ヒカルの過去3
雨の、音がする。地面に当たって跳ね返る雨の飛沫が冷たい。
石の壁に挟まれた暗い裏路地は冷えた身体を一層凍えさせる。吐く息すら白いのに、何処にも行く宛がなく、ただその場で身体を丸めて暖を取る。
人の気配がする度に、息を潜める。こんな状況でも何処かの誰かに助けを求めるなんて愚の骨頂。誰の手も差し伸べられないことは分かっているのだから。
『もし俺が戻らなかったら、この先を──』
初めて手を差し伸べてくれた、かの人は戻らなかった。二度と、帰らぬ人となっていた。
──目を閉じれば思い浮かぶ、最期の彼の姿はきっと永遠に忘れないだろう。
初めて手を差し伸べてくれた彼の人は、その屋敷の当主の甥だった。元は彼の父親が継ぐ筈だったその地位を奪われて、甥である彼の立場もあやふやだった。勿論、権力は皆無だった。
それでも、彼がいなければ屋敷に閉じ込められたまま生涯を終えていただろう。彼の言葉に賭けてみようと思ったのは、彼が初めてヒカルに手を差し伸べてくれたからだ。
奴隷の身でありながら部屋を勝手に抜け出すなんて、普段であれば自殺行為であり、絶対にしないことだと思っていた。それでも彼が逃げるように言ってくれて、初めて先の見えない暗闇に陽が射した気がした。隠し通路だと教えて貰った道に足を踏み出した瞬間、ふと、後ろを振り返った。
──告げられた期限の時刻になっても戻らぬ彼は、何処へ行ったのだろうか?
彼がヒカルに言い残して向かった筈の屋敷の当主の部屋へと、不安を抱えつつも向かった。
そこで見たのは、動かない彼の身体。そして、彼の身体の下の血溜まり。何度も見た、二度と戻らない仲間と同じ姿だった。
あぁ、と声にならない何かとともに納得する。
目の前の光景を頭が認識したと言うよりも、すとん、と現実が落ちてきたと言うべきか。
部屋から聞こえた声に反射的に姿を隠す。聞こえてきたのは、当主の声だ。片付けるように言い残し、当主は部屋を出て行った。その後、指示を受けた者が彼の身体を摺るようにして布で包み、それをまた廊下まで引き摺った。
見えなくなるまで息を潜めて見送って、窓からその先を見た。
庭だ。剪定された場所とは別の、何時もの場所だ。土が盛り上がった場所は、奴隷の墓。このままこの屋敷にいれば、ヒカルも何れそこに埋められることになるだろう。
あぁ、とまた意味を持たない声が音になったのかも分からないまま、冷たい土に埋められていく彼を見ていることしかできない。聞こえない筈の窓の向こうの、土を掘る音が、土を掛ける音が──彼がこの世から消える音が聞える気がした。
そこからどうやって逃げしたのか、正確には覚えていない。ただ息を潜めて誰にも見つからない様に、彼に教えて貰った道を辿って屋敷を抜け出した。
『屋敷を出たら──』
助けを求めなさい、と彼は言った。
無理だ、絶対に。今まで誰も助けに来てくれなかったのに、今更誰に助けを求められるだろうか。
──ねぇ、貴方がいないのに、何処の誰に助けを求めろと言うのです?
屋敷からは無我夢中で逃げ出した。何処までも走って、知らない道を駆け抜けて。足を滑らせて転んでも、じくりと痛む傷に耐えてまた走る。誰もヒカルを知らない場所に行きたかった。
漸く立ち止まった。立ち止まれたのは、何処かも分からない街の建物の軒下だった。
吐く息は白く、乱れた呼吸は息苦しくて。思い出した光景に、その息苦しさに何故だか無性に泣きたくなった。
「っ……あぁっ…!!」
零れる嗚咽が止まらない。涙が溢れる目頭が熱い。
抑えようとしても漏れる嗚咽を、降り出した雨が掻き消して。深まる闇がその泣き顔も、その情けない姿も隠してくれるから、今だけは立ち止まることを自分に許そう。
空が泣き止んだら、また駆け出すから。
