第29話「平穏より、騒がしいほうを」
ひと月が過ぎて、ヴァルモア家の再調査は無事に終わった。
告発はすべて捏造と認められ、家の名誉も回復。商会の不正の疑いも晴れて、父はほっとした顔でわたしの頭を撫でた。子どもの頃みたいに。
そして——皮肉なことに。今ならわたしは、穏便に婚約を解消できる立場にいた。
断罪の筋書きは完全に潰れた。わたしはもう、破滅する悪役令嬢じゃない。名誉も家も無事。この状況でなら政略結婚の解消を申し出ても、誰も傷つかない。リオネルの立場も時間が経てば回復するだろう。
半年前の、わたしの願い。穏やかな出口。猫を飼う、辺境の静かな暮らし。──それが今、すんなりと手に入る。
半年間、追いかけては逃げられ、また追いかけた出口。今は扉が静かに開いている。くぐれば自由だ。猫と本と、誰にも崇められない静かな朝。半年前のわたしが何より欲しがった未来。
わたしはその出口の前に立っていた。けれど、足はもうそちらを向いていない。
おかしなものだ。あれほど欲しがった出口が目の前で扉を開けて待っているのに、ちっとも心が動かない。わたしの欲しいものは、いつのまにかすっかり入れ替わっていた。静けさより、騒がしさ。孤独より、隣の誰か。──たった半年でこんなに変わるなんて、半年前のわたしが知ったら腰を抜かすだろう。
人の心はわからない。あんなに確かだと思っていた『欲しいもの』が、半年でまるごと入れ替わってしまう。前世の知識も周到な計画も、この一点だけは予測できなかった。──恋というのは、たぶんそういうものなのだろう。理屈の外から突然やってきて、人生の地図を勝手に書き換えてしまう。
「……というわけで、殿下」
わたしは王宮の庭でリオネルと向き合っていた。秋の風が、色づきはじめた木々をさらさらと揺らしている。
「今なら円満に婚約を解消できます。わたしの家も無事。あなたの立場も、わたしと縁を切れば楽になる。半年前からわたしが望んでいた、いちばん穏やかな結末です」
リオネルの顔から、すっと表情が抜けた。
ああ、この顔を見るのはつらい。完璧な王太子の仮面の下で、必死に衝撃を押し殺している顔。覚悟していたのだろう。いつかわたしが出ていくことを。彼はずっと、わたしの逃げ道を案じてくれていたのだから。
「……そう、ですか」
彼はかすれた声で言った。
「あなたがそれを望むなら、僕は止めません。あなたの幸せが、僕の——」
「最後まで言わせません」
わたしは彼の言葉を遮った。そして半年間、ずっと言えなかったことをようやく口にする。
「望んでいたんです。穏やかな出口を。誰にも干渉されない、静かな暮らしを。──でも、気づいてしまったんです。わたしが本当に欲しかったのは、静けさなんかじゃなかった。うるさくて、騒がしくて、めんどくさい毎日のほうだった」
風がわたしの髪を揺らす。
「観察日記をつけられて。変なグッズを贈られて。塩対応をご褒美だと喜ばれて。蜂蜜を入れすぎた湯を飲まされて。──そんな騒がしい日々のほうをわたしは選びます。平穏なんて、もういりません」
言いながら、声が震えた。半年前の自分が聞いたら正気を疑うだろう。断罪されたくて、出口を探して必死だったあの令嬢が。今は自分から、その出口を閉じようとしている。
でも、これがわたしの本心だ。前世の知識でも、破滅回避の打算でもない。ただ、この人の隣にいたい。それだけの、シンプルで止められない気持ち。──たぶん、彼がずっとわたしに向けてくれていたのと同じ種類の。
告げながら、心臓が痛いくらいに鳴っていた。プロポーズみたいな台詞を自分から言う日が来るなんて、前世でも今世でも想像したことすらなかった。でも、後悔はない。むしろ清々しいくらいだ。ずっと逃げ腰だった自分が、生まれて初めて自分の足で、欲しいもののほうへ踏み出している。その実感が、こわさよりずっと心地よかった。
リオネルが息を呑んだ。
その横顔がゆっくりとくずれていく。完璧な王太子の仮面がぽろぽろと剥がれ落ちて、中からただ一人の青年が顔を出す。信じられない、というふうに。夢でも見ているのか、というふうに。わたしのたった一言が、半年間彼が必死に守ろうとしてきた未来をたぐり寄せた。その実感が彼の顔に、じわじわと広がっていくのが見えた。
「だから、婚約は解消しません。政略だからでも、破滅を避けるためでもなく。わたしが自分の意思で、あなたの隣にいたいから。──これは、わたしの初めてのわがままです」
わがまま。そう、これはわたしのわがままだ。家のためでも、世間体のためでもない。ただ、わたしがそうしたいから。生まれて初めて、誰かのためじゃなく自分の心のために選んだ道だ。
言い切って、わたしは彼の名を呼んだ。「殿下」じゃなく。半年間、一度も呼ばなかったその名を。
「リオネル」
彼の目が大きく見開かれた。
「これからもよろしく。わたしの、推し馬鹿な婚約者さん」
次の瞬間、リオネルがくしゃりと笑った。泣きそうな顔で。それからたまらない、というふうにこう言う。
「……今のあなた。今日の、いえ、人生でいちばん尊いです」
「メモは、しなくていいんですか」
「いりません。今の言葉は手帳じゃなくて、ここに刻んだので」
彼が自分の胸をとんと叩く。
その仕草があんまり彼らしくて、わたしは噴き出してしまった。手帳に書く代わりに胸に刻む。観察日記魔の王太子が言うと妙な説得力がある。秋の庭でわたしたちはしばらく、ただ笑い合っていた。断罪も黒幕も、まだ何ひとつ終わっていない。でも、この瞬間だけは世界でいちばん平和だった。
断罪を願って始まった物語が、こんな結末を迎えるなんて。半年前のわたしは想像もしなかった。出口を探して、もがいて、逃げて。その果てに辿り着いたのは出口の外じゃなく——この、騒がしくてあたたかい隣だった。笑い合うわたしたちの頭上を、色づいた葉がひらひらと舞い落ちていく。
断罪の夜に怯えていたのが、もうずっと昔のことみたいだった。今はただ、この騒がしくて優しい隣が、どうしようもなく心地いい。出口の外に広がっていたはずの自由より、ここでの一日のほうがずっと価値がある。そう、心から思えた。
秋の風が二人の間を、あたたかく吹き抜けていった。




