悪夢の再来
ライゼルスの宮殿で開かれた夜会。
ライゼルスとルゼノの友好を再確認したと言う、まぁ、有りがちな理由を記念して開かれたらしい。
仲が良いならそれでいい。今宵の夜会を終えれば、後は当たり障りのない事柄になるので──と言うか、メインがシュナイザー伯爵に移るので──、最終日前夜の夜会まで気を張るようなことは無い。
──そう、無事に終えれば、の話であったが。
胸騒ぎがする。華やかな会場には、相応の身分を持つ貴族が集まっている。令息令嬢の顔合わせや情報交換など目的は様々だろうが、ヒカルには縁のない世界であり、こうした場ではどうしても記憶の端にあるような貴族像が浮かび上がるだけに嫌悪しかない。
視界の端を横切る貴族の背中が、嘗てヒカルを奴隷として所有していた飼い主と似た雰囲気を持っていたりとか。趣味の悪い服装が飼い主を訪ねてきた男を似ていたりとか。甲高い令嬢の話し声が、嘗て屋敷の一角でヒカルを人形のように玩んだ令嬢と似ていたりとか。
……サンドバック代わりに暴力を振るわれることもあったが、アレには参ったな。今も幻影でも見ているのか。そんなのは要らん。さよなら、悪夢。こんにちは、現実。
「スカイティア殿下は経済学がお得意だとお聞きしました」
「何でも社会主義と資本主義について、あのユエルディーネ殿下と論争されたとか!」
夜会の会話では、どうやらスカイティアが中心になるらしい。レーウィスが傍に控えているので問題はないだろうが、少々不安はある。レーウィスとて、貴族の一員。伯爵家といえば、この会場では身分は高くはないが、ルゼノの招待客の一人だ。スカイティアを一人にしてしまうこともあるかもしれない。
ヒカルもまたライゼルスより正式に招かれたルゼノから客の一人となっているらしいが、立場は小姓モドキなので、余り公の場には出ていかないことを承諾して貰った。…夜会とか、俺には重荷なの。
本当に大丈夫かな…スカイティア様は興味のある話に熱中してさえしていれば、問題はないみたいだけど。……これは発見だった。初対面の人だろうが、スカイティア様は話に乗れさえすれば問題なく過ごせる。
でも、やっぱり、社交というのは不慣れだ。何も入っていないだろうな、そのグラスは?
レーウィスさえいれば、問題はない。しかし、予感は的中してレーウィスはライゼルスの貴族と話し込む形になり、簡単にはスカイティアの補佐に行けなくなった。
そして、やはり更なる嫌な予測は的中した。
「…っ!」
夜会の中盤に差し掛かった時刻、突然スカイティアは表情を歪ませた。直前には何も口にしていないが、今までの疲労が今に出たのだろうか、とヒカルは眉をひそめた。
「スカイティア様…?」
「だ、大丈夫。少し…休めば」
レーウィスが離れた頃からそれとなくスカイティアの傍に控えていたが、不審な点はなかった筈だ。
思わず声を上げかけたヒカルは、スカイティアに制された。
此処は隣国の宮殿だ。外交でやって来ている以上、無様な姿は晒せないと人気のない方へと足を運ぶ。ヒカルはスカイティアに付いた。
しかし、やはり此処は隣国ライゼルス。もしもルゼノだったならば、王子であろうと忌避される『黒髪』を持つスカイティアに積極的に関わろうとはしないだろうが、無下に扱えば国への評価に関わると思うのが、隣国の王族を招いた友好国の心情であろう。
「スカイティア殿下、如何なさいました?」
「ご不調でしょうか?部屋をご用意致しますので此方へ」
「お構いなく、少し休みます。端の方へ行きますから、お気になさらずに」
スカイティアの不調な様子を見かねて声を掛けてきた男に断りを入れたが、やはり彼方も譲る心算はないらしい。
(その心境は分かるし、スカイティア様も断れないだろうね)
ヒカルの予測通り、休めるように部屋を用意すると声を掛けてきた男の好意を無下にできず、スカイティアと御付としてヒカルは案内されるままに回廊の先にある、夜会の喧騒とは無縁の一室に通された。
「此方で、お休みください。何かお飲み物を…果実水で宜しいでしょうか?」
「お気遣い、痛み入ります。適度に休んだら戻りますので…」
元々控室の一部屋だったのか、予め用意されていたらしい。差し出された果実水に手を伸ばし、ヒカルが先に口を付けて毒見する。失礼ながら友好国と言えど、国内の人間を全て信用できる訳ではない。
しかし、そこは承知しているのだろう男は特に表情を変えることなくヒカルに続き、スカイティアが果実水に口を付けるのを見届けると、体調を案じる言葉を残して部屋を後にした。
「ふう…何だったんだろう?何か、急にお腹?…胸から胃に掛けて違和感がして、吐き気みたいな…」
椅子に座って胸を撫でるスカイティアは落ち着いたようだ。ヒカルは安堵し、果実水のお代わりを差し出したところで、ヒカルは違和感を覚えた。
「直前には何も口にされてはいらっしゃませんでしたよね?疲れが出たの、でしょうか…!」
何か、胸焼けがするような感じ。スカイティアの症状と似ているだろうか。ヒカルは胸から胃の辺りに掛けて撫で下ろす。
(基本的に飲食物は同じ筈…まさか、拮抗作用の毒物か?)
