中編 決戦はアスファルトで
「ねえ早由希、あれって何の騒ぎなの?」
騒がしい教室の端っこで、私は友達に聞いてみた。
「さあ? どうせ男子達の遊びでしょ」
と、早由希はそっけなく返した。
「でも、みんな『見に行く』って言ってるよ」
すると、察したみたいな目を向けられた。
「……見に行きたいわけね。土屋が絡んでるから」
「いや…別にそういうわけじゃ―――」
「わかった、行こう。あたし星野に話聞いてくるから、待っといて」
「あ……うん」
ちゃんと返事もしてないのに、早由希は人混みの方へ行ってしまった。
―――土屋君……大丈夫かな。
本当は、話の内容を聞いていた。土屋君と森岡が、自転車で勝負するって。理由まではわからないけど、察しはつく。きっと、いや絶対に土屋君は、あのことを知って、あのことに怒ってる。
……どうしよう。
胸の内がざわついてきた。息が、何となく苦しい…。
私、土屋君にひどいことしちゃったかもしれない。私が、私が、森岡の話なんか無視しておけば……。どうしよう。今すぐに謝りに行く? でも火事みたいに騒ぎはどんどん大きくなってるし……。それに、森岡がまた変なことをするかもしれない……。どうしよう。私にできる、私がするべき行動はなんなの。いちばん正しい行動は、一体なんなの……。
「どした? 顔色悪いけど」
はっと我に帰った。吸う空気が冷たくなった気がした。
「今日の放課後に、土屋と森岡がチャリでレースするらしい。みんなはそれを見に行くんだってさ。柚葉は行くの? あたしはちょっと気になるから、暇つぶしに行こうと思うけど」
私は迷った。放課後に見に行くべきか、それとも今謝るべきか……。
「……迷ってるなら、行った方がいいと思う」
「……えっ」
「柚葉は多分、やっぱり自分も悪かった、今謝ったほうがいいかな、って考えてるんでしょ?」
小さく頷いた。どうしてわかったんだろう。
「だよね。柚葉ってそういう人だもん。いつも自分の行動に迷ってるよね」
「……確かに。でも、それじゃだめだよね…。優柔不断というか、迷ってたら、結局何もできないから…」
私が少しうつむくと、早由希はすかさず言った。
「それって、そんなにだめなこと?」
「えっ」
思わず顔を上げた。
「確かに、迷いすぎて何もできないのはだめ。でも、自分の行動に迷うってことは、それだけ自分の行動に責任持ってるってことじゃない?」
「責任……」
「そう。だから柚葉の行動はいつも誰かを救ってるんだよ。特に言葉は……土屋を救ってるんじゃないかな」
―――誰かを…土屋君を…救ってる。
少し心が明るくなった気がした。カーテンの隙間から日が差してきたみたいに。
「そう、なのかな…」
「うん。…それで、話は戻るけど、今謝るのはやめた方がいいとあたしは思う。もう騒ぎは止まんないよ。それに、約束した勝負がなくなったら、土屋のプライド的なところが傷つきそう」
「確かに……そうかもしれない」
「まあ、柚葉からしたら深刻なのはわかってるけど、見に行ったらおもしろいよ、多分」
おもしろい場面は想像できなかったけど、勝負を見てみたいと思う自分がいた。
「じゃあ…行く」
早由希はうんうんと頷いた。
「ここにしよ」
放課後、私達が来たのは歩道橋だった。
「どうしてここなの?」
「この下がゴール地点なんだってさ」
「そっかあ」
確かに橋の下を見ると、沢山の同級生がうろうろしたり、座り込んだりしていた。違うクラスの人もいた。
「ま、あいつらが来るまで暇だけどね」
早由希は橋の手すりにもたれかかった。私はその横に寄りかかって、まだぼんやりと明るい遠くの空を見つめた。
「星野、忙しそ」
「え?」
不意に、早由希は言った。
「ほら下見てよ。ずっと動き回って、いろんな人になんか説明してるじゃん」
「ほんとだね」
「今日の勝負、星野が運営してるらしい」
「運営って…おおげさな」
「でも大変なのに変わりないでしょ」
「たしかにね」
「はあ………」
10分くらい経っても、まだ土屋君の姿は見えなかった。この手すりに寄りかかってから何回ため息をついたか、覚えてない。
そんな私の姿を見かねたのか、 早由希は静かに言った。
「……気にしてんの? あの話」
「えっ。まあ…気にしてないって言ったら嘘になるけど…」
「まさか信じてないよね? 土屋はそんな人間じゃないし、そもそも、あの森岡の言うことだよ? 嘘に決まって―――」
「わかってる! そんなこと…。でも―――」
「でも?」
「もし本当だったらって、勝手に疑っちゃうの……! 本当はそんなこと考えたくないのに。それが嫌で嫌で、辛くて辛くて、仕方ないの……! だって私は――!」
「あ! 来たっぽい!」
・・・
7速フルスロットル、限界のさらにその先までペダルを漕ぎ倒し、とうとう最終ストレートに差し掛かった。少し先に見えるあの直角左コーナーを抜ければ、フィニッシュラインが待っている。
しかし、敵は僕の左側。僕はアウト側なのだ。この最終ストレート、ブレーキング、コーナリング、そして立ち上がり。その全てにおいて、わずかなミスが命取りになる。
正直、戦況は芳しくない。が、決して負けられない、負けたら一生の恥晒しであるこの勝負で極限の状況にいると、気が昂ってくる。アスファルトの凹凸をこの手でダイレクトに感じる。風を切る音が耳を覆う。心拍数が異常値を記録し、脳からアドレナリンがどばどばと溢れ出る……。この最高の瞬間を味わって、自転車を降りようと思う人間が、果たしていようか?
