前編 信じがたい事実
20XX年、春―――。雲ひとつなく晴れ渡る水色の空の下、黄金色に照らされる葉をつけた木々に囲まれたグラウンドが広がっていた。風はさわさわと穏やかに吹き、小鳥が美しく交響曲を奏でている。
実に穏やかな、心落ち着く水曜日の昼下がりであった。ただ、1人の人間を除いて。
7速フルスロットル、とうに限界値は超過している。次の直角左コーナーまで残り約20メートル、それを抜ければフィニッシュライン…。しかし…! 依然として自分も相手もブレーキに手をかけたまま、その手を動かさない…。
残り15メートル。まずい…このままでは、2人して鉄柵にどかんで病院送り……。が、ここで減速すれば負ける…! 自分は7速マニュアル、しかし相手は6速マニュアル。コーナリングと立ち上がりでは、段数の少ない向こうの方がわずかに有利…。ゆえに、減速は決して許されない。
残り10メートル。相手がちらちらとこっちを見てくる。きっと内心、止まれ止まれ止まれと叫んでいる。しかし! それでも僕は減速などしない。
残り7メートル。相手の息遣いが荒くなる。
残り5メートル。「ばかな真似はやめろ!」という叫びが耳から耳を通り抜けた。心拍数が異常値を記録し始めた。
残り3メートル。「わかった! 俺の負けだ! だから"あれ"をやるのはやめろ!」とまたもや相手は叫んだような気がした。サドルから腰を上げた。
残り1メートル。「死んでも知らないぞ!」という言葉を最後に、相手は突然姿を消した。左ブレーキを掴んだ。
残り0メートル、渾身の力で左ブレーキをがっと引き込み、リアタイヤを急激にロック……! 全体重を左に投げ出して、自転車を猛スピードスライドさせた―――! 内臓が、ふわりと浮いた―――。
コーナーを抜けてふらつきながらも立て直し、7速から落とさないままフィニッシュラインを通過した。後ろを振り返ると、まだ砂埃が舞っていた。
「土屋陽一……!」
自転車の横に座り込んでいると、鬼の形相――と言ったら大袈裟だが――で友人が駆け寄ってきた。
「どうした、アイルトン・セナ!」
「その呼び方をやめろって、何回も言っただろ。お前は俺よりはやいのに。……とにかく、お前、もういい加減―――」
どうやら、星野悟は怒り狂っているらしい。まあ理由はわかりきっているが。
「『ドリフトをやめろ』って言いたいんだろう? わかってる。言われたのは今日で2週間と3日連続だからね」
「わかってるだと? 嘘言うな。なら今さっきのあれはなんだって言うんだ?」
「まごうことなき『ドリフト』だけど、何か?」
「何か? じゃない! お前…死にたいのか? もしお前があそこでブレーキをかけ損ねたり、ペダルから足を踏み外したりしていたら、今頃どうなっていたと思う?」
「まあ、ただ事ではすまないだろうね」
「それがわかってるなら、もうやめろ」
「それは叶わぬ願いだね」
「どうして…! 俺はなあ、お前に怪我して欲しくないんだよ! わかるか? 俺の、たった1人の友達を、そんな理由で失いたくないんだよ……」
沈黙が訪れた。僕はいつも、ドリフトはやめないの一点張りで、対する彼はいつもこう言う。言っていることはごもっともだ。それは理解している。彼の思いも、できれば踏みにじりたくない。しかしそれでも、僕はドリフトをやめない。というより、もうやめられない。1度このスリルを、内臓が浮くあの感覚を、脳から溢れ出すアドレナリンを、身をもって知ってしまった以上、もうやめることはできない。
20XX年、初夏―――。
「っていうことが毎回起きるんだ。これについて、どう思う?」
学校の教室で、僕は何人かの男友達に例のドリフトの話をしてみた。皆自転車に乗るのが好きだから。
「いやー、なんかどっちも悪くないんだよな」
「アイルトン・セナ――星野の言いたいこともわかるし、土屋の言いたいこともわからなくもない」
「まあなんだ、お前はとりあえず、最低限事故らないようにだけ注意したらいいんじゃないか?」
「なるほど」
