第109話「まず、探せるようにしましょう」
黒須康平が辞任届を出したのは、北央採用企画を訪ねた三日後だった。
雨庭書房の社長室は、以前と同じ匂いがした。
古い紙と、革張りの椅子と、少し濃いコーヒーの匂い。
社長は封筒を見ても、すぐには手を伸ばさなかった。
「処分が不満か」
「違います」
黒須は答えた。
「では、なぜだ」
黒須は、膝の上に置いた手を一度だけ握った。
「AIの可能性を、まだ捨てられません」
社長の眉が、わずかに動いた。
「それを、うちで続けるのは難しいと?」
「はい」
黒須は、そこで言葉を選んだ。
雨庭書房に恨みがあるわけではない。
社内が古いとも思わない。
むしろ、前回の件で慎重になったのは当然だった。
「出版で使える部分はあります。議事録、コメント分類、販促文案。便利にはなると思います」
「なら、残って進めればいい」
「便利な範囲でなら、進められます」
黒須は社長を見た。
「ただ、私がやりたいのは、AIで仕事の流れそのものを変えることです」
黒須は一度言葉を切った。
「そのためには、AIに向いた仕事と、AIを入れる前に整えるべき仕事を分ける必要があります。雨庭書房では、私がAIと言うだけで前回の失敗に戻ってしまう」
社長は何も言わなかった。
「それは、私がそうしたからです」
黒須は続けた。
「だから、別の場所でやり直したいと思っています」
社長はようやく封筒を手に取った。
中身を抜き、短く目を通す。
「採用支援会社、と聞いた」
「はい」
「AIで求人票を作るのか」
「いいえ」
黒須はそこだけはすぐに答えた。
「求人票を作らせる前に、求人票を作る仕事を整えます」
社長は少しだけ息を吐いた。
それが笑いなのか、呆れなのか、黒須には分からなかった。
「前より地味だな」
「その方が失敗しにくいです」
社長は机の上で辞任届をそろえた。
「引き継ぎはしてもらう」
「もちろんです」
「黒須くん」
「はい」
「巻き返しのためだけなら、やめておけ」
黒須はその言葉を正面から受けた。
「はい」
社長はそれ以上は言わなかった。
退任日は月末になった。
北央採用企画には退任後に入る。
高瀬には、正式に移ってから一ヶ月の現場整理を始めると伝えた。
制作管理部の引き継ぎ資料を作り、進行中の企画ごとに担当者を分ける。
AI活用方針の小さな検証は、相原と間宮へ引き継ぐことになった。
宮田とは、最後の日の夕方に廊下で会った。
「北央採用企画に行くと聞きました」
「耳が早いね」
「島村部長が言っていました」
宮田は少し迷ってから言った。
「また、AIですか」
「また、AIだ」
黒須は答えた。
宮田は困ったように笑った。
責める顔ではなかった。
「今度は本文じゃないんですよね」
「本文ではない」
「なら大丈夫です、とは言えませんけど」
「言わなくていい」
黒須は言った。
「私も、もう言わない」
宮田はそこで小さくうなずいた。
「頑張ってください」
「ありがとう」
黒須は雨庭書房の廊下を見た。
見本誌の箱。壁に貼られた販促資料。締切前の編集者が歩く足音。
嫌になって出ていく場所ではなかった。
ただ、自分がここで持てる言葉は、もう少なくなっていた。
*
北央採用企画での黒須の肩書きは、業務改善室長になった。
柳は最初、AI推進室長という名を出した。
「分かりやすいでしょう」
「今は、分かりやすすぎます」
黒須はそう断った。
「AIの名前を先に出すと、現場はAIの話だと思います」
「AIの話ではないんですか」
「最初は違います」
柳は不満そうだったが、高瀬が横から入った。
「業務改善室で行きましょう。社内にも、その方が説明しやすい」
そうして黒須の席は、会議室の横に置かれた。
窓際でも役員室でもない。
複合機と書類棚に近い席だった。
初日の朝、黒須は全体朝礼で挨拶をした。
「業務改善室の黒須です。AIを使う前に、求人票を作る仕事を整理します」
事務所の反応は薄かった。
営業担当は予定表を見ている。
制作担当は締切の近い原稿を開いている。
電話は朝礼の途中でも鳴った。
