第5話 その後の2人
「……本当に、俺でいいの?」
ようやく口から出たのは、そんな言葉だった。
目の前の高野さんが、不思議そうに首をかしげる。
「俺、さっき先輩に言われたとおり、ぼっちで陰キャだよ。高野さんとは、全然釣り合ってないと思うんだけど……」
『もう。私と付き合いたくて、告白してくれたんじゃないの?』
「そ、それは……」
『だったら、そんなにびっくりしないでよ。私まで恥ずかしくなるでしょう?』
そう言って、彼女は頬を染めながら笑った。
俺が今まで見てきた中で、一番きれいだと思う笑顔だった。
胸の奥が、落ち着かなくなる。
嬉しい。
それは、間違いなかった。
けれど、席替えのあと、隣に座った彼女へ伝えたかったのは、本当は――。
「あの、さっきの告白なんだけど……」
『うん?』
高野さんが、こちらを見上げる。
続きを待っている、その顔を見た途端、言葉が喉につかえた。
友達になってくださいと、言うつもりだった。
そう説明しなければならないのに、どう切り出せばいいのかわからない。
さっき自分で、だめじゃないと答えたばかりだ。それなのに今さら間違いだったと言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
「……いや、その」
『もしかして、まだ信じられない?』
「……うん」
それも、嘘ではなかった。
高野さんは少し困ったように笑い、それから、何かを思いついたように人さし指を立てた。
『じゃあ、まずは訂正からです』
「訂正?」
『さっきの龍弥くんの言葉に、二つあります』
俺は慌てて、自分の発言を思い返した。
ぼっち。陰キャ。釣り合っていない。
……二つどころではない気もする。
『まず、「俺なんか」って言いそうな言い方をしないこと』
「え?」
『私がいいって言ってるのに、龍弥くんが自分を悪く言ったら、私、困っちゃうよ』
彼女は立てていた指を下ろした。
『まだ、龍弥くんのことはほとんど知らないけど……今日知ったところだけでも、もっと一緒にいたいって思ったの』
まっすぐな言葉だった。
『だから、私が知らないところも教えてほしいし、私のことも知ってほしい。釣り合うかどうかは、そのあとで一緒に考えても遅くないでしょう?』
俺は、すぐには答えられなかった。
自分のことを、そんなふうに言ってもらった覚えがなかった。
「……ありがとう」
ようやく口にすると、高野さんの表情が少し和らぐ。
「俺、自分のことをよく思えないところがあって。たぶん、すぐには変えられないけど……そういう言い方、気をつけるよ」
『うん。それなら、よろしいです』
わざと少し偉そうに言われて、俺も小さく笑った。
「それで、もう一つは?」
『本当にわからない?』
「……ごめん。わからない」
先ほどから、失敗ばかりしている気がする。
俺が考え込んでいると、高野さんは楽しそうに目を細めた。
『じゃあ、今日、一緒に帰ってお別れするまでの宿題にします』
「宿題?」
『正解できたら、素敵なご褒美をあげましょう』
ご褒美。
その一言が、妙にはっきり耳に残った。
いったい、何をもらえるのだろう。
考えかけたところで、その前の言葉にも、とんでもない内容が含まれていたことに気づく。
「……待って。一緒に帰るって、俺と高野さんが?」
『ほかに誰がいるの?』
「いや、そうだけど……!」
当たり前のように返されて、頭が追いつかない。
高野さんの笑顔が、少しだけ曇った。
『……一緒に帰るの、困る?』
「困らない! 全然!」
思ったより大きな声が出た。
慌てて、少し声を落とす。
「むしろ、嬉しいです。……かなり」
『よかった』
彼女が、ほっとしたように笑う。
その顔を見ているだけで、また何を言えばいいのかわからなくなった。
*
帰る前に、入口近くへ広げたワックスを拭き取った。
高野さんが乾いた雑巾を持ってきてくれたので、俺が先に拭き、彼女にはそのあとを確認してもらう。
「そっちは滑らない?」
『うん。大丈夫だと思う』
最後に俺も靴底で慎重に確かめ、使った道具を片づけた。
それから、二人で職員室へ向かった。
先生を前にすると、教室で考えていた説明がうまくまとまらなかった。
先輩が高野さんを怒鳴っていたこと。
逃げたあとも追いかけてきたこと。
俺が床へワックスを広げ、先輩を転ばせたこと。
順番を確かめながら話すうちに、高野さんも隣から言葉を足してくれた。