もっと遠くで、俺のことを誰も知らない場所で。貴方の名前を、貴方への感謝を忘れないで覚えておくから。
今はただ泣くことを、貴方の死を悼むことを赦して下さい。
そして、貴方との約束を守れない弱い俺を、赦して下さい。
何処かも分からない場所へ、誰も知らない場所へ。逃げ出した先に何が待ち受けているかも分からないまま、また走り出した。二度とあの屋敷に戻るものかと心に決めて。
全てを忘れてしまう心算だった。薄情だと言われても、それが自分が生き残る術だと思っていたから。
◆◇◆◇◆
エリステオ伯爵を告発する機会はあった。寧ろ、そうすべき機会を逃した。
そう告げ謝罪したヒカルに、辺りは静まり返っていた。
記憶を思い返せば、彼のことを覚えておくことすらも約束しておけなかったけれど。
「いや…きっと、当時は君がエリステオ伯爵家を訴えても門前払いだった思う。今回は問題が重なったからこそ、君に証言を求めた。此方こそ、当時対応できていれば君を苦しめることはなかった。申し訳ない」
沈黙を破ったアレクシスは首を振って、ヒカルに頭を上げるように言った。
「……そうか、ルシルは此処にいたのか」
伯爵邸内で殺害されたルシルがどのような扱いになっていたかは知らないが、アレクシスにとってルシルは既知の、いや、それ以上の人物だったらしい。
「ヒカル殿、過去の君を救えなくて済まなかった。そしてルシルのこと、エリステオ伯爵家のことを教えてくれてありがとう」
アレクシスは泣くの堪えているような表情で、ヒカルの頭を撫でた。……どうやら彼の中でも折り合いがついたらしい。
「クラウディア殿下、スカイティア殿下、情けない姿を晒して申し訳ない。エリステオ伯爵邸内ではゆっくりと話すことも難しいので、王宮に戻るとしよう」
ルシル達の遺体は丁重に扱われ、一先ず王宮に運ばれることになった。方針が決まったところで、ルシルの遺体から取り外したブレスレットを大事そうに胸に抱いたアレクシスの表情が目に焼き付いた。
(ルシル様…眠りを妨げてごめんなさい。でも、貴方のことを忘れていなかった人がいましたよ)
遺体の埋まった場所を掘り返すなど罰当たりだと思わなくもないし、彼らに申し訳なく思わない訳でもない。けれど、王太子であるアレクシスがルシルの死を悼み、今も忘れていなかったことは素直に嬉しい。
……ただ、スカイティア様とレーウィス殿の案じる視線が痛いの。いえ、ルシル様のことは気掛かりではありましたけどね?心のつっかえは取れたのですよ、一応。
エリステオ伯爵邸からの帰路は往路よりも足取りが軽くなったのか重くなったのか、よく分からない。
庭先から見つかった遺体についてなど伯爵達を追及する為に、ライゼルスの王太子一行とは王城に戻ってから別れた。……最後にアレクシス殿下に頭を撫でられて、ルシル様を思い出したのは内緒だけど。
「……ヒカル」
「はい、何でしょう」
用意された部屋に戻り、一息吐いたところでスカイティアの低い声で呼ばれた。クラウディアとレーウィスの表情は硬く、素知らぬ振りをするシュナイザー伯爵の存在が寧ろ有難く感じる。居た堪れない。
いやー、そりゃ来ますよね。尋問ですか、説教ですか。いえ、俺もまさか出張先で過去を穿り返す羽目になるとは思いませんでしたけど、不可抗力ですよね。
「まさか、こんな形でヒカルの過去を知ることになるとは思わなかったんだけど」
「えぇ、俺も吃驚です」
マジで国名とか知らなかったし。夜会でエリステオ伯爵と再会しなかったら、永遠とルシル様達のことを話す機会もなかったんだよね。……そういう点では今回の出張って、俺にも利点があったんだな。
ん?つまり、俺はただ追い出された訳ではなかったのか?……え、いや、待って。何それ、ユエ様とステラ様の情報網が怖い。俺が奴隷商館に送られる前の生活まで把握している訳じゃないよね?