黒須は、それでいいと思った。
歓迎されに来たわけではない。
ただ、嫌がられる理由は分かっておく必要がある。
黒須は最初の三日間、ほとんど提案しなかった。
営業に同行し、制作の席の横に座り、求人票がどう作られていくかを見た。
午前十時、営業の越智が戻ってくる。
「花村さん、これ急ぎ。今日中に初稿ほしい」
花村は画面から目を離さずに聞いた。
「職種は」
「配送助手」
「募集理由」
「人が足りない」
「足りないのは分かってます。欠員ですか、増員ですか」
「そこまで聞いてない」
花村は、深く息を吐いた。
「必須条件は」
「普通免許。あと、体力ある人がいいって」
「普通免許はAT限定可ですか」
「たぶん」
「たぶんで書けません」
越智は頭をかいた。
「じゃあ、聞いてくる」
その会話だけなら、短い。
だが、同じ確認が一日に何度も起きていた。
黒須はノートに書く。
募集理由が曖昧。
必須と歓迎が混ざる。
免許条件が未確認。
前回求人の所在不明。
午後、別の制作担当が共有フォルダを開いていた。
「あれ、去年の介護スタッフってどこでしたっけ」
「介護の中」
「介護、三つあります」
「最新版って書いてあるやつ」
「最新版が二つあります」
黒須は、その画面を見ながら何も言わなかった。
何かを教える前に、どこで詰まっているかを見なければならない。
四日目の午後、黒須は花村に声をかけた。
「十分だけ、時間をもらえますか」
「今ですか」
「今でなくても構いません」
花村は画面右下の時計を見た。
「十分なら」
黒須は印刷した一枚の紙を机に置いた。
求人票準備シート。
そう書いてある。
「入力項目を増やす話なら、先に言っておきますけど、現場は嫌がります」
「増やす項目と、減らす確認を分けたいと思っています」
黒須は言った。
シートには十項目だけが並んでいた。
職種。
募集理由。
採用予定人数。
必須条件。
歓迎条件。
勤務時間。
給与。
勤務地。
前回求人の有無。
確認が必要な表現。
花村は紙を見た。
「少ないですね」
「最初から増やすと使われません」
「でも、これだと足りないです」
「足りないところを、教えてください」
黒須は赤ペンを出した。
花村は少し迷ってから、紙の余白を指さした。
「募集理由は、もっと分けたいです。欠員補充だけだと広すぎます」
「前任者退職、産休代替、増員、新店舗、資格者補充、繁忙期対応」
「それでかなり違います」
黒須は赤で書き足した。
「あと、勤務時間は固定かシフトかを分けたいです。介護と飲食は、そこがぼやけると応募後に揉めます」
「固定、シフト、夜勤あり、夜勤専従」
「夜勤専従は別ですね」
「分けましょう」
花村の声が、少しずつ仕事の声になっていく。
「確認が必要な表現、というのは何ですか」
「そのまま求人票に入れる前に、人が見直す言葉です。例えば、若い人、女性向き、体力がある人、明るい人」
花村はうなずいた。
「営業メモには出ます」
「出ると思います」
「それを禁止にするんですか」
「メモから消す必要はありません」
黒須は言った。
「ただ、そのまま求人票には書かない。職務に必要な条件へ直せるか、人が確認する欄にします」
花村は、少しだけ考えた。
「配送助手なら、若い男性、じゃなくて、重量物の運搬あり、とかですか」
「はい。さらに、どの程度の作業か確認した方がいい」
「一人で持つのか、台車を使うのか」
「そこです」
花村は、シートをもう一度見た。
「これ、営業に書かせられますか」
「営業に聞いてみます」
「嫌がりますよ」
「嫌がると思います」
黒須は答えた。
「ただ、後で何度も聞き返されるよりは、最初に十項目だけ埋める方が早いかもしれません」
「かもしれません、ですね」
「はい。まだ、かもしれません」
花村は、初めて少し笑った。
*
翌日の夕方、黒須は営業の越智に同じシートを見せた。
越智は、紙を見た瞬間に顔をしかめた。
「これ、営業が書くんですか」
「全部でなくても構いません。分かる範囲で」
「分かる範囲なら今も書いてます」
