夜を与えられた子の話
物心ついた時から、分かっていた。
幼い日の記憶の始まりが、絶望の始まりだった。
それでも救いを求めて走り回った。絶望から覗いた小さな光が破滅の光だとしても、それが己の救済であったことも、分かっていた。
「──あぁ、本当に。生きるのって、しんどい」
王弟の謀反が起こって、捕縛して。関係者を一網打尽にした頃には、既に深夜であった。王城外にいたステラと二人の王子の帰還を確認し、残りは明日──というか夜が明けてから──となって一先ず解散した。
今回の事件ではユオも王弟の息子として裁かれる──連座の処罰を受ける──筈だった。勿論、現在の状況では纏まる話も纏まらないので、ユオの処遇は一端保留というのが正しいだろう。
自室に戻ったユオは何時もの寝床に潜り込む。あと何度この馴染んだ部屋で眠ることができるだろう、と苦笑して。
「……夜が明けたら、俺は陽の光の元にはいられないのになぁ」
悪夢に堕ちる。記憶の中にある、無邪気で純粋で、この国の穢れを知らない無垢な幼い日の自分を呪いたい。
夜を与えられた子。
決して夜が明けることのない、暗闇の世界の名を与えられた子は、まるで陽の光の下に出ることを望まれないかのように孤独だった。
──父上?
父の姿は何処にもなかった。暫くして帰ってきた父は、母が使うものではない香水の匂いと酒の臭いがこびりついていた。
──母上…?
母の姿は何処にもなかった。暫くして帰ってきた母は、花と茶葉の匂いと、何時も身に着けているよりも煌びやかなドレスと装飾を纏っていた。
二人が嗤う。お似合いだ。王弟夫妻という肩書で、この国の上位に君臨する両親は傍から見れば、仲の良い夫婦なのだろう。お互いの目的の為に、利害の一致で婚姻する家ばかりで、この両親だけが例外だなんて思う筈もなく、ただそれが普通なのだと納得した。
孤独な〈夜の子供〉は、それが普通なのだと思った。
父親というのは、何時も妻以外の女と酒に溺れながら、時に暴れたりして、自堕落に過ごす生き物で。
母親というのは、何時も化粧とドレスと様々な纏わせて、他の男を想って笑っている生き物で。
その間に生まれた子供は、ただ居ないモノのように扱われるのだと。……それが、当たり前なのだと思っていた。
何時の日か扉を開ければ、外へ出られることを知った。部屋という囲いの外には窓から見た青い空と白い雲と、そして青い海と緑の森と、他の部屋に繋がっている回廊があることを知った。
声が、聞こえた。父でも母でも、使用人と呼ばれる世話をする人間でもない、誰かの声だ。
影が、見えた。父や母のように大きくなく、犬や猫のように小さくもない、誰かの影だ。
自分以外の子供を知らなかったユオルディーラ──ユオは、それが何なのかよく分からなかった。
それは、金色の髪に青い瞳を持つ、自分によく似た姿をした少年だった。違うのは、瞳の色と、髪色の濃さ。違うと言えば違うが、何処となく自分に似た子供だった。
「誰?」
彼は問う。大きな空色の目をした彼は小首を傾げて、不思議そうにユオを見た。
「君こそ、誰?」
ユオは問う。深青色の瞳を瞬かせて、目の前の新しい生き物を興味深く観察した。
「僕は、ユエ。ユエルディーネ」
「俺は、ユオ。ユオルディーラ」
名乗り合って、名前が似ていると二人で笑う。初めて会った気がしないのは何処となく容姿と名前が似ていたからで、それ以上にはないと思っていた。
「ユエ?何処にいるの?」
何処からか、目の前の少年を呼ぶ声がする。優しくて暖かい声だ。
「誰?」
「僕の、母上。呼んでいるから行かなくちゃ。ユオ、またね!」
──君の、母上?
呼ばれている声に、ユエは嬉しそうに踵を返す。金色に輝く髪が、青い空に跳ねて輝きを増して。去り行くユエの後ろ姿の先を視線で追えば、両腕を広げた誰かがユエを抱き締めた。
誰かがユエを抱きしめて、抱き上げて。頭を撫でて、微笑みかける。他の誰かが声を掛ける。他の小さな生き物を抱いた誰かが、ユエに腕の中の何かを見せれば、ユエが笑う。その何かの頭を大事そうに撫でて、ユエ自身も誰かに頭を撫でて貰う。……その一瞬、その光景の一つ一つが脳裏に焼き付く。
──何を、してるの?