ふと、ルゼノで待っているだろう第一王子と第一王女を思い浮かべ、ヒカルは身震いした。
そんなヒカルの心境を知らず、重い空気を纏ったスカイティアが問い掛ける。
「ルシル殿って、どんな人だった?」
「生真面目で融通の利かない、頑固者でしょうか」
思わぬ問いだったが、すっぱりと言い切った。
そんなヒカルにスカイティアは愕然とし、レーウィスは悟ったように目を伏せ、クラウディアは歯噛みした。
「それ、褒めてる?貶してる?」
「え、俺から見た本人像って、そんな感じでしたよ?」
今更褒めるも貶すもない。容姿に関していうならば、幼さを残していたが整った顔立ちで、鮮やかな黒髪に緑色の目をしていた。……その印象で思い出すのは、ジルバートか。ユエの叔父であるアルセル侯爵の元に引き取られて以降に会ってはいないが、ジルバートは元気にしているらしい。それには安堵したけど。
それはさて置き、とルシルの印象を告げたヒカルは周囲を見た。スカイティアは愕然と目を見開いたまま、レーウィスとクラウディアは察している様で。
「真面目過ぎて、堕落したエリステオ伯爵家とは確執があった。だから、真正面から向かって行って殺された。俺が知っているのは、その程度ですよ。まさか、アレクシス王太子殿下がルシル様をご存知だとは思いませんでしたが」
もし、彼らの繋がりを知っていたら、過去の段階でアレクシスに助けを求めただろうか。……いや、王太子殿下ご本人も対応できたとは思えないって言ったしな。今更思っても同じことか。『後悔先に立たず』ともいうし、今更気にするのは止めよう。
ルシルと関わったのは、ほんの少しだけだ。それでも彼がエリステオ伯爵の屋敷の状態に怒り、直談判に行ったことは感謝しているし、彼がいなければ今でもヒカルはエリステオ伯爵邸に閉じ込められていただろう。……いや、まだ生きているだろうか。それすらも怪しい。
ヒカルは、ルシルの覚悟を活かせなかった。活かすどころか、全てを捨てて逃げた。だから、罰が当たったのかもしれないと奴隷商人に捕まった時にはそう思った。
けれど、こうして何の問題もなく、今の安寧を得た生活──と言うには少々物騒だが──を送れるのは奇妙な縁の巡り合わせだ。
「今回のライゼルスの違法奴隷について、貴方の証言は有効です。これはライゼルスに対して、ルゼノが貸しを作ることになりますが、貴方は何か要求することは無いのですか?」
「これと言ってないですね。強いて言えば、今後もルゼノと友好的であって欲しいです」
貸しは貸しでも、たかが小姓モドキの権限では大したことは望めないと思いますが……アレクシス様にとってはそれだけルシル様のことって重要だったんですねぇ。
「欲がないのですね」
「いえ、それだけ今の生活が満ち足りているんですよ。嘗ては色々あった不満が、スカイティア様達の元ではなくなりましたから」
まぁ、ユエ様やステラ様に駒として使われようと王城では衣食住が揃っているし、何もない間は平穏だし。……ん?その割に事件発生率は高いか?いやいや、偶然だよね。寧ろ過去から現在において、これだけ事件が起こっていたら、その内本当に王宮崩壊するって。
「俺は、君の役に立った?」
「今更何を仰います。俺に居場所を与えて下さったのは、スカイティア様でしょう」
スカイティアの思わぬ言葉に、ヒカルは首を傾げた。
あの時、スカイティアが受け入れてくれなければヒカルは奴隷商館へと逆戻り。その先は予測もできないが、精々奴隷商人達の餌食になっていたか。
いや、ヘラーザがいたから、どうだろう。過度の接触で嫉妬によるとばっちりを受けることはあったけど、命に関わるような事態や身体に残るような傷はできなかったな。そういう点では彼女には護られてきたのだろう。……あ、本当に今更だけど女神に思えてきた。
最近よく思い出す気がするけど、彼女は元気だろうか。レーウィス殿と会っている気配もないし……帰ったら、レーウィス殿に休暇を取って会いに行くように促した方が良いかな。いや、お互い大人だし、子供の俺に言われるまでもないよね。
「それは、そうだけど…」
想像の世界で一人突っ込んでいると、スカイティアが歯切れ悪そうに呟く。
その瞬間、彼の背後にいたクラウディアが噴き出した。レーウィスは自然と目を逸らして微かに笑みを浮かべ、シュナイザー伯爵に関しては既に興味なしの様子である。
「クラウディア様?」
「兄上…!?」
「いや、スカイティアの反応が面白くてな」
「お、面白いって…!」
クラウディアの発言にスカイティアは愕然とするが、その異母兄はくつくつと笑うだけ。
「ヒカルが来たことで過ごす環境が変わったから、それに見合う対価を渡せていないと思ったんだろう、スカイティアは」
「え、奴隷から解放されて、衣食住が保障された生活があって、他に何を望みます?寧ろ、俺は何もしていないでしょうに」
王城にやって来た生活を振り返っても、ユエに依頼されたことや何処かの貴人に巻き込まれることはあっても、スカイティアの役に立った言うべき事柄は、ユエからの願いである『スカイティアとクラウディアを仲直りさせて』という内容だけだろう。
……その他で、俺って何もして無くない?寧ろ、ただのごく潰し。せめてできることを、とレーウィス殿に強請って漸く得た仕事が部屋の掃除と給仕なのに。それだけで王城滞在できるとか、募集したら倍率が物凄いと思いますけどね。
「……行動は無自覚なのか」
「無自覚、のようですね」
「それもまたヒカルの良い所です」
「……まぁ、不満がないと言うならば良い事でしょう」
あの~、王侯貴族様方。それは一体どういう意味ですか?無自覚も何も、俺はただの巻き込まれですよね?