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。もうあのコーナーまで、20メートルしかない。しかし…! 依然として自分も相手も、ブレーキに手をかけようとしない。
残り15メートル。まずい……このままではギャラリー達に2人突っ込んで、大惨事だ……。
「諦めてもいいんだぜ?」
と、森岡はにやにやしながら言ってきた。が、明らかに焦りを感じていた。
「まだ諦めるには早いね」
切れる息を必死に繋ぎ合わせて、言い返した。
残り10メートル。相手がちらちらとこっちを見てくる。
「諦め時を逃すなよ」
余裕そうな言い方。きっと内心、止まれ止まれと叫んでいる。
「諦めるのはゴールを越えてからだ」
残り7メートル。自分と敵の息遣いが入り乱れて聞こえる。
残り5メートル。
「死にたいのか!?」
敵が叫ぶ。確かに死ぬ、このままでは。さあどうする…。前にもこんなことがあったっけ…。その時はどうしたっけ…。もう心臓が壊れそうだ。思い出せ思い出せ、早く…!
残り3メートル。
「本気で死ぬつもりか!?」
またもや相手は叫んだ気がした。ああ、うるさい…! 邪魔するな―――あっ!
『"あれ"をやるのはやめろ!』
『ドリフトをやめろ』
『いいと思うよ』
『怪我して欲しくない』
『怪我しないでね』
ドリフト―――もうこれしかない。すまない、アイルトン・セナ! 2つの約束は同時に果たせない! 三浦さん! 必ず無傷で還る―――!
残り1メートル。
「だあああああああ!!! もう間に合わねえぞ!」
激しいスキール音が左耳を貫く。
「突っ込んでくる! 逃げろ!」
残り0メートル。2人を思い浮かべながら左ブレーキをがっと引き込み、リアタイヤを急激にロックした……!
――リアタイヤがアスファルトを切り付ける……! 不安定だ……! でももう後には、引けない……!!!
全体重を左に投げ出して、身体が吹き飛びそうな勢いで猛スピードスライドを炸裂した―――!
・・・
「うおおおおおおお!!!」
「すげえええええええ!!!」
「滑った!!!」
同級生達が叫ぶ。私ははっと息を呑んだ。声が、出なかった。
あれが……『ドリフト』……。
凄まじい速度で横滑りしているはずなのに、私にはスローモーションに見えた。
―――神様お願いです。どうか……土屋君が怪我させないでください。どうか……無事にゴールさせてください。本当にお願いです。土屋君は、絶対に怪我しちゃだめな人なんです……!
心の中で必死に願った。周りの音が、何も聞こえなかった。
・・・
尖ったスキール音がギャラリーの耳を突き刺し、立ち上がりで自転車ががくりと揺れたが、立ち直った。僕は見事、極力速度を落とさずにコーナーを曲がり切ったのだった。
「土屋、ゴール――――ッ!!!」
フィニッシュラインを超えた。――勝った。どうやら、勝ったらしい―――。
アドレナリンに浸された脳はまだふわふわしていて、とても正気ではなかった。が、身体は本能的に動いていた。
何も言わず、喜びもせず、すぐ自転車を降りてその辺にいた誰かに預け、歓喜のあまり押し寄せてくるギャラリー達をかきわけながら、僕はただ、探した。
――いない。
ここには、いない。じゃあどこにいる? どこだ、どこにいるんだ……。
「陽一」
はっと振り返った。星野がいた。
「…星野……」
なんと言えばいいかわからなかった。
「何も言わなくていい。…探してるんだろ? あの橋の上にいるよ」
彼は右手に見える歩道橋を指差した。と同時に、森岡がフィニッシュラインを超えて来た。
「あいつのことは気にするな。みんなが何とかしてくれる。さあ早く! 行け!」
黙って頷いて、歩道橋の階段へ向かって駆け出した。
・・・
良かった。本当に、良かった。
不安でこわばっていた身体から、するすると力が抜けていく。まだ少し震えてる息をふうっとはいて、胸をさすった。
少し、目が熱い。
―――本当に良かった……。土屋君が、無事にゴールして……。
「……勝ったね、土屋」
「うん……勝ったね………」
土屋君は、きょろきょろと周りを見渡していた。何か探しているみたいだった。
「あ、あたし、下の様子見てくるから、待ってて。」
「えっ。わかった……」
急にどうしたんだろう?