何処かで聞いた話だ。二種類の毒を同時に盛ると時間差で徐々に効いていくという。
そんな中途半端な知識による嫌な予感に、冷や汗が流れた。或いは遅行性の毒かと予想を巡らせるが、今は何が盛られたかは問題ではない。
「スカイ…!」
「う…っ!?」
スカイティアを案じた瞬間、スカイティアが椅子から転げ落ちた。
「スカイティア様…!」
慌てて駆け寄ろうとしたところで、ヒカルは足を縺れさせた。卓に置かれていたグラスに指先が触れて、ガシャン、と音を立てて割れた。足も腕も、もう動かない。
「……ヒ、カル?」
床に倒れたスカイティアも何かを盛られたことに気付いてるが、動き様がない状態だ。
どうする?どうすれば、外に、クラウディア様に伝えられる?
この状況でスカイティア様と俺が死体になった場合、ライゼルスとルゼノの衝突は免れられない。強硬派に毒を盛られていたのは間違いないにしても…。
「――体調は如何ですかな?」
思考を遮るように、先程の男とは別の貴族の男が部屋に入って来た。
「…あ、なたは…っ?」
床から顔を上げたスカイティアとヒカルは敵か味方かも分からない男の登場に警戒心を強める。動かない身体を引き摺る様にして見上げた男に、ヒカルは瞠目した。
「な、んで……?」
ヒカルの口から毀れた言葉に、男はにぃ、と口角を吊り上げた。
その男のことを、ヒカルは良く知っていた。
「ヒカ、ル…?」
愕然としたヒカルと男の不気味な笑みを、スカイティアは不審に思っただろう。動かない身体を引き摺って、重い頭を精一杯上げて様子を伺う姿に、男は更に笑みを深めた。
エリステオ伯爵。ヒカルの悪夢の一部であり、二度と会いたくない男であった。
「ふむ、これであの子が喜ぶな」
笑みを浮かべたエリステオ伯爵は満足そうに、床に倒れたスカイティアと、彼を庇うように体を引き摺るヒカルを睥睨した。
──あぁ、この顔だ。この顔は何時まで経っても忘れられやしない。
ヒカルの脳裏に焼き付いた、きっと歴代の飼い主を並べても最も嫌悪すべき男の顔だ。
(見間違いじゃなかったんだ…!)
ライゼルスに招かれてから何度か見かけた、何処か見覚えのある顔。見間違いだと、他人の空似だと思いたかった。二度と会いたくなかった、元・飼い主の顔。
「さぁ、カナリア、おいで。君の為に用意したんだ、私からのプレゼントだよ」
エリステオ伯爵が招き入れたのは、夜会に参加していたらしい娘のカナリアだ。既に二十代半ばになるであろう年代でありながら、まるで少女の様な装い。ヒカルがエリステオ伯爵邸で飼われていた期間でも年に不相応な装いをしていたが、公の社交場でも押し通すのか。
他人の服飾の趣味に口を出す心算はないけど、相変わらず趣味悪いな…!というか、カナリアの存在も、聞き間違いでも見間違いでもなかったのかよ…!!
悪夢よ、こんばんは。しかし、この再会を祝す心算は毛頭ないぞ…!
「ルゼノの第三王子ならば娘婿としても、いいだろう。あぁ、殿下方は非常に仲が良いようだから、一緒にカナリアに愛されるならば文句もあるまい?」
思わず鳥肌が立つような視線と、その言葉の内容。スカイティアの顔色が悪くなったことが見て取れた。
何が、娘婿だ。立派な誘拐じゃないか。というか、年齢を鑑みろ。娘のカナリアはスカイティア様よりも一回り近く年上だぞ…!何で未だに何処かの家に嫁いでないんだよ…!?
しかも、含まれたその意味は如何にルゼノを格下に見て、侮辱する内容であるか分かっているのか。何故このような男が夜会に出入りできるのかと首を傾げるどころか、身分など度外視して招いた主催者に問い質したい。
目前の男が一言喋る度に、その百倍くらい言い返したい心境に陥る。しかし、この場で言い返したところで何の意味もないし、舌が上手く回るか分からない。下手をすれば舌を噛みそうだ。
「隣国ルゼノの、第三王子を拉致誘拐したとなれば処罰は免れませんよ…?」
「まぁ、そう牙を向くな、昔のようにカナリアに可愛がられるだけだ。さぁ、カナリア……後は好きにしないさい。君の物だ」
エリステオ伯爵は今も尚この娘を溺愛しているらしい。
伯爵は娘に任せ、部屋を後にした。人払いをする心算か。薬物を盛られたスカイティアとヒカルならば、娘一人でも問題ないと思ったのか。
此処は王宮だぞ?伯爵風情が好き勝手にできる筈はないのに。
警備の衛兵はどうした?まさか、ライゼルスの強硬派の手に落ちているのか?
