第10話「その秘密、誰にも言ってない」
三年前。リオネルが自分からわたしを望んだ。
その事実が頭から離れなかった。考えれば考えるほど、辻褄が合わない。だからわたしは、いったん棚に上げることにした。今は、目の前の計画を進めるほうが先だ。
断罪されたあとの、退路。
わたしは数ヶ月前から、こっそり準備を進めていた。王都から遠く離れた辺境の村に小さな家を一軒。家具は最低限。蓄えも、少しずつ。手配はすべて偽名で、信頼できるのはジゼルと図書係のノアくらい。家族にも侍女にも、話していない。
断罪されて何もかも失っても、そこでならひとりで静かに生きていける。猫でも飼って。誰にも崇められず、誰も断罪せず。それがわたしの描いた、ささやかな未来図だった。
ばかげている、と自分でも思う。公爵令嬢が断罪と追放を心待ちにして、こつこつ田舎の家を整えている。普通なら、断罪は避けるべき破滅のはずだ。でも、わたしにとっては逆だった。あの華やかで息苦しい王太子妃の未来より、名もない辺境の静かな朝のほうがずっと値打ちがある。
そう信じて、ここまで来た。誰にも知られないようにひとりで少しずつ。
その日の放課後わたしは中庭のベンチで、辺境からの返信を読んでいた。家の修繕が、ひと通り終わったという知らせ。屋根を葺き直し、井戸をさらい薪小屋も建てた。小さな畑もつけられるという。読みながら、口元がついゆるむ。
春になれば、豆を植えよう。猫は、二匹いてもいい。本は王都を出るときに、こっそり何冊か持ち出して。──そんなありもしない日々を思い描く時間が、最近のささやかな楽しみだった。断罪までの、現実逃避。いや断罪こそがその逃避の入り口なのだから、矛盾している。
矛盾だらけでも、構わなかった。猫を撫でて、豆を煮て、誰にも崇められず、誰も断罪しない。そんな、なんでもない一日。わたしはこの半年、それをずっと夢に見てきた。手紙の文字を指でなぞると、その夢が少しだけ、現実の手触りを持つ気がした。あと少しで手が届く。少なくとも、この時のわたしは、本気でそう信じていた。
「いい知らせ、でしたか」
声に心臓が跳ねた。
顔を上げると、リオネルがすぐそばに立っていた。手に、布の包みを抱えている。いつから、そこにいたのか。
「殿下。盗み見は、感心しませんわ」
「見ていません。あなたのほっとした横顔を、見ていただけです」
「それを世間では、盗み見と言うんです」
「では、鑑賞、と言い換えます」
「もっと悪いです」
「観賞用のあなたが、あまりに見事なので、つい」
「観賞用でもありません」
いつもの、噛み合わない応酬。わたしは、つい肩の力を抜きかけた。この人と話していると、断罪のことも告発のことも、ほんの一瞬、頭から抜け落ちそうになる。
その油断が、いけなかったのだと思う。
わたしは慌てて手紙を畳んだ。彼はそれを追いもしなかった。代わりに抱えていた包みを、そっとベンチに置いた。
「これを、あなたに」
開けると中から出てきたのは——分厚い、毛織りの肩掛けだった。素朴だけど、上等な品。それと油紙に包まれた、保存のきく茶葉がいくつか。
「辺境の冬は、王都よりずっと寒いそうですね」
時が止まった気がした。
「……なんの、話ですか」
「あなたが断罪されたあと、移り住むつもりのあの家の話です」
全身から、血の気が引いた。
辺境の、家。誰にも、言っていない。父にも母にも、侍女にも。ジゼルとノアだけが知る、わたしの最後の切り札。それをなぜ、この人が。
「その秘密、誰にも言ってない」
声が震えた。
「なのに、どうして」
リオネルは静かに笑った。いつもの、推し全開の笑顔じゃない。もっと穏やかでもっと痛みをこらえるような、そんな笑い方だった。
「あなたが断罪されたがっているのは、知っています。ずっと前から。婚約破棄も嫌われ工作も全部あの家にたどり着くための、準備でしょう」
「……っ」
「だから、僕にできることをしました。あの家が、少しでも暖かいように。あなたが、寒い思いをしないように」
「どうやって、調べたんですか。手配は全部、偽名でしたのに」
「調べていません。ただあなたを、見ていただけです」
「見ていただけで、辺境の家までわかるわけ——」
「あなたが、最近よく北の街道のほうを眺めていたこと。手紙を受け取るたびに、ほっと肩の力を抜くこと。社交界の宝石にも流行のドレスにも、まるで興味を示さないこと。──ひとつずつ繋げていけば、答えは自然とひとつになりました」
観察日記の、あの厚みを思い出した。靴紐の一行までを書き留める、あの執念を。あれだけ見られていたら隠し事なんてできるはずがなかったのだ。
わからなかった。何ひとつ、わからなかった。
この人は、わたしの推しだ。わたしを推して隣にいたがって、観察日記を書く人だ。なのにわたしが自分から離れていく準備を手伝っている。わたしがいなくなる未来のために、毛織りの肩掛けを選んでいる。
「なんで、そんなこと」
言葉がうまく出てこない。怒っているのか戸惑っているのか、自分でもわからない。
「あなたの幸せが、僕の幸せだと言ったでしょう」
リオネルはそれだけ言って、立ち上がった。
「理由を知りたいですか。僕が、あなたを推す理由を」
「……知りたい、です」
「いつか半分だけ、話します。今は、まだ」
夕日が彼の銀の髪を橙に染めていた。風が、若葉の匂いを運んでくる。穏やかで優しくて、なのにどうしてか泣きたくなるような夕暮れだ。
わたしは毛織りの肩掛けをぎゅっと抱きしめた。
あたたかかった。それがただずるい。
嫌われたいのに。断罪されたいのに。
この人は、わたしが逃げる手伝いまでして、なおわたしを推してくる。
肩掛けの毛は、頬に触れるとやわらかかった。きっと何軒も店を回って、いちばん暖かいものを選んだのだろう。わたしのいない未来のために。わたしが彼の前から消える、その日のために。
推しに貢がれるグッズなら、笑って受け取れた。でもこれは、違う。これは別れの支度だ。わたしが望んだはずの、別れの。なのに、ちっとも嬉しくなかった。
胸の奥がぎゅうっと絞られるように痛む。この痛みに、まだ名前をつけたくなかった。
わたしの完璧だったはずの計画は、この夕暮れに静かにひびが入った。
次話:「早まる、断罪の足音」




