第4話 ぼっち陰キャと高野 由紀
高野を抱えたまま、龍弥は非常階段を駆け上がっていた。
目指すのは、先ほどまで自分がいた一年A組の教室だ。
腕の中の高野は、もう暴れてはいなかった。ただ、制服をつかむ指には、まだ強く力がこもっている。
突然抱き上げられて混乱しているのか。それとも、先輩に怒鳴られた恐怖が抜けていないのか。
確かめたいことはあったが、立ち止まる余裕はなかった。
「……揺れるけど、もう少しだけ我慢してくれ」
高野が、小さくうなずく。
下の方から、先輩の怒声が追いかけてきた。
「待ちやがれ! 逃げられると思うなよ!」
足音も聞こえる。しかし、目に入った砂がまだ痛むのか、その速度は龍弥よりも遅かった。
今なら、引き離せる。
教室へ駆け込むと、龍弥は高野を自分の席に下ろした。
「どこか、痛いところは?」
『……大丈夫』
かすれた声だった。
その返事に、ようやく少しだけ息をつく。
だが、廊下へ目を向けたところで、龍弥は唇を引き結んだ。
このまま職員室へ向かうか。
そう考えても、高野はまだ椅子の上で膝を寄せ、呼吸を整えている。もう一度抱えて走って、途中で追いつかれたら。
遠くで、先輩がまた何かを怒鳴った。
龍弥は教室の後ろへ目を向けた。
ゴールデンウィーク中の清掃に使ったのだろう。隅には、清掃用具とワックスの容器が残されている。
思いついた方法に、龍弥自身、少しためらった。
うまくいく保証などない。失敗すれば、相手を余計に怒らせるだけだ。
それでも、足音は近づいてくる。
「高野。少しだけ、そこにいてくれ」
龍弥は彼女の席から離れた、入口寄りの床へ薄くワックスを広げた。自分が立つ場所と、高野のいる窓側にはかからないようにする。
それからスマートフォンを取り出し、録音を始めた。
画面を伏せ、入口に近い机の上へ置く。
せめて、何を言われたのかだけでも残しておきたかった。
教室の入口へ顔を向けたところで、廊下の足音が止まった。
次の瞬間、扉が乱暴に開かれる。
「テメェ、よくもやってくれたな!」
先輩は目を赤くし、龍弥を睨みつけていた。
その視線が、奥にいる高野へ動く。
龍弥は二人の間に立った。
「高野には、もう近づかないでください」
「無関係のくせに、出しゃばってんじゃねえよ!」
「嫌がってたでしょう。さっきから、ずっと」
先輩の眉がつり上がる。
「俺が告白した時点で、そいつはもう俺のものなんだよ! お前に何がわかる!」
龍弥は一瞬、返す言葉を失った。
本気で言っているのだろうか。
高野が何を思っているかなど、最初から考えるつもりもないらしい。
「……告白しただけで、相手が自分のものになるんですか」
「ああ?」
「だったら、断る意味がないじゃないですか。先輩は高野の返事を聞きたかったんじゃなくて、言うことを聞かせたかっただけでしょう」
「生意気な口を利くな!」
怒鳴られ、肩が跳ねそうになる。
龍弥は、それをこらえた。
ここで目をそらしたら、先輩の視線はまた高野へ向く。
「振られた腹いせに怒鳴って、泣かせて。それで相手が好きになってくれると思ってるんですか」
「この、ぼっち陰キャが……!」
「それは、まあ、否定しませんけど」
声が震えなかったことに、自分で驚いた。
「高野が嫌がってることくらいは、俺でもわかりますよ」
先輩の顔が、みるみる赤くなる。
「もう絶対に許さねえ。親父に言って、お前ら二人とも高校生活を終わらせてやる!」
背後で、椅子が小さく鳴った。
高野が身をすくめたのだろう。
龍弥は振り返らず、先輩を見た。
「……結局、親に頼るんですね」
「テメェ!」
先輩が床を蹴った。
拳が振り上げられる。
わかっていても、怖かった。
龍弥は息を止め、乾いた床の上で一歩だけ身を引く。
その直後、先輩の足が滑った。
