第9話「婚約はこちらから、破棄したい」
搦め手が駄目なら、正面突破だ。
わたしは正式に謁見を願い出て、国王陛下の執務室へ通された。重厚な樫の机積み上がった書類、古い羊皮紙とインクの厳かな匂い。壁には歴代の王の肖像が並び、こちらを見下ろしている。
婚約の解消は、本来当人同士の問題ではない。王家と公爵家の、政治の問題だ。ならば、頂点に直訴する。これ以上、確実な方法はない。
リオネル本人に何を言っても、ご褒美に変換される。なら本人を飛び越して、外堀から埋める。婚約は陛下のご裁可で決まったのだから、陛下のご裁可で覆せるはずだ。理屈は通っている。あとは感情で押し切られないように、政治の言葉だけで淡々と。
わたしは膝の上でこぶしを握って、心を決めた。
「陛下。本日は、折り入ってお願いがございます」
わたしは深く頭を下げ、声を引き締めた。
「王太子殿下との婚約を、解消していただきたく存じます。わたくしは、殿下にふさわしくありません。どうか、この縁談の白紙を」
国王陛下はリオネルによく似た銀の髪に、貫禄をひとさじ加えたような方だった。書類から顔を上げしばらくわたしを眺めて、それから——豪快に笑った。
「ふさわしくない、か。はっはっ。おもしろいことを言う」
「笑い事では」
「いや、すまんすまん。だがな、ヴァルモア嬢。わしは、そなたほど王太子妃にふさわしい娘を、ほかに知らんよ」
話がまったく通じない。これは息子だけの病気じゃなかった。一族郎党、同じ翻訳機を積んでいるらしい。
「陛下。客観的に見て、わたくしは王太子妃にふさわしくありません。気性は激しく、可愛げもなく――」
「リオネルは、そなたのそういうところが好きらしいぞ」
「……どこを見て、そう」
「『セリーヌ嬢は、私が階段で転んでも手を貸さず、自分で立てと笑う。媚びぬ。最高だ』と、目を輝かせて報告してきおった。あの子の手紙、月に三通は、そなたの話だ」
月に三通。国政の合間に、あの王太子は、いったい何をしているのか。国の未来より、わたしの扇の角度。臣民が知ったら、卒倒するに違いない。あるいは、もう薄々気づいていて、見ないふりをしているのか。どちらにせよ、平和な国だ。
「リオネルが、自分から望んだ縁談なのだ。知っておったか」
わたしは口をつぐんだ。
「あれは昔から、何でもそつなくこなす子でな。剣も学問も、礼儀作法も、教えればすぐに身につけた。だが、何ひとつ、自分から『欲しい』と言わん子でもあった。欲しいものも、好きなものも、ない。からっぽの、よくできた人形のようでな」
陛下の声から、笑いが引いた。
「それが、あるときから変わった。突然、わしのところへ来て、言うのだ。『婚約者は、ヴァルモア家のセリーヌ嬢がいい』と。あの子が、生まれて初めて、自分から何かを欲しがった。──だから、わしは許した。理由など、どうでもよかった」
胸の奥がことりと鳴った。
リオネルが自分から。わたしを。
でも、おかしい。わたしたちが初めて言葉を交わしたのは、婚約が決まった後のはずだ。それより前に、リオネルがわたしの何を知っていたというのか。なぜ、わたしを選んだのか。
「陛下。殿下は、いつ、それを」
「さあて。三年ほど前だったか。あの子は、理由は話さんかった。ただ、妙に確信した目をしておったよ。何か、あの子だけが知っている事情が、あるのかもしれんな」
陛下は肖像画の並ぶ壁をちらりと見上げた。
「わしらの一族は、代々、感情を表に出さんよう躾けられる。王とは、そういうものだとな。リオネルは、その教えの、最高傑作だった。笑顔も、所作も、全部完璧に作り物だった。──そなたの前でだけ、あれは、地金を出す。生身の人間に、なるのだ」
三年前。あの紫の花を咲かせ始めたのと同じ頃だ。点と点がまだ線にならないまま、頭の中でばらばらと散らばっている。
「ともかく」
陛下はぽんと膝を打った。
「婚約解消は、認めん。そなたが来てから、リオネルは人間らしくなった。あれを、また人形に戻すわけにはいかんのでな。これは、父としての、わがままだ」
「陛下。では、せめて、理由を伺わせてください。殿下が、なぜ三年も前に、わたくしを」
「それは、本人に聞け。わしの口からは言えん。──いや、わしも、半分しか知らんのだ」
半分。リオネルもいつか半分だけ話す、と言った。この親子は、揃って肝心なところを伏せる。
「ひとつだけ、教えてやろう」
陛下は声を低めた。
「あの子は、こう言ったのだ。『あの人を選ばなければ、僕はきっと、僕でなくなる』とな。十五の子どもが言う台詞では、なかったよ」
僕でなくなる。その言葉の重さをうまく掴めないまま、胸の底に沈めるしかなかった。
完敗だ。最高権力者に、にこやかにはねつけられた。
退出の礼をして扉へ向かうわたしの背に、陛下がふと付け足した。
「ヴァルモア嬢。ひとつ、忠告だ。あの子を振り払うなら、覚悟しておけよ。あの子は、欲しいものを手放す術を知らずに育った。手放し方を知らん者ほど、いざとなったとき、何をしでかすかわからんものでな」
笑い混じりの声だった。けれど最後のひと言だけは、妙に芯があった。
「……肝に、銘じます」
わたしはもう一度深く頭を下げて、執務室を出た。
長い回廊を歩きながら、わたしは考え込む。
婚約破棄は、また失敗した。それはいい。何度でも挑む。けれどそれより、もっと気にかかることができてしまった。
リオネルは三年前、わたしの何を知って、わたしを選んだのか。
わたしは前世の記憶で、この世界の筋書きを知っている。知っているつもりだった。でも『王太子が自分から悪役令嬢を望む』なんて展開は、ゲームのどこにもない。
ゲームのリオネルは悪役令嬢に冷たく、ヒロインだけを見つめる完璧な攻略対象。わたしの知っている筋書きでは、彼がわたしを『欲しい』なんて言うはずがない。
なのに現実の彼は三年も前からわたしを選び、わたしを推し、逃げ道さえ案じている。
わたしはこの物語の筋書きを、本当に知っているのだろうか。それとも——知っているつもりで、いちばん大事なページを最初から見落としていたのだろうか。
(あの人、わたしの知らないことを、知っている?)
回廊の窓の外で、庭の木々がざわりと揺れた。
なんだか足元の確かだったはずの地面が、少しだけ傾いた気がした。
次話:「その秘密、誰にも言ってない」




