていなかったんです」
専務の声は、静かだった。非難ではなかった。ただ、事実を述べていた。
健太郎は、専務の顔を見られなかった。
*
翌週、医療機器のメディカル精密から、書面で通知が届いた。
「今期の新規発注は見送らせていただきます」
その翌日、半導体装置のシリコンテックからも、同じような書面が来た。
「他社への切り替えを検討しています」
業界は狭い。東邦エアロで起きた品質問題は、一週間で主要取引先に伝わっていた。
新規受注がほぼ止まった。
既存案件の納期前倒しや増産キャンセルが続いた。売上の予測が、日ごとに下方修正されていった。
健太郎は取引先を回って頭を下げ続けたが、信頼を取り戻すことはできなかった。
*
月末、メインバンクの担当者が来社した。
三十代後半の、いつも愛想のいい男だった。その日は、表情がなかった。
「運転資金の融資枠について、本部から見直しの指示が出ています」
「見直しとは」
「率直に申し上げます。現時点での追加融資は難しいです。既存の融資についても、期限到来時に回収の方針です」
健太郎は、机の木目を見ていた。
「……どれくらい、猶予が」
「三ヶ月です」
担当者は、それだけ言って帰っていった。
三ヶ月。仕入れ代、人件費、固定費。四億八千万円の賠償請求はまだ支払っていない。キャッシュは、三ヶ月で尽きる。
*
七月下旬、健太郎は顧問弁護士と向き合っていた。
「このままでは、破産です。民事再生法の申請を勧めます」
「……社員は」
「一部の事業は譲渡先を探せるかもしれません。ただ、三十人の雇用をそのまま維持するのは難しい」
弁護士は、冷静に続けた。
「社長、申請は早いほうがいい。遅らせるほど、傷が深くなります」
健太郎は頷いた。頷くしかなかった。
*
八月の第一週、赤羽精工は民事再生法の申請を行った。
新聞の経済面に、小さく記事が載った。業界誌にはもう少し大きく扱われた。
「精密加工の老舗、経営破綻。自動化投資が裏目に」
申請の翌日、健太郎は社長室に一人でいた。
デスクの上には、もう何もなかった。パソコンも、書類も、弁護士事務所に引き取られていった。
壁に、先代の写真が一枚だけ残っていた。
赤羽源蔵。工場のシャッター前で、作業着で腕組みをして笑っている。健太郎の父。この工場を五十年前に創業して、三年前に他界した。
健太郎は、その写真の前に立った。
三ヶ月前、役員会で自分が言った言葉が、頭の中で再生されていた。
『職人の勘なんて、AIで自動化できるでしょ』
『属人化の解消です』
『これからの赤羽精工は、自動化と機動力で勝負していく』
あのとき、専務は「様子を見ないと」と言った。
沢田は、何も言い返さずに、退職届を書いた。
岡田は、何か言いたそうにして、結局「分かりました」と言った。
全部、自分が止めていたのだ。
健太郎は、写真を見つめていた。
写真の中の源蔵は、何も言わなかった。ただ、カメラの向こうを、まっすぐ見ていた。
健太郎は、目をそらした。