「なっ――!」
体勢を崩した先輩が、とっさに手をつく。鈍い音が響き、膝も床へ落ちた。
龍弥は、ほとんど反射的に動いていた。
滑る場所を避けて横へ回り、起き上がろうとした先輩の腕を背中側へ押さえる。
「っ、離せ!」
「また殴ろうとするでしょう!」
思わず、声が大きくなった。
先輩が身じろぎするたび、押さえる手にも力が入る。
けんかの経験など、ほとんどない。相手の方が体も大きい。こんな状態で、いつまでも押さえていられるとは思えなかった。
「暴れないでください。俺だって、こんなことしたくないんで……!」
「ふざけやがって……!」
先輩はなおも腕を動かしたが、すぐには立ち上がれなかった。
龍弥の額から、汗が落ちる。
うまくいった。
そう思うより先に、失敗した場合のことが頭に浮かんでいた。
足が滑らなければ。
振り上げられた拳が、そのまま顔へ飛んできていたら。
今さらになって、背筋が冷たくなった。
「……さっきの話、録音してあります」
龍弥は、机の上のスマートフォンへ目を向けた。
先輩の動きが止まる。
「は?」
「高野を自分のものだって言ったことも、親に言って俺たちの高校生活を終わらせるって言ったことも」
「お前……!」
「まだ録ってます。だから、これ以上はやめてください」
先輩は机を睨み、それから龍弥を見上げた。
先ほどまでとは、目つきが違っていた。
龍弥は呼吸を整える。
「手を離します。もう、殴りかからないでください」
すぐには返事がなかった。
やがて、先輩が小さく舌打ちする。
龍弥は腕を解放し、立ち上がって距離を取った。高野のいる方へは通さない位置を保つ。
先輩は床に座ったまま、押さえられていた腕をさすった。
その様子を見ながら、龍弥はスマートフォンを取り上げた。
録音を止め、少し前へ戻して再生する。
『俺が告白した時点で、そいつはもう俺のものなんだよ!』
教室に、先輩自身の声が響いた。
続いて流れたのは、親の力で二人を脅す言葉だった。
「……止めろ」
龍弥は再生を止めた。
聞き返した自分まで、嫌な気分になっていた。
「今日のことは、先生に説明します。この録音も聞いてもらいます」
「そんなもん、俺が親父に言えば――」
言いかけて、先輩が口を閉じた。
龍弥はスマートフォンを握り直した。
「俺も、家に話します」
相手の眉が動く。
「……綾瀬涼子って、知ってますよね」
「ニュースの……それがどうした」
「うちの母親です」
先輩が、ぽかんと口を開けた。
綾瀬涼子。
かつて全国放送にも出演し、現在は龍弥の地元を拠点に活動しているニュースキャスターだ。
仕事では旧姓を使っているが、本名は辻涼子。龍弥の母親である。
父の隆と結婚し、龍弥を産んだのを機に、隆の地元へ移り住んだ。
先輩の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
その変化に、龍弥は嫌でも気づいた。
高野が嫌がっていると言ったときには、聞こうともしなかった。
それなのに、母親の名前ひとつで黙るのか。
「……だからって、ニュースにするとか、そういう話じゃありません」
言いながら、自分も母親の名前を盾にしていることがわかった。
今は、ほかに相手を引かせる言葉が見つからなかった。
「ただ、親に言えば俺たちが黙るとは思わないでください。こっちも、一人で抱えるつもりはないので」
先輩は、何も答えなかった。
龍弥はそこで、高野へ顔を向ける。
彼女は椅子の上で、制服の裾を握っていた。
「……高野」
声をかけると、ゆっくり顔が上がった。
「先生に話すとき、俺も一緒に行く。それで、大丈夫かな」
高野は少し迷ってから、うなずいた。
『……うん。一緒に、来てほしい』
「わかった」
龍弥は返事をし、それから先輩を見た。
