月の記憶
ルゼノ王宮の一角に金色の髪を持つ青年がいた。まるで散歩でもしているかのように、悠々と。その青年──ユエは何の躊躇もなく、爆発音が響く回廊を進んでいた。その爆発音に交じって聞こえる怒号に、ユエは溜め息を一つ落とすと、何処か億劫そうに髪を掻き乱した。
目の前には、床一面に広がる赤い絨毯。それはまるで血に染まった嘗ての記憶を彷彿させ、ユエはハッと冷酷に笑う。血の色の絨毯に施された金の刺繍が、壁に掛けられたランプに照らされている。それはまるで道標の様に、ユエを回廊の奥へと誘った。
「──ユエ様」
ユエの耳に、不意に届いたのは数歩だけ後方を歩むレーウィスの声だった。ユエは足を止めて、彼の方へと踵を返す。
彼に示された先──薄暗い中に不確かな人影を確認した。足音が近付くに連れて、人影が鮮明に浮かび上がる。ユエはその瞳に『金髪』を捉え、微かに眉根を寄せたが、はっとした様に首を思い切り振った。
ユエは何もなかったように「さて、順調かな」とレーウィスとともに人影を待った。
「御揃いで」
闇の中で不鮮明だったその輪郭がはっきりとし、その影の正体──王弟子息ユオルディーラの『金髪』が煌めく。
「ユオ、手筈通りに事は進んでいるかな?」
「勿論、俺達に抜かりはないさ」
だが、とユオはユエを案じるように視線を向けた。
「後悔してないか?」
「後悔するなら終わってからかな」
ユエは肩を竦めた。肩に触れる程度に短く切り揃えられた金糸が闇に揺れ動く。
「ユオ様、今更、後戻りは出来ないのですから」
レーウィスに窘められ、ユオは「それもそうだな」と一言言うと姿を消した。闇の中に溶け込んだ彼を追い、ユエは微苦笑を浮かべた。
「ユオ様にも困ったものですね」
そんなレーウィスの呟きに「そうだね」と微笑んだユエは、徐に踵を返した。
王宮の外に目をやれば、人影を追い回す衛兵が目に付いた。槍を振り回し、数人の影を追っているが、その影は捕まりそうにない。ユエは微苦笑を浮かべ、後ろを歩くレーウィスを呼んだ。
「何時まで、僕達に付き合ってくれるの?」
レーウィスは予期していたかの様に「最期の最期まで」と答えた。
「君は本当に優しいね」
微笑んだユエに、レーウィスは首を振った。
「ユエ様は、嘗て御自身を利己的な人間だと仰いましたが、私こそが利己的な人間です……私は貴方のように誰かの為、と言うことにはできませんから」
悲しげな声音に紡がれた言葉がユエの耳に届くと、それに呼応する様に眉を下げた。ユエは頭に手を伸ばすと短くなった金髪を握り潰した。
闇夜に金糸が舞う。
瞳に映り込んだそれがユエを過去に誘った。
それは、妃の一人、カトリーナが懐妊した頃である。王宮に側妃が何人もいると言うことは珍しくなく、その妃達の子が沢山いることも珍しくない。
しかし、王位を継ぐ者はたった一人である。当然その地位を巡って、妃達の実家は争いを繰り広げる。
その中でも有力なのがレイビス公爵家から嫁いできた正妃レノンが儲けた第一子ユエルディーネである。髪色が金である故に、生まれながらに次期国王となることを確実視されていた。
しかし、それで三大公爵家の一角であるレイビス家が安心できる程、心穏やかに事が進む筈もない。同じく三大公爵家の一角であるミストリア公爵家の妃が生んだ第二子アルトステラは王女だったが、最後の一角であるシーザス公爵家のカトリーナが産む子が王子で、国王譲りの『金色の髪』ならば、王弟妃や彼女の実家が築き上げて来た地位が揺るがないとは限らない。
カトリーナの髪は『赤髪』だ。王弟妃と祖父は、カトリーナの元に生まれて来る子が女か、また赤髪であることをひたすら祈っていた。
ユエは幼いながらに、彼女らの名誉や地位に対する執着の恐ろしさを目の当たりにしていた。
「ユエルディーネ様!」
王弟妃が、ユエを呼んだ。日の光の中で輝く金糸を美しいと言うことを間違いだとは思わない。しかし、ユエは今の王弟妃を美しいとは思わなかった。
何時に無く、彼女は上機嫌だった。それが却ってユエには恐ろしかった。彼女の目がユエを真っ直ぐに捉え、か細く白い手がユエの肩を掴んだ。
「これで貴方様の地位が磐石なものになったのですよ!」
生まれて来た子供は『赤髪』の男児だと言う。カトリーナ妃に似たのだ。
この女の喜びは、カトリーナの怒りと失望、そして悲しみである。
「……そう、ですか」
ユエは素直に喜べなかった。
──髪色なんて、どうでもいいじゃないですか。
ユエには髪色で差別する意味が解らない。幼心に沸いた疑問は、ただの伝統という言葉で納得できるものではなかった。
──何故、生まれ着いた髪色で全てを決められなくてはならない?
