夢現
『ティア、おいで』
低くも穏やかな声に呼ばれて駆け寄れば、大きな手が優しく頭に触れる。
黒いローブを纏った、顔は陰になって見えないけれど、その声と温かい手に安堵する。
『兄さん、ティア!』
白いローブを纏う女性が、手を振って呼んでいる。
男の人と手を繋いで、彼女の元へと足を進めた。彼女の腕に飛び込んだ瞬間、空を切る。そこに誰もいないことに気付いた。
──あぁ、そうだ。誰も、いないんだよ。
ふと気づけば、昔自分が引き籠っていた孤独な部屋に立っていた。
家具や調度品は揃っている。物理的には満ち足りた部屋なのに、何故か心の奥にぽっかりと穴が開いているように、何処か落ち着かない。
『ティア?』
誰かに、あの人達ではない誰かの声に、呼ばれた。
『スカイティア』
『スカイティア様!』
別の声が重なって聞こえた。振り返れば、人の影があった。
金色の髪を靡かせる青年二人と、女性が笑っていて。
赤い髪の青年は眉を顰めて「スカイティア!遅い!」と文句を言いつつ、つかつかと此方に向かってきて。
黒い髪の少年が、その赤髪の青年の後を追うように走って来て。
青年と少年に両手を引かれて、彼らの元へと自然と近づいた。
『──おはよう、スカイティア』
◆◇◆◇◆
「……おはようございます、スカイティア様」
朝、何時も朝食を摂る部屋にやって来た第三王子スカイティアの顔に、ヒカルは表情を顰めた。
「おはよう、ヒカル、レーウィス」
「おはようございます、スカイティア様」
何かを察したらしいレーウィスが、主と挨拶を交わして席に座らせると、早々に部屋を出て行った。
「どうか、した?」
何時もなら椅子に座らせて、朝食にする所である。しかし、今日はその前に必須事項があった。
きょとん、とした様子のスカイティアに、水を用意したヒカルはじっと主の顔を見つめた。
「鏡をご覧になりましたか?目が充血しておりますよ」
「え…?本当?」
見てないんかい。……目が兎のように真っ赤です。目が真っ赤じゃない兎もいるけどさ。というか、寧ろ赤い方が珍しいけど。あと、目の周辺が腫れています。どうしたんです?
レーウィスが早々に部屋を出て行ったのは、恐らく蒸したタオルを用意する為だ。目の充血は目の疲れや炎症がある為だろうから、兎に角、目を休める必要がある。
「何か、ありましたか?」
実を言うとヴァイス様の誘拐事件以降、気にはなっていたんですが。
ヴァイスがよく第三王子の宮殿付近に現れるようになったり──しかし、何故かスカイティアと顔を合わせることはない──、彼の後見のシュナイザー伯爵にお茶に誘われたりと──これは目的が不明──人間関係にやや変化が起きている中、スカイティアの方にもルゼノ王との接触があったりとしたようで、やや変化が起きている模様。
「うーん……夢を、見たんだ」
「夢、ですか」
それで泣いたんですか。感情移入したんですか。……まぁ、兎に角、ケアは必要ですよ。
「顔は見えないんだけど……俺を『ティア』って呼ぶ男の人と、女の人がいて……」
それは、記憶がないと仰っていたお母上様と、伯父上様でしょうか。随分と、急ですね。ルゼノ王と何か話されたのでしょうか。最近、お部屋にいないことが多いし。
「でも、彼女に向かって飛び込んだら、身体が擦り抜けたんだ。俺にはいる筈のない存在だって……そう思ったら、また誰かに呼ばれたんだ……そこに兄上達がいるんだもん、驚いたよ」
「左様でしたか」
泣く要素としては、やはりその顔の見えない男女への想いだろうか。
その夢に出て来た男女はスカイティアの母親と親族関係にある男性だと思われるが、何故今になって夢に出て来るのだろうか。……スカイティア様の心境に何か変化があったのかな。
「スカイティア様、此方を」
戻ってきたレーウィスから蒸しタオルを受け取って、スカイティアは腫れた目元に当てる。タオルで目を覆って、暫く動作を停止。
「……レーウィスはさ、俺の母親の話って聞いてる?」
「ユエ様からそれとなくは」
「そっか…」
何処か沈んだような、思い悩むような様子のスカイティアに、ヒカルはレーウィスを伺った。
「……ねぇ、ヒカル。君は全く記憶にない、母親を名乗る女性が訪ねて来て、一緒に帰ろうって言ったらどうする?」
「…また、唐突ですね」
「本当にね」
タオルを顔に当てたまま、スカイティアは苦笑する。
「……この間の事件の後、陛下から母親の話を聞いたんだ。俺が王宮に来た経緯とか」
苦笑したスカイティアからヒカルが聞いたのは、客観的に見えれば納得できるものだった。
その昔、王宮である事件──それも、スカイティアの母親と伯父、そして祖父に関わることらしい──が起こり、その復讐──報復というべきか──の為にスカイティアの母親と伯父は、スカイティアの父親であるルゼノ王に「迎えに来る」という約束をして子供を預けたということ。
そして、ルゼノ王はスカイティアの母親が迎えに来た時の為に、スカイティアが王宮から簡単に姿を消せるように隔離をする形にしたということ。
……ま、適切と言えば適切だよね、王宮の状態からすれば。でも、それってスカイティア様は知らなかったってことだよね。というか〈黒の予言者〉って、スカイティア様の伯父上だったんかい!吃驚だよ!