此処一体の警備が、ルゼノを手中に落とそうとする派閥の騎士で成り立っているとしたら、誰もやって来ないこの状況に納得する。案内した男も仲間なのか。
ヒカルはぎり、と歯噛みした。油断した自分が愚かしい。
油断していたのは、スカイティアには政略結婚の価値が低いと高を括っていたせいか。何にしてもこの状況を誰かに見られたら、根も葉もない噂が立つだろう。
(いや、この場に現れるのが味方ならばいい…でも、敵ならば最悪だ)
ルゼノの第三王子スカイティアとエリステオ伯爵令嬢カナリアが、夜会の控室でこっそり逢瀬を交していたなどと噂されれば、スカイティアは婚姻を避けられまい。此処にいるヒカルの存在はないものとして、二人で密会していたと噂が立つ。
「私が欲しいのは、貴方よ…、ルーイ」
カナリアは恍惚としたような眼差しで、ヒカルを捉える。その唇から放たれたのは二度と呼ばれたくもない、嘗ての名前の一つだった。
「ルぅ、イ…?」
薬の影響か、息苦しそうに言葉を紡ぐスカイティアの様子に、ヒカルは歯を食い縛る。ヒカルよりもスカイティアの方が薬の影響が強いということは、会場内の飲み物が影響しているのか。
「勝手に、あの女が呼んでいるだけ、です。俺は、昔あの令嬢の奴隷として飼われていたんですよ。何処の男の代わりかは知りませんがね」
「…っ!?」
息を呑むスカイティアに、ヒカルは言わなければよかったかと歯噛みする。
王子は、いや、スカイティアは奴隷の世界を知るべきではない。彼は優しすぎる。ヒカルの過去を知っても心を痛めるだけだ。
カナリアが呼んだ『ルーイ』とは、ヒカルがスカイティアの元にやって来た時に名乗ったものとは別の名だ。奴隷狩りに遭ってから一度だって『ヒカル』とは名乗らなかった為、あちらこちらで別の名呼ばれていたが、それでも一番再会したくない元・飼い主に遭遇するとはどれだけ不運なのか。
今思い返しても、このエリステオ伯爵親子の屋敷では散々な目に遭った。此処が、まだあの屋敷ではないことが幸いか。
ヒカルはちらっと部屋の扉の位置を確認した。まだ逃げ出す機会はある。少なくとも此処はライゼルス穏健派の頂点である王太子の住まう宮殿だ。エリステオ伯爵が再びヒカルを所有物にしようとするならば、王宮を抜けて伯爵邸まで移動する機会が必ずある。
「どうして…?」
ヒカルの拒絶に、カナリアは愕然と呟く。本当に、何故ヒカルに拒まれるのか分からないと言うように。
「ルーイ、どうして…?どうして、私の元に帰って来てくれないの…?そんなの、嫌!」
嫌々と首を振った女が正気なのか、ヒカルには判断が付かない。
「嫌よ、だって…あの人は…きっと…」
ぶつぶつと本当に正気かと疑いたくなる独り言を呟くカナリアを前に、ヒカルは何とか脱出方法を探す。
狙われているのがスカイティアではなく、ヒカルであることはまだ救いだ。薬を盛られたスカイティアが満足に動くこともできない状態である以上、まだ動き様がある。
(俺が着いていけば、スカイティア様は助かるよね?)
ライゼルスの穏健派はルゼノと事を荒立てたくないだろう。ルゼノもまた、大国であるライゼルスと争うのは好ましくない。スカイティアに危害を与えられたとはいえ、戦争にまで発展させるようなことにはなるまい。……その身が無事ならば。
「ルーイ、貴方がいれば、あの人が会いに来てくれる…」
「あの、人…?」
「…ルイ様、カナリアはお待ちしておりますわ」
意味が分からないし、話が通じない…!これは致命的だ。本当に精神は正常なのか?
というか、ルーイだと?何処の男の代わりか知らないが、そんなことで他人の人生を無茶苦茶にする気かよ、ふざけんな。
叫びたい。叫ぶだけの余力があるならば、声を精いっぱい張り上げて、助けを求める序にこの令嬢と伯爵の悪事を曝け出したい。
「きっと、そうよ…ルーイ、私の、ルイ様…!」
マジで話聞かねえな!……あぁ、そうでした。この女は生まれも育ちも、それが許される階級なんでしたね!?もう一回言うわ、ふざけんな!
「一銭の得にもならない戯れも大概にして欲しいわね、カナリア嬢?」
「…っ!?」
何故か背後から──そこには三階の窓しかない筈なのに──声がして、ヒカルは反射的に振り返った。
そこにいたのは、窓に寄りかかり白い外套に身を包んだ細身の女性だった。