この髪色は一体何だと言うのか。第二王子が『赤髪』で生まれたことで、ユエの中には『金色の髪』の価値を疑問視する思考が生まれていた。
──本物の金ではないのに、それに何の価値がある?
結局はただの髪に過ぎないのに、とユエは幼いながらに思った。しかし、目の前で感情の昂りを抑えることのない女とは不毛な論争になろうことは理解していたので、ユエは口は開かなかった。
「ふふっ…これで貴方が次期国王ですわ。私達レイビス家の為にも、立派な王に…!」
女の冷ややかな笑みに、ユエの背筋には何かが這い上がって来るような、嫌な感じがした。
昂った感情をそのままに踊るように踵を返した女の『金色』の髪がふらりと宙を舞う。瞳に映る金髪は輝いて見えるのに、ユエには酷く汚れたものに思えた。
「──僕が『金色の髪』の男でなかったら、僕は要らなかったのですか…?」
掠れたような、弱々しい声音が言葉を紡いだ。それを問う必要がないことを幼いながらに知っていた。
ユエは自身の『金色の髪』に触れた。目の端には煌めく金糸が映り込む。母親に似たのか、父親に似たのか、どちらでも変わらない髪色であるそれをユエは握り潰した。グシャリ、と髪が音を発てた。
「…こんな髪、いらない」
握り潰した髪が手から離れても、金色の髪は変わらずに輝いている。窓から射し込む日の光の中に煌めく金糸が目障りだ。
「…カトリーナ妃の『赤髪』に似た子か」
可哀想に、と感情のない声音が呟いた。
ユエの呟きを聞く者は誰一人いない。
髪色で差別するこの国に『赤髪』の王子が生まれ、その事実は忽ち王宮内に広がったかと思うと、止まることを知らないと言うように、城下へと広まった。
まだ物心つかない幼子の第二王子──後に髪色から『赤髪』の王子と呼ばれるルゼノ王の第三子は『クラウディア』と名付けられた。
「陛下の御立派な『金色の髪』を受け継がれなかったのね」
「後継は優秀なユエ様がいらっしゃる」
「そうだ、それも聡明なる王妃様の血を引かれているのだから」
王宮内の何処へ行っても、聞こえるのは生まれて来た異母弟の髪色の批判の声だった。表立って言う愚かな者はいないが、陰口とは嫌でも耳に入って来るものである。
「……そんなに『髪色』が大事ですか」
その王宮に第一子として誕生したユエの呟きは、日に日に多くなっていった。一人言を呟く度に、ユエは髪を握り潰した。それでも衰える事のない輝きが鬱陶しく、穢れたものに思えた。
「文句を言うなら『髪色』で妃を選べばいいのに」
ルゼノ王が認めたから側室になる女性には文句を言わない癖に──勿論、後宮の中では誹謗中傷はあるだろうが──、まだ生まれて間もない、王の子に対する非難は平気で口にする。
──弱い者虐めも、いいところだ。
クラウディアの母親、カトリーナ妃も同じだった。彼女自身の髪色を棚に上げ、まだ何も知らない子供に酷く冷淡に接し、またシーザス公爵家から付けられていた乳母や侍女も最低限の仕事だけを淡々とこなしているらしい。
「……狂ってる」
ユエは呟いた。誰にも聞かれない場所で、酷く冷めた表情で、ユエはこの国の人の醜さに憤る。ユエはその度に金髪を握り潰した。まるで、その髪が穢れたものであるかの様に、乱暴に掻きむしる。
幼いユエが心の中に宿したのは、人間の醜い感情に対する憎悪だった。
気が付けば、ユエはクラウディアの元を頻繁に訪れる様になっていた。
クラウディアの侍女──元は王妃付の侍女であった──レイは突然の辞令であったであろうに、生き生きとしてユエを出迎える。『金髪』の第一王子の来訪を喜ばしく思っていたのだろう。誰にも愛されない『赤髪』の王子の元に、『金髪』の異母兄が会いに来るのだ。彼女はクラウディアが独りでないと安堵した様だった。
──彼女が、クラウディアの母親であれば良かったのに。
ユエの思う所を彼女が知ることはないが、それでも彼女はこのままクラウディアに仕えてくれるだろう、とユエは幼いながらに思った。
「ユエ様」
名を呼ばれ、ユエは穏やかな笑みを浮かべた。
「やぁ、レイ。クラウディアは元気?」
「勿論ですわ」
レイは玩具で遊ぶクラウディアの方に身を返し、彼を呼んだ。
「さぁ、クラウディア様、兄上様がいらして下さいましたよ」
レイの心は美しい、とユエは思う。野心、嫉妬、陰謀、憎悪…負の感情を集めて押し込めた箱の様な場所でも、彼女の様な人はいるのだ。
クラウディアは母親譲りの深青色の目でユエを捉えると、小さな手をユエの『金髪』に伸ばした。
「きんきらきん」
深青色の目に『金糸』が映り込む。まだ話せる言葉が少なく、舌足らずな言葉遣いが幼さを引き立てる。
ユエの髪色を見て、大きな目を輝かせるクラウディアに、ユエは目を眇めた。