「陛下は、一度説明したから俺が理解したと思っていたみたいなんだけどね…」
「子供に同等の理解力を求めちゃ駄目でしょ」
当時は噛み砕いて話したのかもしれないが、それでも記憶にないくらい幼い頃の話らしい。
ルゼノ王が直接接触することはスカイティアの存在を強調することになる為、憚られたと言う。その代わりが、ユエによる庇護だったらしい。
子供に何を頼んでるのですか。いや、実際、物凄く有効みたいですけどね?ユエ様の有能さを見越して保護を頼んだんですか、陛下。自慢の息子ですものね。
しかし、ユエはスカイティアが隔離されることを王から説明されて理解しているという前提でやって来ていたらしい。始めの内こそは兄弟として問題なく過ごしていたが、幼いスカイティアは母親の存在や、自分の状況に対する疑問の答えを求めた、と。……まぁ、普通はそうだよね。
そして、スカイティア様は成長するにつれて『黒髪』故の扱いに関して納得しつつ、無気力になっていった、と。
一連の流れにやや齟齬が見られるが、この国としては当然の処置かとヒカルも納得した。いや、納得したくはないが、そういう流れならば誰もいない第三王子の宮殿の状況も理解できる。
いなくなることが前提で隔離されていたのであれば、人目を避けて最低限の人間の出入りだけにし、不急不要の外出を避ければ、スカイティアがいなくなろうとも、何時からいないのかも分からない状況になる。……いや、その存在すらも忘れられていくだろう。
「まぁ、今思えばね。だから、陛下も、ユエ兄上にちょっと苦言を言われていたよ」
「……あぁ、ユエ様なら容赦なく言えそうですものね」
ありありと浮かぶ光景に、ヒカルは失笑した。
第一王子の息子に小言を言われる、ルゼノ王の図……いえ、和みますよ。何というか、殺伐とした親子関係ではないご様子で。……本当に、何と言うか、俺が抱いた憎しみをとことん覆してくれますよね。
初めて参加した晩餐会の席では、まるで髪色の異なる息子との会話を避けるように、ユエとステラだけ声を掛けたルゼノ王に、ヒカルはこの上なく怒りと憎しみを覚えた。
ルゼノ王にとっては義務で為した子供である以上、彼に子への愛情を望むのはお門違いだと言われても、それでも『この王宮に愛された子供はいない』という言葉を否定して欲しかった。
……蓋を開けてみれば、どうやら不器用なだけの父親のようですがね。分かりづらいわ。
「……でも、俺は答えが出せていないんだ」
「そりゃ、今更というか…行き成り迎えに来られても困りますよね」
唐突なお迎え宣言にも、動揺するだろう。ルゼノ王からすれば一度話したことであっても、スカイティアが理解し、覚えているかは別の話だ。
事件についての詳しい話は聞いていないが、スカイティアの母親と伯父は何処の誰にどのような復讐を行っているのか。……というか、何時まで掛っているんだ、その報復に。
「うん…ユエ兄上も今すぐって話じゃないと仰っていたけど。それは今後の身の振り方を考えろって言われているんだと思う」
「身の振り方、ですか」
「このまま第三王子として過ごすならば何かしらの行動を示すべきだ。何時までも、ユエ兄上やステラ姉上の庇護の下にはいられない……かといって記憶にない、幾ら母親だと言われる女性でも素直に着いていく勇気は今の所ないしね」
そりゃ、今更ですしね。血の繋がりのあるだけの、赤の他人でしょう。というか、血の繋がりを盾にするクラウディア様の母親とか、実家の権力拡大の為に娘を大国に嫁がせようとするステラ様の母親とか、余り良い印象が無いですけど。
……まぁ、スカイティア様の場合は安全面を考えた結果、先の見えない留守番のような状況ですが……それでも面識のない母親にあっさりついて行けないですよね。