階段を降りて、ゴール地点に向かう友達の姿を目で追っていたから、横から誰かが来ていることに気がつかなかった。
・・・
階段を上り切った。左を見た。
―――いた。
感情が歪んでしまいそうなほど、身体が、特に脚が悲鳴を上げていた。しかしそんなことはどうでも良かった。僕はただ一心に、橋の真ん中にいる人の方へ歩き続けた。
それなりに近づいたが、まだ気づいていない。
―――時間がない。
何の時間がないのかはわからなかったが、とにかくそんな予感がしたから、名前を呼んだ。
「三浦さん……!」
喉が乾燥しすぎて、まともに大きな声は出なかった。でも、ちゃんと気づいてくれたようだ。
「――あっ、土屋君…」
僕は橋の柵に寄りかかって、歩くのをやめた。乱れる呼吸を必死に整えながら、一生懸命に声を出した。
「……三浦さん……」
「どうしたの…? というか……大丈夫…?」
不安そうな目だった。
―――だめだ…心配させちゃいけない。
「大丈夫だから、心配しないで」
「そっか……。それで……どうしたの」
大きく息を吸って、潔く言った。
「あれは嘘だ」
少し喉が痛い。
「森岡が言ったことは、嘘だ」
心も、痛い。
三浦さんの目を見た。その目には、夕焼けがよくうつっている。まるで湖面にうつるみたいに。
「………ごめんね」
やがて、三浦さんは言った。
―――ごめんね……? どうして、三浦さんが謝るんだろう。
それを尋ねる前に、三浦さんは続けた。
「ごめんね。私、嘘だってわかってた。でも、土屋君と、距離を置いた……」
僕の両手を掴んだ。
「嫌だったの……辛かったの……。もし嘘じゃなかったらって、勝手に疑っちゃうのが……。疑ったまま土屋君と話して、複雑な気持ちになるのが……。ほんとに、辛かったの……。ごめんね、本当に、ごめんね……」
うつむいていて、顔が見えなかった。すすり泣く声だけが、ただ聞こえた。
―――だめだ……! なぜ三浦さんが謝らなければいけない? なぜ三浦さんが泣かなければいけない?
この状況に耐えられなかった。
「……謝らないで。泣かないで」
静かに、しかし力強く言った。
「三浦さんは、何も悪くない」
すると三浦さんは、途切れ途切れになりながら言った。
「……でも……私……疑って……」
すぐさま返した。
「疑うってことは、言われた言葉を信じてないってことなんだよ。嘘だってわかってるんだ。疑ってしまうのは仕方ないことなんだよ。感情は止められないから」
そして力と思いを込めて、言い切った。
「だから、三浦さんは悪くない」
三浦さんは、何も言わなかった。すすり泣く声は、もう聞こえなかった。ギャラリー達の話し声だけが、かすかに聞こえる。
少し経って、三浦さんは少し顔を上げて、呟いた。
「……また、話しかけてもいいかな……?」
深く頷いた。
「もちろん。僕も、また話したい」
三浦さんの目は、先ほどまで涙を流していたとは思えないくらいに、輝きを取り戻していて、希望の色に染まっている。
「ねえ……」
どうしたのと言わんばかりに、僕は首を傾げた。
「どうして、土屋君は本気だったの。あの勝負に」
「ああ……」
何と答えよう。何と答えればいいんだろう。……もうこの際、言ってしまおうか……?
迷っている途中のまま、口を開いてしまった。
「それは……」
身体に力が入る。
「……三浦さんが―――」
「あ、いたぞ!」
突然、後ろが騒がしくなった。驚いて、振り返って、その拍子に力が抜けてしまった。
「土屋と……三浦? なんで?」
「……陽一の様子がおかしい」
両手がするりと、三浦さんの手から滑り落ちる。空がだんだん、遠くなる。音がかすかに、聞こえる。そして頭が、ぼんやりする……。