どこか安心している自分がいた。皆ドリフトを否定しなかったから。1人を除いては。
「だっさ。何が楽しいんだよ」
1人は、ぼそっと、独り言のようにそうこぼした。一気に気分が悪くなった。
こいつは森岡という。僕がこの地球で最も嫌う人間だ。小学校の頃から鬱陶しいクズだとしか思ったことがない。具体的に言うときりがないから言わないが、本当に最低な奴なのだ。だから、厳密にはこいつは友達じゃない。
全員が黙り込み、僕はため息をついた。あーあ、空気が悪くなったよ。やっぱりこいつは―――
「今日も自転車の話? …って、なんか静かだね」
突然、後ろから1人の女子に話しかけられた。
「あっ、撤退だ、撤退!」
男友達はそそくさと去っていった。森岡はこちらを睨んでいる気がした。
「ね、聞いてる?」
「あ、うん。聞いてるよ。今日も自転車の話だ」
「そっかあ。なんか静かだったけど、もう話終わっちゃった?」
「多分」
「今日はどんな話してたの?」
向こうから男友達の視線を感じるが、かまわず続けた。
「今日は……あー……『ドリフト』って知ってる?」
「いいや、わかんない」
「えーっと、後ろタイヤにがっとブレーキをかけて、自転車を横滑りさせる走り方なんだけど…」
「それならなんとなく想像はできるよ。なんかすごそうな走り方だね。でもちょっと危ない気が……」
「そう、そこなんだよ」
僕は例の話をなるべく噛み砕きながら話した。言うのは少し気が引けたが、中途半端に会話を終わらせたくなかった。
「…なるほどね」
「この話、どう思う…?」
質問しておきながら、答えを聞くのが怖かった。もしも僕が薄情なやつ判定されたら、もう2度と自転車に乗れないほどショックを受けてしまうだろう。
「うーん、私はいいと思うよ。その『ドリフト』っていうの」
それを聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。
「でも…」
しかしそれも束の間、逆接の語句が心臓の真横を威嚇するように突き刺した。
「事故しないでね。ほんとに」
「えっ? ああ、うん、もちろん」
ほっ……。ジェットコースターぐらい感情の上下が激しかった。今は地にしっかりと足がついている。これほどまでに安心したのは、自転車で遠出した日に家に入ったとき以外で初めてだ。
「約束だよ。怪我したら怒っちゃうからね」
「約束するよ」
この言葉を聞き届けて、その女子は彼女の友達のところへ行った。それと同時に、男友達がにやにやしながら戻ってきた。森岡はあからさまに蔑むような目つきだった。
「おうおう、最近はどうよ?」
「どうって、何が…」
「はぐらかすなよお。いい感じじゃねえか、三浦と」
三浦というのは、先ほどの女子の名字だ。フルネームは三浦柚葉。
「ばか、どうもこうもないよ」
「そうか。まあがんばれよ。俺らは応援してるから」
「応援って…」
そう言いかけたところで、男友達はどこかへ行ってしまった。
応援…か…。本当の応援ととっていいのか、それとも冷やかしととるべきなのか…。というのも――まあここまでの文章で十分おわかりだろうが――、僕は三浦さんと仲良くしていたいと思っている。だから毎日ああして話しているわけだが、それを男友達はにやにやしながら見てきているのだ。いい奴ばかりなんだが、にしてもやり方が露骨すぎるとも思う……。
まあそれはそれとして、噂によると、どうやら三浦さんの方も僕と同じようなことを思っている"らしい"。あくまで、らしい、だ。確定ではない。が、そんな噂を聞いては、舞い上がらずにはいられない。ずっとこの幸福な時間が続くことを心から願うばかりだ。
しかしその願いは、叶わなかった―――。
20XX年、5月30日―――。今日僕は、思いがけず信じがたい事実を知らされた。
最近、日常に違和感を感じていた。三浦さんがいつもみたいに話しかけてこなくなったんだ。近くにいても、三浦さんが興味を持っている話題を誰かと話していても、一切話しかけてこなくなった。
一体何が起きているんだろう?
