深層心理はその夢となりて
広々した部屋。高価だと一目で分かる高級な調度品。
窓の外にある庭園は美しく整えられて、人の目を楽しませるだろう。
しかし、それは客観的に見た場合。その部屋の住人が幸せとは限らない。
『──君は、いや、君達は何だ?』
唐突に部屋を訪れた彼は、怪訝そうな表情で尋ねてきた。
その彼は、本当に稀にだが、窓から見える庭先や部屋の扉が開いた瞬間に垣間見る程度の、顔見知りとも言えない相手であった。
誰、と尋ねかけて「静かに」と声を潜めるように強要される。どうやら屋敷の主には無許可でこの部屋を訪れたらしい。それならば、多少なりとも希望があるだろうか、と抱いた期待は表に出さず、目前の彼を真っ直ぐに見た。
『──奴隷』
『っ!まさか…本当に』
子供の答えを聞いた彼は愕然として目を見開くと、軈て頭を抱えて深い溜息を吐いた。
『成る程……もう少しだけ待っていてくれ』
子供の小さな手を握って、真っ直ぐに視線を向けて来る。子供と確りと視線を合わせているのに、彼の顔そのものはまるで靄が掛ったかのように、はっきりと認識できない。
『──君の、居場所を見つけて』
それでも確かに聞こえた彼の声は、鮮明に残っていた。
◆◇◆◇◆
「──何時の夢だ」
たまに見る、過去の記憶。抗うことのできない力に押し込められる、哀れな奴隷だった頃の夢だ。虐げられる立場であったヒカルにとって、過去を夢に見ることは余りにも喜ばしくないことである。
「……何で、今更」
『黒髪』を蔑む傾向にある筈の国ルゼノで、衣食住の保障は勿論、主従関係を含む周囲の人間関係良好、身分は脱・奴隷という、親元を離れてから過去最高の好待遇を受けているのに、何故、今更忌々しくも悍ましい過去を思い出す必要があるのか。
むすぅ、と頬を膨らましつつ、ヒカルは部屋のカーテンを開けた。
奴隷として飼われ、居場所を転々とした。辛い現実に押し潰されそうになって、漸く得た安寧の中で尚も過去に縛られる理由は、嘗てヒカルに手を伸ばしてくれた人の存在が枷になっているからだろうか。
「……罪悪感、かな」
夢に見る理由の心当たりはある。しかし、今更どうしようもないことだ。今頃思い出して後悔しても、過去の事柄を憂いても、今のヒカルには何もできないのだから、もう忘れるしかない。
洗面台で綺麗な水で顔を洗って、頭を切り替える。
今は、この生活を維持することを考えればいい。
過去の記憶には蓋をして、忘却の果てに捨ててしまえばいい。
それが、ヒカルにとって最善の選択だ。いや、それ以外には何もできない。
ヒカルは自室から出て、繋ぎの回廊を通り、スカイティアの生活圏である居間へと向かう。そこには既にレーウィスの姿があり、朝食を運ぶ手前までの準備が整っている。……本日は昨日よりも早いのですが。
「おはようございます、ヒカル」
「おはようございます、レーウィス殿。スカイティア様はまだお休みですか?」
王子と並んでも見劣りしない美貌に穏やかな笑みを湛えているレーウィスは、やはり母親であるヘラーザと似ていると思う。
「えぇ、そろそろ起こしてきてくれますか」
「はい」
時計を確認し、スカイティアの自室に向かう。王宮の一角である、第三王子の宮殿は何処も彼処も高価な調度品や嗜好品に包まれているが、流石に見慣れた。凝りに凝った彫刻が施された扉を拳で叩く。……本日も無反応なり。
「スカイティア様、朝ですよ」
扉を開けずに声を掛けるが、やはり無反応である。
(さては、昨日遅くまで本を読んでいたな…あの主人は)
スカイティアが寝坊する理由は、大抵それだ。部屋のあちこちに読みかけの本がある為、思いついた時に読むらしい。……たまに丸々一冊熟読して、身体を痛めるとかあったな。
「……失礼致します」
反応がないので、扉を開ける。何処も彼処も美しい家具で飾られた部屋の中でも、最も高価な価値が押し込められた一室である。
「……スカイティア様?朝ですよ」
中央に据えられた大きな寝台に近づき、主人であるスカイティアを探す。多量のクッションと複数ある毛布が溢れる広い寝台の中から主人の身体を探すのは結構困難であったりする。……この寝台、広すぎないか。
「……スカイティア様?何処ですか」
