第6話 帰宅後の2人 ーー龍弥sideーー
――辻 龍弥 side――
由紀の姿が見えなくなってからも、龍弥はしばらくその場を動けなかった。
頬に触れた指を離し、また触れる。
何度確かめても、先ほどの感触が戻ってくるわけではない。
それでも、つい手が伸びてしまった。
(……キス、されたんだよな)
思い返した途端、顔が熱くなる。
慌てて周囲を見回したが、こちらを気にしている人はいなかった。
龍弥は鞄を持ち直し、ようやくマンションへ向かった。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
一人になったところで、小さく息を吐いた。
(名前、呼んだだけだぞ……)
家族以外の同年代の女子を、下の名前で呼ぶ。
それだけでも、龍弥にとっては十分に勇気のいることだった。
嫌がられたらどうしよう。勘違いだったら、どう言い訳しよう。
そんなことまで考えて、ようやく口にした名前だったのだ。
まさか、その返事が頬へのキスだとは思わなかった。
(素敵なご褒美って……そういうことかよ)
最後に見た、由紀の赤い顔を思い出す。
あのときは自分のことで精いっぱいだった。
けれど、今振り返ると、彼女もずいぶん恥ずかしそうにしていた気がする。
由紀は、男性が怖かったと言っていた。
そんな彼女が、自分から近づいてくれた。
そう考えると、胸の奥がまた落ち着かなくなった。
*
部屋へ入り、鞄を下ろす。
誰もいない室内は、出かける前と何も変わっていなかった。
机の上の参考書も、読みかけの漫画も、朝のままだ。
それが、少し不思議だった。
自分には、信じられないようなことが起きたのに。
龍弥はベッドの端へ腰を下ろした。
由紀と一緒に帰ったこと。
勉強する約束をしたこと。
部活を見学するときには、教えてほしいと言われたこと。
一つずつ思い出していると、自然に口元が緩む。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面に表示されていたのは、妹の静からのメッセージだった。
『おにぃ、もう高校入って一か月だけど、友達できた? ちゃんと誰かと話してる?』
龍弥は、思わず苦笑した。
静からは、三日に一度くらいの頻度で連絡が来る。
用事があるときもあれば、今日食べたものや、学校であったことを一方的に送ってくるときもあった。
そして最後には、大抵、兄の学校生活を気にする言葉がついてくる。
これまでは、そのたびに似たような返事をしていた。
まだ、特に誰とも話していない。
友達と呼べる相手もいない。
家族にまで見栄を張っても仕方がないと思っていたが、送信するたび、少しだけ情けなくなった。
けれど、今日は違う。
龍弥は画面を見つめ、文字を打ち込んだ。
『聞いて驚け。兄ちゃんに彼女ができたぞ』
少し迷ってから、付け足す。
『しかも、すごい美少女』
送信すると、すぐに既読がついた。
龍弥は、返事を待った。
今度こそ、静を驚かせられる。
そう思っていたところへ、短い返信が届いた。
『は?』
続いて、もう一通。
『おにぃ、急にどうしたの?』
『どうしたも何も、そのままの意味だよ』
『この前まで、話す人もいないって言ってたじゃん』
『今日できたんだから仕方ないだろ』
しばらく、返信が途切れた。
驚きすぎて言葉も出ないのかもしれない。
龍弥が少し得意になりかけたところで、画面がまた動いた。
『……寂しくなって、そういう冗談言ってるんじゃないよね?』
『違うわ』
『私、今週の土曜日は予定ないよ。会いに行こうか?』
どうやら、まったく信じていないらしい。
『慰めてもらわなくても大丈夫だって』
『別に、それだけじゃないし。おにぃ、ちゃんとご飯食べてるか気になるし』
普段は兄に甘えてくるくせに、こういうときだけは世話を焼きたがる。
もっとも、一人暮らしを始めてから、心配をかけている自覚はあった。
『飯は食ってるよ』
『どうせ、スーパーのお惣菜ばっかりでしょ』
冷蔵庫の中を思い出し、龍弥は言葉に詰まった。
『……毎日じゃない』
『ほら。じゃあ、土曜日に行くね』
『彼女の話から、ずいぶんそれてないか?』
『だって、まだ信じられないんだもん』
龍弥は小さくため息をつく。
自分自身、まだ現実感がないのだから、静を責めることもできなかった。
『本当だって。同じクラスの子』
『……同じクラス?』
『うん。今日、話して。それで、いろいろあって』
『いろいろって何?』
詳しく説明しようとして、指が止まった。
席替えのあと、教室で言い間違えたことから話すべきだろうか。
それとも、先輩から助けたことか。
ただ、あの出来事には由紀の事情も関わっている。勝手に細かく話していいのか、わからなかった。
『長くなるから、そのうちな』
そう送ると、すぐに返事が来た。
『変なのに巻き込まれてるんじゃないよね?』
『巻き込まれたっていうか……』