録音を聞いてもらっている間は、二人とも黙っていた。
先生には、危ないことをしたと注意された。
俺はうなずき、頭を下げた。
そのうえで、先輩側にも事情を確認すること、また何かあったらすぐに知らせることを伝えられた。録音も消さずに残しておくよう言われた。
何もかもが、その場で終わったわけではない。
それでも、職員室を出たときには、教室にいたときより少しだけ息がしやすくなっていた。
『……一緒に来てくれて、ありがとう』
「俺も、関わったんだから」
そう答えると、高野さんは隣で小さくうなずいた。
*
靴箱へ向かう途中、何度も視線を感じた。
廊下に残っていた生徒や、部活動へ向かうらしい上級生が、俺たちを見ている。
高野さんに気づいて、それから隣の俺へ目を向ける。
そんな反応が続くと、どうしても背筋が固くなった。
さっき一人で帰ろうとしていたときには、誰にも気にされなかったのに。
隣の高野さんは、俺ほど周囲を気にしていない様子だった。
靴を履き替え、昇降口を出たところで、彼女がこちらを向く。
『ねえ、龍弥くんって、休日は何をしてるの?』
「休日?」
『うん。どこかに出かけたりする?』
「……あんまり。勉強したり、漫画を読んだりしてることが多いかな」
アニメも見る。
けれど、そこまで続ける前に、相手の反応をうかがってしまった。
趣味を聞かれただけなのに、どこまで話していいのかわからない。
『漫画、読むんだ。どんなの?』
「えっと、いろいろ。スポーツものとか……」
『私、詳しくないから、おすすめがあったら教えてね』
「あ、うん」
それなら、話してもよかったのだろうか。
そう考えているうちに、彼女は次の話題へ移っていた。
『それに、休日も勉強してるんだね。龍弥くんって、成績いいの?』
「悪くはないと思うけど……高野さんほどじゃないよ。入試、首席だったんだよね?」
『うん。でも、入ってからは友達と遊んでばっかりだから、そろそろちゃんと勉強しないと』
高野さんは少し苦笑し、それから顔を上げた。
『そうだ。もうすぐ中間試験でしょう? よかったら、一緒に勉強しない?』
「えっ、いいの?」
『私から誘ってるんだけど』
「そ、そうだった。……ぜひ、お願いします」
思わず敬語になると、高野さんが笑った。
一緒に帰るだけでも、まだ落ち着かない。
それなのに、次の約束までできてしまった。
忘れないようにしなければと考えてから、こんな約束を忘れられるはずがないと思い直す。
何をしていても、思い出してしまいそうだった。
「そういえば、高野さんの家って、どの辺?」
『小学校の近く。大きなスーパーがあるの、わかる?』
「ああ。俺も、そこ使ってる」
『その近くだよ。うちの前に、八階建てのマンションがあるんだけど』
「……もしかして、俺が住んでるところかも」
マンションの名前を伝えると、高野さんが目を丸くした。
『そう、そこ! 龍弥くん、あそこに住んでるの?』
「うん」
『すごいね。こんなに近かったんだ』
高野さんが嬉しそうに笑う。
『じゃあ、これからも一緒に帰れるね』
これからも。
その言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。
今日だけの話ではないらしい。
明日も、その次も。
学校が終わったら、高野さんと並んで帰る。
「……うん」
返事をするだけなのに、少し時間がかかった。
彼女が隣にいることに、まだ慣れない。
けれど、この道をまた一緒に歩けるのだと思うと、次の日の放課後が、少し楽しみになった。
*
『龍弥くんは、部活に入る予定ある?』
校門を離れてしばらくしたところで、高野さんが尋ねた。
「中学ではバスケをやってたから、高校でも……とは思ってた」
『そうなんだ。まだ見学はしてないの?』
「うん。何度か、体育館の前までは行ったんだけど」
中から聞こえるボールの音や、部員たちの声を思い出す。
「……一人だと、どうにも入りづらくて。そのまま帰ってた」
誰に声をかければいいのか。
途中から入って、練習を止めてしまわないか。
そんなことを考えているうちに、結局、扉を開けられなかった。
「高野さんは?」
『私は、入らないつもりだったんだけど……』
彼女が、少し考える。
『龍弥くんがバスケ部に入るなら、見学してみようかな』
「バスケ、やるの?」