毎度思うが、殆ど毎日彼を起こす此方の身にもなって欲しい。見つけたと思ったら、クッションの塊だったことが何度あったか。
寝台に向けて声を掛けるが、一向に反応がない。かと思えば、ガタン、と何かが落ちる音がした。隣の長椅子から重ねられた本が落ちたらしい。ヒカルは溜息を一つ落とした。
「……で、最終的に此方ですか」
長椅子の背凭れから覗き込めば、部屋の主はそこにいた。本を読んでいて寝落ちしたのだろう。
艶やか黒髪が、白い顔を隠す。馬場に出るようになってから多少日焼けもしたが、まだクラウディア達のように定着はしていないらしい。……元々が色白だった分、色づいたとは言えるのだろうけど。
横にはなっているが、どうせ今日一日は身体に痛みを感じるのだろうな、と再度溜息を落とした。
「スカイティア様、朝ですよ」
「ん…」
「起きてくださーい」
スカイティアの身体を揺らして起こそうと試みるが、反応はいまいちだ。
(これはレーウィス殿を呼んできた方が良いかな…)
無理やり起こすのは忍びないが、このまま長椅子で寝ていては疲れも取れないし、却って身体に負荷を掛けるだろう。このまま起きてくれれば手っ取り早いのだが。
「……スカイティア様、朝ですよ。寝るなら、せめて寝台に行って下さい」
ダメもとで声を掛け続けるが、やはりスカイティアの反応は鈍い。二度身体を揺らすが、反応なし。
ヒカルは諦めて踵を返した。居間へと戻り、レーウィスにスカイティアが長椅子で眠っていることを告げると、彼は困ったように眉尻を下げた。
「……そうですか。せめて寝台に移動しましょう」
「そうですね…」
そう言えば意外に力持ちなんだよね、レーウィス殿。
再びスカイティアの寝室へと向かい、長椅子で寝転ぶ主人を二人掛かりで寝台に移動する。クッションを移動し、スカイティアに毛布を掛けて一息吐いた。
寝台で穏やかな寝息を発てているスカイティアは、何処か幸せそうな顔をしているように見えた。
(……寝ていると、子供みたい)
自分の年齢を棚に上げ、そう思ったことは秘密。
「スカイティア様はあと一時間くらい寝かせておきましょう。そのくらいになれば自然と眼も覚めるでしょうし」
「では、先に朝食にしますか」
居間に戻って相談した結果、テーブルに二人で向き合って朝食を頂くことに。主人抜きの食事なんて珍しいと思いながら、ふと夢に見た光景を思い出す。
「ヒカル、食が進みませんか?」
首を傾げるレーウィスに、ヒカルは首を振った。
ただ、思い出しただけ。食事に湯気が立っているなんて以前の生活で考えられないし、そもそも王宮の食事である以上は粗末なものは出る筈もないのだが、やはり夢見が悪い日ほどこういった環境の変化に感謝するのだ。
「こうして不自由なくて平穏な生活をしていると、此処に来られてよかったなぁ、とつくづく思います」
もし、あのまま奴隷商館にいたならば、こうして心穏やかに過ごすことなどできなかっただろう。夢見の悪さと目覚めた後のスカイティアの平穏な顔との落差に、今の幸福感が心身に染み渡る。
「急に、どうしました?」
ヒカルの台詞に、レーウィスは益々首を傾げた。唐突といえば唐突だっただろう。
「今更だと思いますけど……たまに夢に見るんです。過去のこととか」
「過去、ですか…」
途端に表情が暗くなるレーウィスに、何だか申し訳なくなる。しかし、話を無理やり切ったところで、すっぱり忘れてくれるような人でもない。
「今更どうしようもないことなのに……忘れることを咎められているような」
夢に見るのは、きっと罪悪感からだろう。彼に助けられたからこそ今があるのに、彼を忘れてのうのうと、幸福に包まれて生きている。
勿論、今ある幸福を手放す気などない。それこそ、助けてくれた彼を蔑ろにしているだろう。しかし、此処で様々な事件に関わっていても何かと優先順位をつけようとすることに抵抗がない程度には、階級社会に慣れてしまっているのだろう。
「気がかりなことが?」
「……幾つか」
この王宮に来た時、全身全霊で尖って見せた。子供故に抗う力などないからこそ、態度で大きく見せようとした。それが力なき者の精一杯の虚勢だ。
ルゼノの王宮に来る前、幾つかの屋敷を転々とした。どの屋敷でも味方と呼べる者は『奴隷』という立場にある者しかいなかった。屋敷の使用人は誰一人として、奴隷を顧みることは無かった。