それが、子供に対する愛情表現だと誰かが言った。
それは、子供が無償で与えられる愛情だと誰かが言った。
──じゃあ、俺は何?
何時からか胸の中にあった得体の知れない何かが、ずっと胸の辺りを締め付けている。
寂しいなんて、知らない。──それなら、どうして父と母を呼ぶの?
悲しいなんて、分からない。──それなら、誰もいないことを知った時に生まれる感情は何?
何も知らなければ答えの出なかった感情なのに、足を進めた先で会ったのは、古の神聖なる月と名付けられた『絶望』だった。当たり前のように両親から愛情を貰い、周囲から慕われ慈しまれる存在であり、自分とは掛け離れた『絶望』を突き付ける存在だった。
「……いいなぁ、ユエは」
ユエが愛され慈しまれるのは、彼が第一王子だったから、ということを知るまで、そう時間は掛からなかった。
ユエとは従兄弟という紹介をされて以降、将来の側近候補しての交流が続いた。勿論、表向きだけの交流だ。一緒のいるだけで『絶望』を突き付けられる存在の傍にいたいなどとは思わないし、きっとそれはユエにも伝わっていた。
だから、人目のある時以外は関わらないし、特別仲が良いと思わせるようなことはなかった。
けれど、それが寂しいのだと、悲しいのだと気づいてからは。
(嫌い、とは少し違う。憎い、とも違う。……きっと、ただ羨ましかっただけ)
己の中にある感情を理解して、少しずつ複雑な心境を説明できるようになってからは、ユエもユオの境遇について理解を示し、彼との距離も縮んだ気がした。
ユエのことは勿論、まるで自分の子のように頭を撫でてくれるルゼノ王とレノン王妃のことは大好きだった。「不出来な弟ですまない」と。「自分のことしか考えられない妹でごめんさない」と。まるで贖罪のように謝られることには何も言えなかったけれど、それでもユオに対して、甥としての愛情があるのだということは不思議と疑いがなくて、それでもいいかと思った。
「君みたいに両親から愛されていたら、どれだけ幸福だろうね」
「両親…?」
「え?」
不意に鋭くなった視線に、ユエの中の、奥深くにある開けてはいけない何かに触れたことを感じた。
「……あぁ、うん。そうだね。陛下も王妃様も、愛情深い方だから」
ユエは何もなかったように笑う。けれど、何もないことなどありえない。
「……何時からだっけ?」
「何が?」
「ユエが、あの方達を父上とも母上とも呼ばなくなったのは」
ずっと前から気付いてはいた。しかし、それは王族教育が始まったから、私的な場以外では『陛下』と『王妃様』と呼ぶようにしたのだろう、と思っていた。
「嫌な所で鋭いよね、ユオは」
「そりゃあ、聡明と名高い第一王子ユエルディーネ殿下の側近候補ですから?」
「あぁ、そうだったね。助かっているよ」
他の貴族の子息が側近候補として押し掛けるように名乗りを上げて来るから、ある意味、基準というかユオに並ぶ能力を持つ者を推挙させるようにしていた。どちらかというと、ユオは身体能力で存在を示している分、知識分野ではユエに及ばない。
だから、側近候補にユオに並ぶは身体能力かユエに追随するような知識量など、現段階で比べられる特技で上位に入る者と交流をすることになっているのだ。他は、基本的にユエが気に入るかどうか、とか。そういう性格の兼ね合いもある分、一概に能力値評価とは言えないが。
「それから、子供に愛情を注ぐということができない…いや、知らないのかな?そんな両親から愛されようと、馬鹿みたいに必死だった子供ですから」
もう、それに関しては諦めた。あれらは愛憎以前にユオに対して無関心なのだから、無から有を作り出すような、長期間的かつ超重量の労力を割くのは割に合わないと判断した。……諦められるくらい、くだらないことなのだ。
(だって、そんなことをしなくても愛情をくれる人達がいるって知ったし…)
伯父に当たるルゼノ王と、それに加えて従兄妹のユエとステラがいる。何もなかったところから、沢山になった愛情を、これ以上増やそうとしなくたって事足りる。
「…馬鹿じゃないよ」
「ん?」
「親から愛されたいと思うのは、馬鹿なことじゃない…!」
珍しくもユエの思い切った否定に、ユオは目を瞬かせた。
「どしたの、ユエ……あぁ、ごめん。そうだな。君の弟妹も頑張って…」