「あと、高野に何か言うことはないんですか」
先輩が唇を噛む。
しばらくして、低い声が落ちた。
「……悪かった」
高野は、すぐには答えなかった。
龍弥も何も言わず、待った。
やがて彼女が、椅子から立ち上がる。
『告白を断ったことを、謝るつもりはありません』
声は小さかった。
それでも、教室の中でははっきり聞こえた。
『私は、先輩とは付き合えません。これからも、その気持ちは変わりません』
先輩が顔をしかめる。
高野の指が、また制服を握った。
だが、今度は目を伏せなかった。
『だから、もう私に近づかないでください。龍弥くんにも、何もしないでください』
龍弥は、思わず彼女を見た。
自分のことまで、言ってくれるとは思わなかった。
それに、今。
名前で呼ばれたような。
「……わかったよ」
先輩が、吐き捨てるように答えた。
龍弥は意識を戻し、言葉を継ぐ。
「謝ったから、今日のことがなかったことになるわけじゃありません。先生には、このあと話します」
「わかったって言ってんだろ!」
先輩が立ち上がる。
龍弥は身構えたが、相手が拳を上げることはなかった。
制服についた埃を乱暴に払い、扉へ向かう。
途中で一度だけ振り返ったものの、何も言わずに教室を出ていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
聞こえなくなってからも、龍弥はしばらく入口を見ていた。
やがて、肩から力が抜ける。
「……はあ」
長い息が漏れた。
「怖かった……」
口にした途端、膝が少し頼りなくなった。
机の端へ手をつき、体を支える。
先輩の前では平気なふりをしていたが、心臓はまだうるさかった。
『龍弥くん……大丈夫?』
「うん。そっちは?」
『私も、大丈夫』
「そっか」
それだけで、少し安心した。
高野の顔を見ようとして、途中で目をそらす。
落ち着いてくると、今度は自分が口にした言葉が気になった。
「……ごめん。怖いところ、見せたな」
『え?』
「わざと怒らせたり、母さんの名前を出したり。あいつが黙ったとき、ちょっと、いい気分になった」
言ってから、唇を引き結んだ。
高野を助けたかった。
それは、本当だ。
けれど、途中からは自分の腹立たしさも混じっていた。相手が困る顔を見て、もっと言ってやりたいと思った瞬間もある。
「……あんまり、人のこと言えないな」
床へ目を落とす。
入口近くのワックスが、窓の光を受けて薄く光っていた。
これも、片づけなければならない。
誰かが踏めば、また転ぶ。
「先生のところへ行く前に、床だけ拭かせて。これ、俺がやったってことも説明するから」
清掃用具の方へ歩き出そうとしたとき、制服の裾が引かれた。
『……待って』
振り返ると、高野がすぐそばにいた。
龍弥は、足を止める。
『無茶だったとは、思う』
「……うん」
『転んだのが龍弥くんだったらって、途中で怖くなった』
その声を聞いて、龍弥は何も返せなくなった。
高野は、つかんでいた裾をそっと離す。
『でも、助けに来てくれて、嬉しかった』
彼女の目が、まっすぐこちらを見ていた。
『あの人に逆らったら、もっと怒らせるかもしれないって思って……私、何も言えなくなってたから』
「……そう、だったのか」
『うん。でも、龍弥くんが間に入ってくれて、一緒に先生のところへ行くって言ってくれたでしょう』
高野は一度、息をついた。
『だから、最後は私も言えたの。付き合えませんって』
龍弥は、先ほどの彼女の姿を思い出した。
制服を握りながら、それでも顔を上げていた。
あのときの声は、確かに震えていた。
けれど、言葉は最後まで途切れなかった。
『ありがとう。私の代わりに全部決めないで、ちゃんと話を聞いてくれて』
「……俺、そんな立派なこと、考えてなかったよ」
