月の記憶2
「──マーシャンドが?」
ルゼノ王の元に隣国マーシャンドがルゼノの国境付近に出兵しているという知らせを齎したのは、他でもない情報屋を兼ねているルイだった。
「あぁ、先日マーシャンドとの国境近くにいる知人から聞いたんだ。国境に複数の、おおよそ一般人とは思えない人影が見かけられたと」
「それで、陛下が?」
ルイから持たされた情報を元に、ルゼノ王は視察という名の出兵を行うらしい。
ユエとステラは久しくルイによる合同授業で今の情勢について聞き、興味深く耳を傾けていた。
「偵察にしては随分な人数だからね。それとなく近くの砦の騎士団と、そこの騎士の方からシュナイザー辺境伯に伝えて頂いたけど、直に見たいと仰ってね」
ルゼノ一の情報屋から齎されたのだから無下にはされないだろうし、加えて陛下が自ら国境視察に向かったならば、辺境伯も騎士団も一層隣国の動きを警戒するだろう。
「マーシャンドも、懲りぬ国ですね」
この隣国に対する印象が悪いせいで、ルゼノでは──ルイとレイの父親を主軸とする商人達も含めて──『黒髪』を持つ者へ忌避感が強いのだ。特に、マーシャンドに接しているシュナイザー辺境伯はそれはもう憎悪を抱き、目の敵にするほどである。
(……まぁ、こうしてルイ先生達が王宮に出入りしているんだから、まだ緩和された方なんだけど)
緩和政策の傾向にあるのは、ルゼノ王の父の代からだ。海運技術の向上から、大陸外の、更に遠方との貿易が盛んになり、外国にも多くの人種や民族がいること──色黒の肌や、黒に近い髪色、黒を貴色と定めた国など──から、容姿などによる差別を撤廃する動きがあった。
古き時代の固定観念から国の成長が阻害されることを、ルゼノ先王は苦悩し、民衆の意識改革を図っていたのだ。王城に一介の商人──忌避された歴史のある『黒髪』を持つ東洋系の血を引くルイとレイが出入りしていた理由も、先王が緩和政策の一環として取り計らう判断をしたことであったからである。
「あぁ、だからこそ陛下直々の視察なんだとさ…だが、何があるか分からないから暫く脱走は駄目だよ」
「……ステラと、約束したんですけどね。残念です」
「仕方ありませんわ、また今度に致しましょう」
物分かりの良い子供だった王子と王女は先生と慕うルイの言葉に素直に従い、ルゼノ王が城に戻り、懸念が払拭されるまで待つことにした。
けれど、思わぬ事態に発展した。
王が視察に赴いた国境で戦になった、という噂が流れ始めた頃だ。
「──『黒』は凶兆だ!」
「昨今の災害とて、その予兆だったのだ!我々を混乱させるために──!」
王城を蝕むように流れる『黒』への忌避感。緩和されていた筈の意識が──いや、内心に留めていただけで『黒』を纏う者を見下す意識は不変だったのだろうが──恐怖から再熱し、表に出始めた。
「『黒髪』を持つ商人が──!?」
「そんな不吉な塊など始末しろ!」
「マーシャンドの間諜が何処にいるやも知れん!!」
ただ容姿がマーシャンドにいる一部の民族と共通点があるというだけで、今まで城内に出入りしていた東洋系の『黒髪』の商人達が迫害されるに至った。
「──ごめん、約束を守れそうにない」
どれほど馬鹿馬鹿しい理由であろうと、恐慌状態における人間の心理状態は馬鹿にできない。
マーシャンドの間諜疑惑はユエ達の教育係のルイと侍女のレイにも向けられ、彼らは王城を離れざるを得なかった。
そう判断したルイ達を、ユエは見送るしかなかった。彼らは、この理不尽な言い掛かりが落ち着くまでは姿を隠すしかないのだ。この国の最高権力は国境の地にいて、まだ幼い、成人もしていない王子と王女では何もできないのだから。
「また、会おう」
「必ず戻ります」
ルイとレイが王城から姿を消した、その日の夜。ユオとステラと一緒にクラウディアを抱えて、同じ部屋に逃げ込むようにして時間を過ごした。勿論、王宮の最奥にいる三人に被害が及ぶことは無いが、それでも慌ただしく聞こえる足音や不穏な噂を口にする輩から離れたくて逃げ出した。
それは自発的な行動ではあったが、それから間もなくして警戒態勢が張られたらしく、部屋から出ることを禁じられた。それが、益々異常事態であることを知らしめる。
何もできない無力感と、理不尽な言いがかりと、それを否定する口論が、耳のずっと奥で鳴り響く。
幼いクラウディアをステラと二人で挟んで、鳴り止まない恐慌の嵐から目を背けるように目を閉じて、耳を塞いで逃げるように眠りに就いた。
夢だと思いたかった。何処からか聞こえた悲鳴も、彼らの去り際の後ろ姿も言葉も、全て悪い夢で。
目を覚ませば、変わらぬ日常があるのだと思いたかった。
悪夢を見たのだと言い聞かせながら眠り、その気分が悪くなる浅い眠りから目覚めたのは、まだ夜も明けない時刻だった。それでも静まり返っている王城に安堵して、ステラとクラウディアの穏やかな寝顔にほっと息を吐く。
二人を残して寝台を抜け出し、当時よく商人達が出入りしていた部屋──商談に使われていたのだろう部屋を──訪れた。もしかしたら、ルイ達が何もなかったように笑って迎えてくれるのではないかと淡い期待もしていた。
──結果は、儚くも裏切られたけれど。
ユエの目に映るのは、赤い血に染まった床に転がる肢体。髪色は勿論、『黒』だ。マーシャンドとの関係を疑われた商人の一人だったのだろう。
鼻を突く、鉄の臭い。血の臭いが生々しく現実を突きつける。しかし、妙に冷静だったのは、未だに夢現と区別が朧気だったからだろう。…ただ単に信じたくなかっただけかもしれないが。
「え…?」
それでも、昨夜の悲鳴も彼らが去る姿も全て現実だったのだと漠然と理解して、漸く音にならなった声が自分の耳に届いた。
昨夜、自分が無視を決め込んだ叫び声の主であろう床に転がる遺体が、何処か見覚えのある顔をしていた。
(確か、ルイ先生のお父上…?)