まだ十歳にも満たなかった頃だが、この王族貴族の階級で、寧ろユエのように両親から形以上に愛される方が珍しいのだと知って脱力した。だから、必死に母親からの関心を得ようとする弟妹を見てきたユエにとって、その行動が馬鹿だというのは弟妹を否定するのと同義なのだと理解して謝罪する。
「違う!…いや、違わないけど!君がしていることは、確かに、あれらには無駄だけど!」
「どっちなの…」
「だから…ユオはね、僕の弟でいいと思う!兄でも可!」
「話が飛んでませんか、ユエ様」
従兄弟と兄弟では血統が違うのだが。誕生日的には確かにユエの方が数日早く生まれているが、身長的にはユオの方が大きいか。……いや、何故そうなった。
(王弟夫妻への毛嫌いが尋常でないのは分かっていたけど)
王弟夫妻は表向き大人しくしているが、裏で虎視眈々とルゼノ王の地位を狙っていることには気が付いていた。とはいえ、ユオが何もしなくてもルゼノ王の配下が動いているし、精々ユオができるのは無知を装って、あれらを誘導するだけだ。
「あのさ、俺はきっとこれからも君とは会うだろうけど、側近にはならないからね?」
「……あれが理由?」
ユオの前だと不快さを隠さないユエの言わんとしているところを理解して、ユオは肯定する。
「勿論…俺がお前の側近に収まったら、調子に乗るだろう。今はあくまでも他の候補を選別する為だけにいるんだから」
「…その前に潰せればいいんだけどね」
「はは、流石、既に政に関わる王子様だ」
「……ユオ」
「何、第一王子様」
茶化すように肩を竦めれば、何時になく真摯な面持ちでユオを見据える空色の双眸があった。
「君は、僕が何者であっても友人でいてくれるかい?」
「……どういうこと?」
何者であっても?彼は、第一王子ユエルディーネ殿下。それ以外の何者だと言うのだろうか。
「僕が、君の従兄弟でなかったとしても」
「何、それ」
意味が分からなかった。それでも今にも泣きだしそうな顔をしたユエが、何かを重いものを抱え込んでいることだけは分かった。
人前で泣くことなんて無かったのに。第一王子だから、と。一番上の兄だから、と。弟妹の手本であろうとする姿だけを見せてきたのに、同じ年で従兄弟のユオと、特例で一番年の近い妹のステラの前だけで弱さを吐き出す。
あの第一王子に頼られることへの優越感はあった。兄弟のいないユオにとって、ユエとの関係はそれこそ兄弟のようなもので、すぐ下の妹であるステラと一緒に相談することは年を重ねるごとに増えていった。
それでも、語られたのは思いもよらぬ事柄で。
ユエから語られた彼の出生の秘密は余りにも根が深く、また彼の存在そのものを揺るがすことであって。
嘗て、ユエが人知れず泣いていたところを見た。今よりも小さく幼い少年が、この国の秘密を抱えて生きることを、その秘密が罪であることを理解した上で贖罪の為に生き、その為には命を賭けると決めたというのだから、正しく彼には太古の昔から変わらぬ凜然たる夜空の月──ユエルディーネの名が相応しいと思うのだ。
レイビス公爵が仕出かしたこと。その騒ぎを収める為に王弟夫妻が仕出かしたこと。
それを利用して、ルゼノ王とレノン王妃を追い詰めようとしていたこと。
そしてレノン王妃は病死ではなく、レイビス公爵と王弟夫妻によって暗殺されたという噂があること。
──ねぇ、俺は存在することが罪なのでしょうか。
嘗て、自分には双子の兄弟がいたと聞いたことがある。
残念ながら生まれて直ぐ名付けることなく亡くなったと聞いた、とレイビス公爵家の侍女は言う。
生まれて直ぐに亡くなった子は『縁起が悪い』から何処かに捨てられたという噂があった、とレイビス公爵家の騎士は言う。
その『縁起の悪い子』の片割れだから、ユオ自身が〈忌み子〉のような扱いなのだ、と。
だから、王弟夫妻には『存在しない者』として扱われていたのではないか、と。
独り歩きした噂から、誰もがユオを哀れみつつも忌諱の目で腫物を扱うようにしていた、と。
事実が那辺にあれど、諦めて蓋をしていた感情の箱が開いた気がした。
何時かその時が来たなら、夜は明けて見せよう。夜が終わりを告げれば、朝が来る。それが世の摂理だ。
──ねぇ、その時に『残月』があったっていいでしょう?