そんな中でヒカルを庇って、屋敷から逃げる道を作ってくれたのは奴隷でも使用人でもない、屋敷の主の甥だった。
一度は彼に、救われた。それなのに囚われ、また売られた。何と情けなことか。
それからの生活でも、当然だが奴隷に救いの手を伸ばして貰えることは無く、信じられる者は己だけと思った。
彼を除いて、誰一人として救いの手を差し伸べてくれる者はいなかった。だから、王族や貴族という特権階級──弱者を虐げる側である身分──に属する者には二度と心を開くことはないと思っていた。
夢に出て来た彼の最期を覚えているからこそ、誰かに頼る心算はなく、脱出する為の時間稼ぎと利用することだけを考えていた。
──そうすれば、誰も傷つかないのだから。
「レーウィス殿は本当に優しいですよね。前にいた場所を思うと本当に信じられないくらい、俺は今幸福に包まれているんです。だからこそ、一時一時を大事にしていないと罰が当たりそうです」
二度と気を許すものか、と思ったのに。
彼以外に救いの手を伸ばしてくれることはなかったから、そんな奇跡は二度と起きないのだと思っていた。それなのに、奇跡は意外と起こるらしい。……いや、これで終わりかな。維持できなければ、即ジ・エンド的な。
「罰、ですか」
「えぇ…レーウィス殿は最初に俺のことを教えてくれって言ったじゃないですか。でも、俺は殆ど何も答えていない。正確には話せる内容など、なかったんですけど」
自身の過去の何を話しても、気分を害するような内容でしかない。レーウィスの様に心の優しい人間であれば猶更だ。彼のことを話したところで、レーウィスは「ヒカルのせいじゃない」と慰めてくれるだろう。しかし、それで消化できるものでもないし、慰められて赦されることを望んでいる訳でもない。
「俺は、そう綺麗な生き方をしていなんです。だから巡り巡って、今の幸福を掴めたのは本当に奇跡だと思います」
「ヒカル…」
綺麗な生き方なんて誰がしているのか、と思うけれど。誰しもが正真正銘まっさらに、嘘偽りもなく生きてる筈もない。今、目の前にいるレーウィスとて貴族階級で生きている以上、綺麗さっぱりとした生き方をしている訳でもない。
しかし、ヒカルの過去を誰しもが肯定する訳でもなく、また誰かに肯定されたいと思っている訳でもない。ただ、そうするしかなかった自分の不甲斐なさと、その立場に追いやった者達への復讐心は今も燻っているけれど。
しかし、今ある幸福を感謝するくらいには穢れきっていない心算だ。
「だから、これからも宜しくお願いします。レーウィス殿」
子供の分際で、立場も小姓モドキという決して高くないどころか下から数えた方が早い身分だとしても、できることと望まれることを精一杯やっていきたいと思う。
きっと、それは『居場所を見つけて』と彼が望んでくれたからこそ、自分でも足掻いて来られたのだ。二度と会うことのない彼への罪悪感はきっと何時までも消えないだろうけれど、それでも彼が望み、ヒカルが自ら掴んだ『居場所』があるならば、彼の想いを少しでも晴らせたのではないだろうか。
「此方こそ、宜しくお願い致します。ヒカル」
何処か困ったような表情を浮かべていたレーウィスが、漸く優しい笑みを浮かべてくれた。
きっと、レーウィスの中でもヒカルは虐げられてきた可哀相な子供かもしれないが、か弱く直ぐに折れる様な軟弱者でないことは、これまでの経緯から証明されているのだろう。……勿論、子供という年齢的に弱者扱いではあるだろうが。
「寧ろ、この部屋はヒカルがいないともう回らないので」
「そんなことは無いと思うけど…」
慮外なことを言われ、ヒカルは首を傾げた。
「いえ、恐らくですけど…」
「痛ーっ!!」
レーウィスの言葉を遮るように聞こえてきた、スカイティアの悲痛な叫び。
「……スカイティア様、落ちましたね」
「寝相が悪すぎませんか?」
先程まで長椅子で穏やかに寝ていたのに、何故その三倍は幅があろう寝台から落ちるのか。
二人は朝食を切り上げ、主人の寝室に向かった。……まぁ、案の定バリゲート代わりのクッションを乗り越えて、床に落ちた主人の姿があったのだが。