しかし、とヒカルは首を捻る。
「……以前は、外の世界を見たいと仰っていましたが」
「それは変わらないよ。ただ、その時に自分の身分がどうなるかで色々と変わるからね……それに、俺が何もせずに迎えが来るのを待つだけならば、ただ庇護者を変えるだけに過ぎない。俺は成長しないお荷物にしかならないよ」
成長したい、と。変わりたい、と思ったのだろう。それは必要なことだ。乗馬も大分上達し、馬場でなら一人で駆け足をするにも問題がない。
「スカイティア様が、成長したいとお望みならば、ユエ様やレーウィス殿も協力して下さると思いますよ」
「相談してみるよ…どちらにせよ、このままではいたくない」
スカイティアは微笑み、決意を固めた。以前からできることを模索していたが、母親の迎えで王宮から出るという選択肢を与えられた以上、立ち止まっていられないという現状が己をより震い立たせたのだろう。
「それでは、まずは朝食と致しましょうか」
「あぁ、そうだね」
「では、ご用意いたします」
スカイティアの決意表明に、レーウィスは嬉しそうだが、ちょっぴり寂しそうだ。
「……レーウィス殿は、弟離れできそうですか?」
「え…?」
「レーウィス殿にとって、スカイティア様は弟のような存在ではないかと」
朝食の用意の為、スカイティアから離れたところで、ヒカルはレーウィスに問い掛けた。
以前、この宮殿の外で彼は母親であるヘラーザと会っていた。彼女から聞いた話をレーウィスと確認した訳ではなかったが、レーウィスには弟がいた筈なのだ。子は『黒髪』で生まれたが為にいなかったことにされ、ヘラーザ自身は不貞を疑われて離縁することになった。
レーウィスにとって本来ならばいた筈の『黒髪』の弟と、友人の弟である『黒髪』のスカイティアを重ね合せているのではないかと思っていたのだが。
「……えぇ、そうですね。不敬かと存じますが」
何処か困ったように眉尻を下げるレーウィスに、ヒカルは笑う。そんなことが不敬だなんて、あの方達が思う訳ないのにさ。
「スカイティア様は喜びそうですけどね。あぁ、ユエ様もレーウィス殿だから任されたかと思いますけど、『僕達の弟』ってことで兄区分にレーウィス殿も入れているんじゃないですか?」
「……そうだといいのですが」
「え?自信がないのですか?」
あの無気力だったスカイティア様を、何年も甲斐甲斐しくお世話してきたのでしょう?凄いわ。
此処に来た初日から一週間を延々ループで見せられたら、俺、ノイローゼになりそう。いや、脱出方法が分からなくても逃げ出す算段を付けるくらいには、スカイティア様って根暗でしたよ?
そんな生活の中で見捨てなかったレーウィス殿に、どれだけ感謝していると思っているのですか。言葉にはしなかったかもしれませんけど、侍従どころか友人以上の存在でしょうに。
ふと、この王宮に来た頃を思い出して、ヒカルは更にレーウィスへの尊敬の念を高めた。
そもそも貴方を任命したのは、あの弟妹大好き・超が付くブラコンの長男様ですよ?あのユエ様から彼の宝ともいえる弟君を任された以上、信頼が厚くて当然じゃないですか。
「……ふふっ、そもそも自信だなんて考えてもみませんでしたよ」
「えー、そうですか?じゃあ、朝食の時にでも聞いてみますか!」
「え?」
感謝の言葉は相手がいる時にしか、伝えられないのですよ。
きっとレーウィス殿に対する言葉は沢山ありすぎて大変だろうけど、頑張ってね!スカイティア様。
驚くレーウィスの背中を押して、ヒカルはスカイティアの朝食を急いだ。
……ん?そうなると、また兄弟間で謝罪大会にならないだろうか。それは要らね!
はた、と思いついた不要案件を忘却の彼方に捨て去って、ヒカルはレーウィスとともに朝食を用意してスカイティアの元へと急いだのだった。