四六時中考えに考え抜いたさ。でも、これといって思い当たる節はなかった。理由もわからぬまま、ただただ寂しいだけの日々が過ぎていった。
しかし今日、事実を知った。いいや、知ってしまったんだ―――。
「おうおう、最近どうよ」
と、前みたいに男友達がにやにやしながら聞いてきたが、僕はそれほど明るく返せなかった。
「実は…最近めっきり話さなくなって…」
返答が予想外だったのか、男友達は、
「えっ…そうか…」
と、曖昧な反応を残して、去っていった。去り際に、気になる言葉が聞こえた気がした。
「残念だったな」
ぼそっとした声だったから、本当にこう言っていたはわからない。が、間違いなくこれは森岡の声だということはわかった。残念だったな、とは何か裏がありそうな言い方だ。まあでも―――
僕は森岡本人に何か尋ねることはしなかった。極力、あいつとは話したくなかった。
放課後、いつものように、星野と自転車で走りに行く約束をしていた。しかし――彼が来ない。もうとっくに約束の時間は過ぎている。彼が遅れることはあまりないのに、珍しい。何かあったのだろうか。
10分ほど経った頃だろうか。体勢の乱れた立ち漕ぎをして、必死にこちらへ向かってくる星野の姿が見えた。焦っているというか、異様に急いでいる風に見えた。
たちまち、彼はこう叫んだ。
「……陽一……! あいつが、あいつが……!」
ぜえぜえと荒い呼吸をしながら、僕の目の前に自転車を停めた。
「どうした、アイルトン・セナ。お前が遅刻するとは珍しい。一体何が―――」
「森岡が……!」
「森岡? 森岡がどうした」
「あいつが…三浦に…お前の悪口を…吹き込んだ…!」
「……はっ?」
地球の自転が止まったようだった。彼の言うことの意味が、全くもって理解できなかった。
「どういうことだよ?」
「だから…! 森岡が、三浦にお前の悪口を吹き込んだんだって! しかも内容は全部嘘ばっかりだ!」
「――えっ……」
木々のざわめきが段々とうるさくなってきた。
「冗談…だよな…」
「冗談じゃない!」
頭にマグマのように沸き立つ血が昇ってきた。
「嘘だ!」
「嘘じゃない!」
彼の即答ぶりに圧倒されて、へたりと座り込んでしまった。おかしい、頭に血は昇っているのに、なぜだか身体は力がひょろひょろと抜けてしまっている。
「嘘だ……嘘だと言ってくれよ……」
僕は信じたくなかった。森岡がクズなのは承知のことだった。でも、こちらの人間関係にまで邪魔をしてくるとは、思ってもみなかった。
「…あいつは…どんな嘘をついた」
捻り出せたのは低い声だった。
「……傷付かないでくれよ。お前が…あー…女子を…いじめてるっていう、馬鹿みたいな嘘だ」
はーっと怒りと呆れ混じりの息を呑んだ。そして大袈裟にため息をついた。
「僕は…何かあいつの気にさわるようなことをしたか…? 小学生の頃から散々迷惑をかけてきた挙句、またこんなおかしな真似をしでかしてる。むしろ怒りたいのはこっちの方なんだが」
「あいつは…お前を妬んでいたらしい」
「は? 妬む? あいつが僕を? そんな馬鹿なことってあるか! …というか、どうしてお前はそんな情報を持ってるんだ? もちろん疑ってるわけじゃないんだが…」
「…さっき森岡とすれ違ったんだ。俺もあいつは嫌いだから、何にも反応はせずに、シカトしようと思った。でもあいつが俺のところまで走ってきて、こう言ったんだ。『面白い話してやるよ』って。そこで俺は今さっき話したことを聞かされた」
「あいつ、頭が狂ってるんだな。わざわざそんな話を聞かせるとか」
「嫌な奴だよな。それで、話が終わったら、『土屋に言うかはお前次第。まあ言っても言わんくてもあいつはどうもできんと思うけどな』って抜かしたんだ。俺はその一言で我慢できなかった。かっとなって、あいつの両肩をがっしりと掴んだ。『土屋がお前に何をしたっていうんだ!』――あいつはこう答えた。『…うぜえんだよ。土屋と三浦が仲良くしてるのがな! 俺は三浦に振られた…。俺を振って、土屋と仲良くしてやがる。土屋も三浦も、両方うぜえんだよ! だから俺がぶち壊してやったのさ!』」
「腹いせに…か…」
「俺は必死に言葉を探したけど、怒りがヒートアップして、頭が回らなくなって、あいつの肩を揺さぶることしかできなかった。でも俺、力弱いからさ。『やめろ、気持ちわりい』って言われて、すぐ逃げられた。それに関しては…ごめん。本当はちゃんと話をつけたかったんだけど…」
「お前は悪くない。むしろありがとう、事実を伝えてくれて……」
僕は空を眺めた。澄んだ水色の向こうには、分厚い灰色の雲が漂っている。
「なあ…これからどうするんだ」
「どうする…とは?」
「三浦との関わり方とか、森岡と話をつけるかとか」