『罰ゲームとかじゃない? そういうの、ちゃんと確かめた?』
龍弥の指が止まった。
画面の文字を、もう一度読む。
胸に残っていた温かさの中へ、小さな棘が入り込んだようだった。
『そんなんじゃないと思う』
打ってから、「と思う」を消そうか迷う。
その前に、静から次のメッセージが届いた。
『おにぃ、そんな簡単に人を信用しないでしょ』
『中学のときのこともあるし……心配なんだよ』
龍弥は、スマートフォンを持ったまま動きを止めた。
静が心配する理由は、わかっていた。
あの頃のことは、妹も知っている。
高校へ入ってからも人と距離を取っていた兄に、突然恋人ができたと言われたのだ。すぐに喜べなくても、不思議ではなかった。
けれど、その言葉を読んだ途端、忘れかけていたためらいが戻ってきた。
本当に、信じていいのだろうか。
そう考えてから、龍弥は眉を寄せた。
由紀の言葉にも、笑顔にも、嘘をついているようなところはなかった。
彼女は自分の気持ちを、きちんと伝えてくれた。
今日、知り合ったばかりだというだけで、それを疑うのは違う気がした。
むしろ、言えていないことがあるのは、自分の方だった。
*
友達になってください。
五時間目の席替えで隣になった由紀へ、本当は、そう伝えるつもりだった。
けれど、緊張して言葉を間違えた。
その結果、告白として受け取られ、気づけば由紀と付き合うことになっていた。
嬉しかった。
彼女に好かれているとわかったときも、名前を呼んで笑ってもらえたときも。
もっと話したいと思ったし、明日も一緒に帰りたい。
それは、間違いなく自分の気持ちだ。
ただ――。
(それが、好きってことなのか?)
龍弥には、まだわからなかった。
由紀はきれいだ。
笑ってくれると嬉しいし、近くにいると緊張する。
けれど、生まれて初めての恋人なのだ。何もかもが初めてで、どこまでが驚きで、どこからが恋なのか、うまく分けられなかった。
わからないまま、彼女の言葉にうなずいてしまった。
誤解を説明しようとしたのに、結局、言えなかった。
(……自分が嬉しいからって、それでいいのかよ)
由紀ががっかりする顔を見たくなかった。
せっかく近づけたのに、また離れてしまうのが怖かった。
そんな自分の都合も、確かにあった。
先輩は、由紀の気持ちを聞こうとしなかった。
自分は彼女の気持ちを聞いたくせに、その返事に必要なことを、まだ伝えていない。
同じことではない。
頭ではわかっていても、それで安心することはできなかった。
スマートフォンが震える。
『おにぃ?』
『怒った?』
『ごめん。いきなり罰ゲームとか言ったのは、言いすぎた』
龍弥は画面へ目を落とした。
静に悪気がないことくらい、わかっている。
ただ、すぐに返事をする気持ちにはなれなかった。
何を送れば、自分でも納得できるのだろう。
大丈夫だと、言い切っていいのか。
しばらく迷った末、短く打ち込む。
『怒ってない。心配してくれてありがとな』
続けて、もう一通。
『今日はちょっと疲れたから、また今度話す』
送信すると、間もなく返事が来た。
『うん。ちゃんと休んでね』
『土曜日は行くつもりだから。都合悪かったら教えて』
龍弥は、その文字を見つめた。
『わかった。土曜日な』
それだけ返して、スマートフォンを置いた。
*
冷蔵庫から惣菜を取り出し、ご飯と一緒に温める。
電子レンジの前で待っていると、静に言われたことを思い出した。
確かに、今日も惣菜だった。
いつもなら少し言い訳を考えるところだが、その日は、温まった皿を運ぶだけで精いっぱいだった。
夕食を済ませ、風呂に入る。
湯気の中で目を閉じると、教室で見た由紀の顔が浮かんだ。
付き合ってください、と言われたときの、緊張した表情。
帰り道で、楽しそうに話していた声。
最後に、名前で呼んでほしいと言った赤い顔。
思い出すたび、嬉しさと後ろめたさが交互に押し寄せた。
風呂から上がり、布団へ潜り込む。
枕元のスマートフォンを手に取り、そこで、由紀とはまだ連絡先も交換していないことに気づいた。
家の場所は知っている。
明日も、教室へ行けば隣にいる。
けれど、今、何かを伝えようとしても、その手段はなかった。
もっとも、連絡できたとして、何を送ればいいのかも決められなかっただろう。
龍弥は画面を消して、仰向けになった。
(……明日も、会うんだよな)
いつもなら、学校で誰とも話さずに終わることを考えていた。
今は、会いたい相手がいる。
その変化だけは、はっきりわかった。
けれど、明日彼女を前にしたとき、自分はちゃんと言葉にできるだろうか。
龍弥は頬へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
嬉しかったことまで、間違いにしたいわけではなかった。
それなのに、どうすればいいのかわからない。
答えの出ないまま、龍弥はゆっくり目を閉じた。