「今のメモは、人によって書き方が違います」
「そりゃ、相手によって話が違うんで」
越智の声には少しだけ苛立ちがあった。
黒須は言い返さなかった。
営業の仕事を軽く見るとこの仕組みは動かない。
「相手によって違うから、同じ項目で聞きたいんです」
「同じ項目で聞けないこともありますよ。社長が早口でまくし立てて、あとからメールで送るって言って、そのメールが来ないとか」
「ありますか」
「あります」
越智は即答した。
「あと、現場が言っている条件と、人事担当が言っている条件が違うこともあります」
「それはどこに残していますか」
「メモに」
「そのメモが制作に渡るときに短くなる」
越智は黙った。
否定しないということは、あるのだろう。
「では、こうしましょう」
黒須はシートの一番下に欄を足した。
未確認事項。
「分からないことは、分からないまま書いてください。制作側が何を聞き返せばいいか分かるようにします」
越智は紙を見た。
「空欄だと怒られそうなんですよ」
「空欄と未確認は分けます」
「違いますか」
「違います。空欄は忘れた可能性がある。未確認はまだ決まっていないと分かる」
越智はそこで少しだけ表情を変えた。
「それなら書けます」
「ありがとうございます」
「でも、これAIなんですか」
「今は違います」
「じゃあ、なんで黒須さんがやるんですか」
黒須はすぐには答えなかった。
それは北央に来てから何度も向けられた問いだった。
AIを入れる人だと聞いていたのに、ファイル名と入力項目の話ばかりしている。
「AIが読める形にするためです」
黒須は言った。
「その前に人が探せる形にします」
越智は納得したような、していないような顔をした。
「まず、人ですか」
「まず、人です」
*
一週間後、北央採用企画の共有フォルダに新しい階層ができた。
職種別。
年度別。
掲載済み。
作業中。
使用しない。
完璧ではない。
過去ファイルをすべて移すには時間がかかる。
ファイル名も、一日でそろうものではない。
それでも、新しく作る求人票だけはルールを決めた。
日付。
会社名。
職種。
募集理由。
担当者。
花村はそのルールを見て言った。
「長いですね」
「長いです」
「でも、探せますね」
「探せます」
その日の午後、越智が急ぎの案件を持ってきた。
「前に似た求人ありましたっけ。フォークリフトの倉庫作業」
花村は共有フォルダを開いた。
職種別。
物流。
フォークリフト。
三つのファイルが出てきた。
去年の求人。
今年春の求人。
応募数が多かった求人。
花村は思わず画面を見たまま止まった。
「ありました」
越智がのぞき込む。
「早いですね」
「早いです」
花村は自分で言ってから少し笑った。
応募数が多かった求人には、備考が紐づいていた。
写真を現場作業中のものに変更。
勤務時間を早番遅番で分けて記載。
資格取得支援を上部へ移動。
花村はその三行を見て、原稿の前半を書き換え始めた。
「これ、AIじゃないのに助かりますね」
越智が言った。
花村は画面から目を離さずに答えた。
「AIじゃないから助かるんじゃないですか」
黒須は二人の後ろでその会話を聞いていた。
否定ではない。
少なくとも仕事の流れの中に入ってきた言葉だった。
花村が黒須を振り返った。
「黒須さん」
「はい」
「この備考、過去の求人全部に付けるのは無理です」
「全部はやりません」
「じゃあ、どれから」
「まずは直近三ヶ月分からです。次に、応募が多かったものと、修正が多かったものを職種ごとに広げます」
花村はうなずいた。
「それならやれます」
黒須はノートに小さく丸をつけた。
やれます。
その言葉は、導入します、よりも重かった。
AIはまだ画面に出ていない。
文章案も生成していない。
求人票を自動で作ったわけでもない。
それでも、探す時間は少し減った。
聞き返す言葉は少しそろった。
現場の経験が、担当者の記憶から一枚の備考へ移り始めた。
黒須はノートの端に書いた。
AIの前に、人が使える形。
今度はその順番を崩さなかった。