──その価値を知らない無垢な目が、何時か嫉妬に憎悪に塗れ、僕を捉えるのだろうか。
「……クラウディア」
ユエは『赤髪』に触れた。優しく頭を撫で、言葉を掛けた。
「大丈夫……僕がいるからね」
弟を守ると決めていた。まだ幼い妹のステラも、母親の歪さを知っていたからか既に冷めた目をするようになって、何時しか王女という枠に囚われることを嫌い、ユエと同じ道を好むようになっていた。寧ろ王妃や王妃親衛隊と影で呼ばれる妃達──訳アリで後宮に上がった妃達──と仲が良く、彼女の実母とはほぼ疎遠になっていた為、いっそ王妃の娘になればいいとすら思っている。
ステラは性別で、クラウディアは髪色で、その在り方を歪められかけている。現在進行形で全力で抗っているステラの成長と行動力は目を瞠るものがあり、ユエとは仲の良い兄妹であると同時に協力者であった。
ステラのようにクラウディアがこの国の在り方に抗うのかは不明だが、選択肢も齎されずに可能性を詰まれるなんて余りにも不条理だ。
(髪色で運命を決められるなんて、冗談じゃない)
ユエは決心の強さとは真逆の、優しい手付きでクラウディアの髪を撫でる。
「……また来るよ」
クラウディアに伸ばした手を離し、レイに挨拶してから部屋を後にした。
ユエは回廊を抜け、警備の目を盗み、城壁から降り立った。何時も通りに着地して、城下に目をやった時だった。
「──おや、僕の生徒は今日も脱走か」
ユエは声に驚き、振り返った。声を掛けて来たのは黒いローブを深く被った不審な青年だ。これでも王宮でユエとステラが師事する教育係であり、クラウディアの侍女レイの実兄なのである。
「ルイ先生」
空色の目を見開いたユエは直ぐに怪訝そうに眉を顰めた。何故、こうも行先を知っているんですか。
この不審な人物──教育係である、一応──ルイは城下町の情報屋でもある。彼の身形は常に黒いローブを深く被っており、顔は鼻から下しか見えない。誰もが、彼を情報屋と知り、何か情報が必要でない限りは近付こうとは思わないだろう。『不吉』とされる色を好んで纏うのだから、不気味がられるのも無理はない。
(まぁ、僕も陛下のご友人だと聞いた時は驚いたけど)
このローブの下にある髪色が、ローブと同じ色であることを知っている人はきっと僅かだ。彼が王城内で見せる闇夜の様な漆黒の髪と黒い瞳は艶やかで、何処か神秘的に映る。
「今日は何が目的かな?城下にも沢山知っておくべきことがあるからね」
生徒が城から脱走したというのに、ルイは笑うだけだ。課外授業という名のもとに、最初にユエとステラを脱走させたのはルイだから、というのもあるだろうが。
(…あ、ステラには後で文句を言われそうだ)
そう思いつつ、彼女を誘うことができなかったのもまた事実であった。兄王子の後を追う妹王女という光景は微笑ましがられていたが、それでもユエが剣を握ると彼女も真似すると聞いて、慌てて淑女教育を始めたことで、授業時間がずれてしまったのだ。
そればかりはどうしようもないと割り切ったが、その代わりに夜中にひっそりと部屋を行き来して寝るまで話をすることになっている。
王女教育の内容はユエが知っても役に立たないかと思いきや、ステラによる愚痴──ドレスやアクセサリー、ヒールの高い靴などの話──を聞いて、その重量や動き辛さから将来的に避けられない女性のエスコートに対する気遣いの必要性はよくわかった。
それはさて置き、この今夜の話題を作るべく、ユエは城下から臨む港へと視線を向けた。
「港に船がありますよね、貿易船。それに絡めて世界の話を。何時か、国外に留学することもあるでしょうし、先に知っておいて損はないでしょう?…欲を言えば、世界を回りたいのですが、夢ですかね」
「君も好きだね…好奇心旺盛なところは僕に似ている」
「知らないことばかりあっては世の中を渡っていけないって、仰ったのは貴方ですよね」
ユエの真っ直ぐな目に、ルイは微笑んだ。
何時だって、彼は王子ユエルディーネとしてではなく、ユエ個人として話を聞いていくれる。勿論、王子への教育ではあるが、ルイの言葉の一つ一つは王子へと向ける言葉ではない。そういうと、不敬に思われるだろうが、そうではなく王子への媚び諂いは皆無で、また王子が知るべきことではないと他の者ならば教授を省くであろう物事の裏まで教えてくれる。
──だから、彼らとはずっとこのままでいられると思っていたんだ。……あの事件が起こるまでは。
人の夢、と書いて「儚い」。
それは言い得て妙だと、ユエは失笑する。
人生で考えれば、ルイに夢を語っていたのはほんの少しの時間に過ぎない、儚いものだった、と彼がいなくなってからユエは思うのだ。




