第8話「塩対応に、栄養はない」
その夜の舞踏会でわたしは決めていた。今日こそ過去最高の塩対応を叩き込む、と。
広間には磨き上げられたシャンデリアの光が満ちて、楽団の調べが人々のさざめきの上を流れていた。香水と蜜蝋の匂いが、混じり合って少し息苦しい。床は踊る靴底で磨かれて、鏡のように人影を映している。
わたしは壁際に立って、深呼吸をひとつした。
舞踏会は悪役令嬢にとって、本来は主戦場だ。ヒロインに嫌味を言い、取り巻きを従え高慢にふるまう。そういう場のはずだった。なのにわたしは嫌味を言う相手が婚約者の王太子で、その嫌味がことごとくご褒美に変換されてしまう。戦場どころか片思いされる側の、針のむしろだ。
それでも、今日はやる。塩の在庫は、たっぷり仕込んできた。
リオネルは当然のようにわたしの隣に来た。
「一曲、お相手願えますか」
「お断りします」
即座ににべもなく。扇で顔を半分隠して、視線も合わせない。氷点下の対応。これで普通の殿方なら、二度と誘ってこない。
「では、壁の花を、ご一緒に眺めても?」
「ひとりで眺めてくださいませ」
「では、あなたが壁を眺めるのを、隣で眺めても?」
「気持ち悪いです」
「うれしいです」
会話が成立しているようで、まったく噛み合っていない。塩を浴びせるほど、この人の表情は生き生きとしていく。
「殿下。本気で申し上げますが、わたくしの塩対応に、栄養はございません」
「いいえ。滋養がたっぷりです。僕はあなたの『お断りします』を、月に一度は摂取しないと、生きていけない体になりました」
「医者に診てもらってください」
「診てもらいました。『恋です』と」
藪医者だ。あるいは、忖度の達人。
「殿下。本気で心配なのですが、わたしへの執着以外に、人生の楽しみはないんですか」
「あります。あなたが扇を開く角度を、観察することです」
「それも、わたし関連では」
「では、あなたが紅茶を飲む横顔を――」
「ぜんぶわたしじゃないですか」
堂々巡りだった。この人の人生の楽しみは、わたしという一点に、見事なまでに集中している。栄養が偏りすぎて、いつか倒れるんじゃないかと、いらぬ心配までしてしまう。栄養失調の推し、という字面の地獄を、わたしはつい想像してしまった。
わたしが頭を抱えそうになったとき、衣擦れの音とともにつんと冷たい香りが近づいてきた。
「ごきげんよう、ヴァルモア公爵令嬢」
アシュフィールド侯爵令嬢、ロザムンドだった。金の髪を完璧に結い上げ、深紅のドレスをまとっている。微笑みは相変わらず、目まで届いていない。
「殿下。少し、ヴァルモア様と、女同士のお話を」
リオネルが離れるとロザムンドは扇を広げ、その陰で声を落とした。
「ずいぶんと、殿下に冷たくなさるのね。もったいない。わたくしなら、あの方を大切に大切に、お慕いするのに」
「どうぞ、お慕いになって。むしろ、お願いしたいくらいです」
本音だった。誰かが代わりにリオネルを攻略してくれるなら、こんなにありがたい話はない。わたしは晴れて婚約者の座を追われ、断罪のレールに——。
ところがロザムンドの目がすっと細くなった。
「あら。婚約者の座を、譲ってくださるの?」
「ええ。喜んで」
「では、こうしましょう。あなたは近いうちに、然るべき形で、その座から降りることになる。──ご自分の意思とは、関係なく」
扇の陰の声が、ひやりと温度を下げた。
「ヴァルモア家のお父様、最近、ずいぶんと商いを広げていらっしゃるとか。手を広げれば、足元も、もろくなる。何が起きても、おかしくありませんわね」
心臓が、ことりと嫌な音を立てた。
婚約者の座を降りるのは、いい。望むところだ。でも今この人が匂わせたのは、それだけじゃない。家。父。商い。わたしひとりの退場じゃなく、家ごと足元から崩す——そういう種類の悪意だった。
わたしが望んでいる断罪は、こんなものじゃない。わたしが消えて家は無事でみんなが少しだけほっとして終わる、穏やかな出口だ。猫を飼って辺境で本でも読んで暮らす、あの未来図だ。この人の言う「退場」は、もっと冷たくてもっと深い穴のにおいがした。家ごと根こそぎ。父の事業を狙い撃つような、計算された悪意。
断罪は望んでいる。けれど、こういう断罪じゃない。同じ言葉なのに中身がまるで違う。手のひらに、じっとり汗がにじんだ。
「……ご忠告、どうも」
わたしはかろうじて、声の平静を保った。
ロザムンドは満足げに微笑んで、リオネルのもとへ戻っていく。深紅の裾が床を滑る音が、やけに大きく聞こえた。
入れ替わりに戻ってきたリオネルが、わたしの顔をじっと覗き込む。
「セリーヌ嬢。今、笑っていません」
「……当たり前です」
「アシュフィールド嬢に、何か言われましたか」
「いえ。なんでもありません」
なんでもなくは、なかった。でも、言えない。
この人を巻き込みたくない、と思った自分に気づいて、わたしは少し戸惑った。巻き込むも何も、わたしはこの人から逃げ出したいはずなのに。
シャンデリアの光が、やけにまぶしくて、目の奥がちりちりと痛んだ。
舞踏会のあと、リオネルが馬車まで送ると言ってきかなかった。
夜風が、火照った肌に心地いい。馬車の前で彼はいつもの推し全開の笑みをふっと収めた。
「アシュフィールド嬢に、何を言われたかは、聞きません」
「……」
「でも、ひとつだけ。あなたが、ご自分のことで悩むのは、いいんです。それは、あなたの自由だから。──でももしあなたの大切なものが脅かされているなら、それは僕にも、関係のあることです」
わたしは思わず、彼の顔を見上げる。
その目には、いつものふざけた熱がない。静かで揺るがない、王太子の目だった。さっき広間で見せていた、ふやけきった推しの顔とは別人みたいに。
「殿下は、たまに、急にまともになりますね」
「あなたの前以外では、いつもまともですよ。これでも、一国の王太子なので」
冗談めかして言って、彼はまたいつもの締まりのない笑みに戻った。
馬車に揺られながら、わたしはその言葉を何度も反芻していた。あなたの大切なものは、僕にも関係がある。ロザムンドが匂わせた、父のこと家のこと。ひとりで抱えるには、たしかに少しだけ重たかった。
窓の外を、欠けた月がゆっくりと流れていく。
次話:「婚約はこちらから、破棄したい」