『ううん。私、そんなに運動が得意じゃないから。マネージャーって、募集してるのかなと思って』
「マネージャー?」
『うん。前に、部活紹介で聞いた気がするんだ』
意外で、思わず彼女を見る。
高野さんは、少し照れたように笑った。
『最初は、どこへ行っても目立っちゃいそうで、迷ってたの。友達にも、いろいろ誘ってもらったんだけど』
その説明には、妙に納得してしまった。
彼女が見学へ来たと聞けば、それだけで人が集まりそうだ。
『でも、龍弥くんと一緒なら、行ってみたいなって』
「……俺に合わせなくても、いいんだよ?」
『合わせるだけだったら、言わないよ』
やわらかい声で返される。
『一緒にいられるのも嬉しいし、龍弥くんがバスケしてるところも見てみたい。でも、お仕事はちゃんと知ってから決める。邪魔しに行くわけにはいかないでしょう?』
「……そっか」
『だから、まずは見学。龍弥くんも、行くときは教えてくれる?』
「うん。まだ、いつ行くかは決めてないけど」
『決まったらでいいよ』
急かされなかったことに、少しほっとした。
俺一人だったら、また入口の前で迷うかもしれない。
それでも、高野さんと見学する約束があるなら、今度は中へ入れる気がした。
*
話しているうちに、見慣れたスーパーの看板が見えてきた。
もう、家の近くだ。
普段なら長くも短くも感じない道なのに、今日は妙に早かった。
マンションと、高野さんの家へ続く道の分かれ目で、二人そろって足を止める。
『もう、着いちゃったね』
「……うん」
高野さんも、少しだけ名残惜しそうに見えた。
そう思うのは、自分に都合よく考えすぎだろうか。
『あ、そうだ。宿題の答えは?』
「……あ」
完全に忘れていた。
「ごめん。高野さんと話すのに夢中で、考えてなかった」
『ふふっ。それなら、仕方ないかな』
彼女が楽しそうに笑う。
『でも、ご褒美はお預けです』
「……残念」
つい本音が漏れると、彼女はますますおかしそうに笑った。
『そんなに楽しみにしてたの?』
「いや、何なのか、気になって……」
『それは、正解してからのお楽しみ』
結局、教えてもらえなかった。
もう一度考えようとしたが、彼女が手を振る。
『じゃあ、また明日ね』
「あ、うん。また……」
言いかけて、ふと気づいた。
高野さんは、俺のことを名前で呼んでいる。
教室で、先輩へ向かって言ったときから。
俺はずっと、高野さんのままだ。
もしかして。
訂正するところが、もう一つあるというのは――。
『龍弥くん?』
立ち止まったままの俺を、高野さんが不思議そうに見ていた。
「……なんでもない」
違っていたら、どうしよう。
馴れ馴れしいと思われたら。
そんなことを考えてから、自分で自分に呆れそうになる。
付き合ってくださいと言われたばかりなのに、名前を呼ぶだけで、こんなに迷うのか。
高野さんが、もう一度手を振った。
『じゃあ、また明日』
「うん。……また明日、由紀さん」
言ってしまった。
途端に、心臓がうるさくなる。
彼女の手が、途中で止まった。
『……今、名前で呼んでくれた?』
「ご、ごめん。嫌だったら、戻すから」
『戻さなくていい!』
すぐに返事が返ってきた。
二人で少し驚いて、顔を見合わせる。
由紀さんの頬が、ゆっくり赤くなった。
『……宿題、正解です』
「じゃあ、もう一つって」
『うん。私だけ名前で呼んでるの、ちょっと寂しかったから』
そんなことを気にしてくれていたのか。
嬉しくなったのに、うまく言葉にできない。
俺が立ち尽くしていると、由紀さんが一歩近づいた。
『だから、ご褒美』
「え?」
彼女の指が、俺の袖にそっと触れる。
次の瞬間、頬にやわらかい感触があった。
ほんの一瞬だった。
顔を離した由紀さんが、真っ赤になって俺を見ている。
『……これからは、名前で呼んでね』
俺は、返事もできなかった。
彼女は照れたように笑い、もう一度だけ手を振る。
『また明日、龍弥くん!』
今度こそ、由紀さんは自分の家へ向かって歩き出した。
その後ろ姿を、俺はただ見送っていた。
角を曲がって見えなくなってから、ようやく自分の頬へ手を伸ばす。
指先で触れても、さっきの感触は戻ってこない。
それなのに、そこだけ妙に熱かった。
「……本当に?」
誰に聞くでもなく、つぶやいた。
返事はない。
ただ、最後に呼ばれた自分の名前が、いつまでも耳に残っていた。