嘘だ、と音になったかも分からない呟きが波紋を広げるように記憶を呼び覚ます。
彼と初めて会った時のこと、ルイとレイと並ぶとよく似ていること。ルイとともに東方の知識をユエとステラに教えてくれたこと。
「どうして…」
此処に、と続く筈だった声は、小さく聞こえた声と部屋に向かってくるように感じた複数の気配に慌てて、姿を隠す。
「まったく、手間を掛けさせおって…」
「何人か取り逃がしましたが…」
「二度と此処に出入りしなければいい。兄上が帰る前に…!」
現れたのは王宮に勤める近衛騎士だった。そして、彼らを先導して指示するのは叔父である王弟だ。
その瞬間、理解した。国境での噂を流したのも、『黒』を不吉と叫んで彼らを迫害したのも。
(すべて、王弟の仕業…)
どうして、と声に出しかけて思い止まる。此処で見つかってはいけない。仮に、此処にいたのが王族の護衛である〈影〉でも、王城内はユエの庭だ。簡単に逃げ切れる。
「さっさと片付けを。あの者達は皆マーシャンドの諜報員だった、と」
「しかし…」
「兄上がいない今、指揮権を持つのは私だ!それに…兄上も戻られるかどうか…」
壁伝いに聞こえる会話が、商人達への迫害が、ルゼノ王の指示ではないことを知らしめる。当然だ。
ルイとレイから父親を奪った。そして、ユエとステラからルイを、クラウディアからレイを奪った。
その全ての元凶が、この壁の向こうにいる。
「──ユエ」
潜められながらも凛とした声が鼓膜を揺らす。怒りに震える拳を抑えて顔を上げれば、そこには自分と同じ年の、よく似た顔をした少年──王弟子息ユオルディーラの姿があった。
「ユオ…」
「まだ、駄目だ」
「分かっている」
この王宮の中に巣食い、王を狙う輩が──王弟が筆頭ではあるが──多過ぎる。まだ幼い自分達では、目の前の敵を狩りとることもできず、守りたいものを守りきる力もない。
窓から見える、まだ暗い夜空を恨めしく思う。
ユエとユオ。『月』と『夜』を意味する名を付けられた二人にとって、今は心地よい時間になりはしない。
「──ルゼノ王陛下が御帰還いたしました…!」
それでも明けない夜がないことを、ルゼノ王が教えてくれたから、今の宵闇も怖くない。
描いた未来を確実に進めるために、今は静かに力を付けて待つ。
無力な正義感を振り翳す真似はしない。勝算のない勝負はしない。
──何度も書き連ね、推敲した物語だ。決して、間違いがあってはならない。
ユエの書いた物語は、もう少しで終わる。その先の書き手はステラに移り変わって、また書き綴られるだろう。
過去を振り返れば振り返る程に、ユエの腸が煮えくり返ることばかり。
それでも王弟がこの王宮でそれなりの配下を持ち、その存在を示しているのは偏に、ルゼノ王のアキレス腱があるからだった。
ユエは燃え盛る離宮を見据えた。漆黒の闇の中で、金色の焔に包まれた離宮は嘗て無い程に輝いている。ルゼノで何より美しいとされている色だ。
──確かに美しい…まぁ、遠巻きに見ればね。
最初の爆破地点は、王弟一派が隠れていた拠点だ。王城外で密会し、武器を溜め込んでいたならば派手なやり方は抑えたが、王城内で、しかも王弟一派しかいない建物ならば壊れてしまっても構わない。寧ろ拠点に容赦などするべきではない。
轟く悲鳴や怒号の一言一言がはっきりと聞こえなくとも、耳に届く声色で大体の想像は付いた。
ユエは眉一つ動かさず、横目で窓の外を捉えていた。表情に出さないが、ユエがその瞳に宿すのは軽蔑や嘲りを通り越した哀れみであった。
ふと足を止め、それを真っ直ぐに捉えた。レーウィスもユエに倣い、足を止めた。深青色の双眸が映すのは外を見つめるユエである。離宮を見据えたユエは呆れか、疲労か溜め息を一つ落とした。
「……最後まで嘘を吐き続けるって、悲しいなぁ」
ぎゅっと握り締められた外套に皺が寄り、小さく震える肩が短くなっても尚、煌めく金糸を揺らした。
幼い頃に嫌悪を抱いた『金色の髪』は二十年近く経った今でも自身の側で輝いている。自身の目に映らない程度に切り捨てた心算だが、視界の隅にそれを捉えた瞬間、握り潰したい衝動に駆られて、ふっと息を吐く。
大丈夫、今頃マーシャンドを上手く追い詰めているならば、多少なりとも可能性はある。
その可能性を、ただの夢に過ぎない希望だけで終わらせないでくれる、賢く優しい共犯者達もいる。
ユエは真っ直ぐに顔を上げた。動き出したのだから、立ち止まることも躊躇することも許されない。
あの子達が自由に生きられるように。そして、あの方が、あの学者を友に選び、あの女性を愛したことを間違いだと思わないように。
ユエが見据える先には、彼自身が描いた物語の結末が待っている。