『それでも、聞いてくれたよ』
高野が、少しだけ笑う。
『だから、さっきの自分のことまで、全部悪く言わないで』
龍弥は視線を落とした。
何と答えればいいのか、わからなかった。
怒鳴られるよりも、こうしてまっすぐ感謝される方が、よほど返事に困る。
「……うん」
ようやく、それだけ口にした。
高野は、まだ龍弥を見ていた。
『私ね、男の人って、怖かったの』
小さな声に、龍弥は顔を上げる。
『勝手に近づいてきたり、断ったら怒ったり……。みんながそうじゃないって、頭ではわかってるんだけど』
彼女はそこで、少し言葉を探した。
『でも、龍弥くんに抱えてもらってるときは、途中から、怖くなくなった』
「……暴れてたけど」
『最初は、びっくりしたの!』
高野の頬が赤くなる。
『急に抱き上げるんだもん。顔も近いし……あんなの、初めてだったし』
「そ、それは、ごめん。とにかく離れた方がいいと思って」
『わかってるよ』
彼女はうつむき、それからもう一度顔を上げた。
『……だから、そのあと。龍弥くんが何かされる方が、怖くなった』
龍弥は、言葉を失った。
高野は自分の指先へ目を落とす。
『あの人に向かっていったときも、こっちに戻ってきてくれるまで、ずっと見てた』
教室の時計が、かちりと鳴った。
龍弥は落ち着かなくなり、机に置いた手を引っ込める。
高野が何を伝えようとしているのか。
少しだけ、わかりそうになっていた。
けれど、自分に都合よく受け取ってはいけない気がした。
『ねえ、龍弥くん』
「……はい」
なぜか敬語になった。
高野の口元が、わずかに緩む。
『さっきの告白の返事、まだしてなかったよね』
「……え?」
龍弥の思考が止まった。
告白。
その言葉を聞いて、五時間目の席替え直後、教室で口にした言葉が一気によみがえる。
隣の席になった高野へ、自己紹介をした。
そして、友達になりたいと言うつもりで――。
「あ、あれは、その……!」
慌てて口を開く。
しかし、続きを言う前に、高野が背筋を伸ばした。
彼女も緊張しているのか、両手を前で重ねている。
『私でよければ、付き合ってください』
「…………え?」
『助けてもらったお礼だから、とかじゃなくて』
高野は、言葉を選ぶように続けた。
『もっと、龍弥くんのことを知りたいの。私のことも、知ってほしい。……そう思ったから』
龍弥は、ただ彼女を見つめた。
頭の中で、いくつもの言葉がぶつかっていた。
待ってほしい。
自分は今、何を言われている?
高野が、俺と?
本当に?
『……だめ、かな』
「だ、だめじゃない!」
考えるより先に、声が出た。
高野が目を丸くする。
龍弥自身も驚いて、慌てて口元を押さえた。
教室に、短い沈黙が落ちる。
それから高野が、ほっとしたように笑った。
さっきまで、あれほど怯えていた彼女が。
今は、こちらを見て笑っている。
そのことが嬉しくて、龍弥はますます何を言えばいいのかわからなくなった。
『じゃあ……これから、よろしくお願いします』
「こ、こちらこそ……」
ぎこちなく頭を下げる。
高野も同じように頭を下げ、それがおかしかったのか、小さく吹き出した。
龍弥は、熱くなった顔を上げられなかった。
床を拭かなければ。
先生に事情も説明しなければならない。
やることは、まだ残っている。
それなのに今は、たったひとつのことで頭がいっぱいだった。
――俺に、彼女ができた。
友達になりたくてかけた言葉は、間違って伝わった。
その間違いを説明する言葉も、今はうまく出てこない。
ただ、目の前で嬉しそうにしている高野を見ていると、自分まで頬が緩みそうになる。
龍弥はそれをごまかすように、もう一度うつむいた。
……お母さん、お父さん、静。
本日、俺に人生初の彼女ができました。