「ああ…とりあえず、森岡か三浦さん本人から何か言われるまでは、別段何もしないでおくとするよ。お前が僕に伝えたって森岡が知ったら、また変な真似を起こすかもしれないし。できるだけ、お前をこの厄介事に巻き込みたくない」
「…わかった。…でもやっぱり助けが欲しかったら、いつでも言ってくれよ。友達なんだから」
「…恩に着るよ」
結論こそ出たが、内心は、怒りと悲しみを抑えきれていなかった。今すぐにでも三浦さんに弁明したいし、森岡を殴り飛ばしたい。でも、そんなことをしてはかえって厄介になるだけ。それはわかっている。わかっているが、何か行動しないと、きっと一生この傷は癒えないだろう。
夕方、星野と別れた後も、何か、何かできたらいいのにと強く祈るばかりだった。
しかし、転機は意外にも早く訪れた。
もはや行く意味がほとんどなくなってしまった学校への足取りは、まるで足かせを引きずっているかのように重かった。気づけば何回何十回とため息をついていて、脳内は三浦さんと森岡のことで一杯一杯だった。
教室はなんとなく居心地が悪い気がした。休み時間はできるだけ廊下で過ごした。授業にはあまり集中できなかった。
気分が晴れないままぐずぐずと過ごし、気づけば昼休みがやってきていた。……いつも男友達と自転車の話をして、そして三浦さんが会話に入ってくる時間。しかし僕は、1人淋しく、自分の席にぽつんと座っている。
「おい、星野から聞いたか?」
後ろから突然話しかけられた。ぼそっとした声だった。僕ははっとして振り返った。
「森岡……。聞いたかって…何を?」
森岡は下品な微笑を浮かべた。
「聞いてねえか。なら言ってやるよ」
「早く、言ってみろ」
「お前、最近三浦と喋れてねえよな? その原因、俺だから」
森岡はふふんと鼻で笑った。
「…というと?」
僕は平常心を保ちながら尋ねた。
「星野に聞けばいい。あいつは知ってるからな。まあでも言っとくなら…復讐として、三浦に悪口を言っといてやったぞ。もちろん、お前のな」
僕はやっぱり我慢できなかった。がたんと音を立てながら、椅子が倒れそうな勢いで立ち上がった。今日最初のしゃきっとした動作だった。
「ふざけるな……!」
思いのほか声が大きくなってしまった。教室中から注目を浴びた。
「復讐だと? 僕はお前に何かしたか?」
「ああしたとも! うぜえんだよ、お前が! 三浦と仲良くしやがって…。俺はあいつに振られたんだ…。俺を振って、お前なんかと仲良くしてる。お前も三浦も、俺はうざくてしょうがねえ。だからぶち壊してやったのさ!」
教室中がどよめいた。こそこそと話す雑音が耳に流れ込んでくる。
「ふざけるな……! 復讐と言ったか…。他人を陥れて関係を破壊する。それが復讐か? そんな姑息な真似が? 小学生となんら変わらない。いつまでそんな真似をするつもりだ、みっともない!」
森岡は僕の胸ぐらを掴んだ。
「じゃあ喧嘩するのかよ?」
本当に喧嘩が起こるのではないかと、教室中の人が固唾を飲んだだろう。しかし僕は冷静に、森岡の腕を掴み返して言った。
「…無謀だ。暴力で争うような人間じゃない。それはお互いわかってるだろう。もっと、『らしい』やり方がある」
「…なんだ、言ってみやがれ!」
「……自転車で決着をつけよう」
「……自転車……だと?」
「お互いに慣れていてノウハウも知っている自転車なら、フェアだろう?」
「……おもしれえ。条件を言ってみろ」
「お前が負けたら、お前の言ったことは嘘だと、あの人に言え。そして謝罪しろ。もちろん、僕にも。そして……お前が勝ったら、僕はこの件から一切手を引こう。文句も何も言わないと約束する。お前が勝ったとしたらの話だが」
「悪くねえ……。その勝負、受けて立とうじゃねえか!」
そこで、どっと歓声が起こった。
「見に行くぜ」
「俺は陽一に賭ける!」
「勝負はいつだ」
皆口々に言いたいことを叫ぶ中僕は、「星野!」と名を呼んだ。少し経って、彼は人混みをかきわけながらやって来た。
「俺に何か手伝えることが?」
「ある。さっきの話は聞いていたよな。今日の放課後、決着をつける。だから、コースレイアウトを考えて欲しい。そして聞いての通り大勢ギャラリーが来るだろうから、皆を取り仕切って欲しい。…任せても良いか?」
星野は深く頷いた。
「もちろん。大事な友達の頼みだ。最善を尽くすよ」
「…ありがとう。恩に着るよ」
「いいんだよ。ああでも、引き受ける代わりに…」
「代わりに?」
「……勝てよ、絶対」
星野とは思えないほど、真剣な声色だった。僕は力強く返した。
「ああ、もちろんだ」
その言葉を聞き届けて頷いた彼は、人混みの前に立ち、大声で話し始めた。
「みんな、聞いてくれ!」
その傍らで、僕は教室を出た。
「アスファルトで会おう」
と、森岡に言い残して。




